第四話 行き倒れの少女
どさどさ、と本が音を立てて落ちた。
その音に少し驚いたように藍は視線を上げた。
「――ユキが本を落とすなんて珍しいわね」
「はは……寝不足かも」
僕はわずかに痺れた手を振りながら苦笑すると、くすくすと藍は笑って見せた。
「枕が変わると寝れないの?」
「藍が傍にいてくれないとよく寝れないのかもしれないな」
「ふふ……私以外にそんな事言ったら、気持ち悪いと一蹴されるわよ?」
「…………」
さり気なく毒を吐く藍に閉口しながら本を拾い上げて埃を払った。損傷はなさそうだ。良かった。
それを元の場所に戻していると、藍はちらりと室内にある時計を見上げて言う。
「そろそろ、城内の視察に行こうかしら」
「分かった」
僕は頷くと踵を返す。城内の視察には護衛の存在が不可欠だ。その護衛の愛莉は隣の部屋に常に待機しており、緊急事態があればすぐに飛び出せる状況にある。だから、僕は隣の部屋に赴こうとしたが。
「……護衛様も熱心な事で」
「あ」
愛莉は何故か壁に耳をつけて扉の外で固まっていた。が、すぐに体勢を立て直すとコホンと咳払いした。
「し、視察だな?」
「……まぁ、そうだけど……」
「――何も触れないでくれ」
「はいはい」
僕は苦笑しながら二回頷くと、扉を開けて彼女を招き入れるのであった。
藍や愛莉と共に城を視察して回ること数時間。昼食を挟んでまた城を回ったり、姫が兵士達と話すのを眺めていればすぐに日は暮れていってしまう。
夕食後、暫し経って厨房に移動し、シェフと話す藍を眺めながら僕は脇に立つ愛莉に声を掛けた。
「愛莉」
「ん?」
彼女は長い黒髪をそっと払いながらこちらに流し目をくれる。その彼女に言葉を紡いだ。
「今日も家に帰っておきたいんだが」
「……ふむ? 何か用事でもあるのか?」
「まぁ、そんなとこ。面倒なものを昨日、背負い込んじゃったから」
「ね、猫か……?」
きらんと目を輝かせる愛莉。そうか、こいつ猫好きだったなぁ……。
僕は少し考え込んで首を振った。
「もっと大層に面倒かも知れないから、明言は控えておく」
「そ、そうか。猫だったら、いつか触らせてくれ。お願いだぞ?」
愛莉が爛々と目を輝かせて僕ににじり寄りながら言った。僕はわずかに後退りしながら頷く。そして話し込む藍の方へ視線を向けて言った。
「そろそろ就寝の時間……しっかり姫を寝かしつけてくれよ」
「分かっている。それは私達二人が任ぜられた姫護の務めだからな」
愛莉は嬉しそうに頷いて僕の胸にとん、と拳を押し当てて笑って見せた。
「今日は任せろ」
頼もしい愛莉に任せて、僕は城から出て家へと急ぐ。
家は城から二十分ほど歩いた城下町の住宅街の一番、城から近い場所の物を借りている。川の傍に建っている掘っ立て小屋に近い住居で、まぁ、言わずもがな、ぼろくて狭い。その小屋の前に辿り着いて扉へと手を伸ばす。
彼女が待っているかどうか、よく分からないが……。
少なくとも、食事を食べていってくれれば嬉しいなぁ……。
そんな事を思いながら、我が家の扉をゆっくりと引き開いた。
結果から言ってしまえば、それらの懸念は全て無用であった。
なぜならば、彼女はまだ昏々と寝ていたのだから。
「全く――」
僕は少し呆れながら部屋の真ん中に腰を下ろす。もう日は沈んでおり、辺りは暗い。そのため、外からはガス灯の明かりが注ぎ込んでいた。その中での彼女の可愛らしい寝顔はなかなか映えるものがあった。
「何でこんな傷を負って……」
僕はため息混じりに寝台に寄ると、その少女の頬をそっと撫でた。撫で心地の良い肌が手に優しい。
妹がいたら、こんな感じだったのだろうか……。
ふと思い起こせば、生き別れになる前の妹がぼんやりではあるが、脳裏に浮かぶようであった。
『お兄ちゃん……』
そう儚げに笑うような、ちょっと藍に似ている感じだったかな。
そんな事を思い出していたせいで、僕はその少女がうっすらと目を開けている事に気付かなかった。
「――は……え……?」
「ん」
視線をそちらに向ければ、身動きして少女は身体を起こしていた。眠たげに目を擦り、こちらを見る。僕は少し安心して笑いかけた。
「大丈夫かい? 熱は……なさそうだけど……」
僕は手を伸ばして軽く彼女の額に触れる。うん、特に発熱などはなさそうだ。
「――……ッ!?」
その瞬間、ばっと少女は跳ね起きて勢いよく僕から距離を取った。それに驚いて僕も反射的に構えを取る。
少女は目を見開いて辺りをきょろきょろと見渡し、そして僕をまじまじと凝視した。
「そ、そんな警戒しなくても……」
僕は思わず苦笑すると、少女は僕をじっと見つめながらそっと用心深くそろそろと近づいてくる。僕もその少女の顔を見つめながら構えを解いた。
しかし、見れば見るほど可愛い子だな。端正な顔立ちだが、幼さが抜けきっていない健康的な美少女、というような感じを覚える。黒い髪は短く切り揃えられ、短い前髪の下で鋭く輝く瞳は何となく猫のような印象があった。
「――……ッ」
その瞬間、彼女は短い悲鳴を上げて腹を押さえた。そこは風穴が空いていた部分だ。僕は気遣うように、そして警戒されないように言った。
「手当てさせて貰ったよ。少し脱がせたのは必要悪だけど……その辺は謝っておくよ」
一応、元通り肌着は着せておいた。胸回りにはさらしが巻いてあって心配はなかったが……結構、大きそうだったぞ。発展途上を思わせるのに。
少女はその肌着を捲って包帯が巻かれたそこをそっと指先でなぞり、わずかに顔を顰めた。そして、恐る恐るこちらを向いて、ゆっくりと確かめるような声で訊ねてきた。まるで慎重に、探るかのように。
「貴方が……助けてくれた、の?」
思ったよりも澄んだ大人びた声が僕の鼓膜に心地よく響く。僕は笑って一つ頷くと、彼女はその場ですすっと正座になるとその場で三つ指をついた。
「感謝致しまします。ええと――」
「癒希人。森坂癒希人だよ」
僕の名前を名乗ると、少女は少し安堵したように笑って頭を下げ直した。
「癒希人様、感謝致します。私はユミ……ユミと申します」
「そんな堅苦しくなくて結構」
僕は手を振って笑って言うと、少女……ユミは眉に皺を僅かに寄せて言い返してくる。
「しかし――」
だが、その瞬間、きゅるるる、という可愛らしい音がその言葉を遮った。
僕は尚も笑いながらわずかに頬を染めるユミの頭をそっと撫でると、振り返ってまだ卓袱台の上に置いてある食事を示した。
「ほら、食事もあるから……是非食べて」
「――……」
「ユミ……ちゃん?」
返答がない。僕は振り返ると、また彼女は僕をまじまじと見つめて、いや、僕の手を見つめてその場で固まっていた。
「おーい、ユミちゃん?」
頬に手を添えると、彼女ははっとしたようにその頬に添えられた手を慌てて払った。
あれ、気を悪くさせちゃったかな。
「ごめん、気安く触っちゃ駄目だったかな?」
「――大丈夫、ですか?」
「え?」
「だって――」
彼女は何か言いたげに言葉を続けようとしたが、口を閉ざして思案するように少し俯いてしまった。
――ユミは、何が言いたいんだか……。
僕は不思議に思っていると、ぽつりと彼女は言った。
「ユミ」
「ん?」
「ちゃん、は要らないです。ユミと呼んで下さい……」
「そしたら、堅苦しいのは抜きにしてくれる?」
「それは――」
少し困ったように視線を泳がせるユミ。
なるほど、礼儀正しい子なのか、頑固な子なのか。まぁ、面白い子だ。
僕は苦笑して一つ頷くと、その手を引いて言った。
「さ、早く食べよ、ユミ」
「――はい、申し訳ありません、癒希人様……」
「癒希人様ってのは仰々しいから、別の言葉にしてくれよ。それが妥協点。あ、後、少しでも甘えてくれればそれで嬉しいかな」
少し戯けるような口調で言いながら僕は彼女を卓袱台まで招くと、ユミはそろそろと寝台から降りて食事を前にしながら少し俯いて躊躇する。が、ちらりと上目遣いになって彼女は囁いた。
「えと、頂いても良いですか? 兄様……」
兄様、か。僕は少し可笑しく思いながら、首肯して見せた。
「良いよ、一緒に食べようか。ユミ」
「――はいっ」
ふわりと花が咲くように彼女の顔が綻ぶ。
その笑顔は夜の中で咲く薔薇のように感じたのだった。