第三話 道で流れる血
「姫様」
僕と愛莉で本を仕分けている中、少し手が空いた様子の藍に声を掛けた。
藍は教本を机の上に並べて書き物をしていたが、ん? と小首を傾げて顔を上げる。その彼女に軽く頭を下げて言った。
「明々後日、休暇を頂きたいのですが」
「明々後日……ええ、構わないわよ。お出かけかしら?」
「ええ、そんな所です」
僕は首肯すると、愛莉は少し落ち着きをなくしてそわそわと本を取り上げては元の場所に戻している。藍はそれに気付いて軽く声を掛けた。
「愛莉、そこの山はもう良いわ」
「は、はいっ!」
少し裏返った声を上げる愛莉。藍はわずかに怪訝そうにするが、すぐに別の山を指差して指示を出す。愛莉はわたわたとそちらへ移動していく。が、その顔が嬉しそうに緩んでいるのがよく分かった。
藍はくすりと笑うと、教本に視線を向けながら僕に言った。
「じゃあ、今日は家に帰っても構わないわ。お出かけなら色々支度があるでしょう?」
「そうですね。そうさせて頂きます」
僕は基本的にこの城で泊まり込みだが、衣服等々は近所の家に置いてある。兄が一年前までは暮らしていたが、今は同盟国のムーディア帝国首都で聖水などの聖製品を作っている。なので、今は倉庫のようになっている。
藍はニコリと笑うと、わずかに身を乗り出して小さな声で耳元で囁いた。
「お土産、期待しているわよ」
「――藍は、生菓子が好きだものな」
愛莉に聞こえないようにこっそりと囁き返す。まるで恋人同士のような会話。藍は少し嬉しそうに微笑んで頷いて見せた。
そしてすぐに身を引くと教本に再び向かい合うのであった。
「じゃ、また明日。愛莉」
「うむ、またな」
今日の務めを終え、夜遅くに僕は上機嫌そうな愛莉に見送られ、城を出た。夜の街道はガス灯が灯ってなかなか幻想的である。運河の辺りなんか、とっても綺麗なのだ。
明々後日、愛莉をそこに連れて行くのも悪くないかも知れない。彼女は男勝りだが、何だかんだでそういうロマンチックなのが好きなのだ。というか、嫌いな女の子はいるだろうか?
そんなことを考えていたせいで、うっかり左の草陰からの物音を聞き逃す所であった。
「ん?」
僕は視線をそちらに向ける。この脇は確か、城の周りにある獣道である。それは城脇にある墓や溜池などに繋がっており、そして防衛上でも伏兵の仕掛ける場所としてゲリラ戦で大いに役に立つとか。
そんな獣道で何故、物音がするのだろうか? ウサギ?
僕は小首を傾げながら、腰からつり下げていた携帯用ランプに火を点し、そして同時に護身用として帯びている剣の柄を掴んでそろりとその側道へ入る。
そこは何もいない――否、微かに足跡が残っている。
そしてどす黒い何か……恐らく、血液。
僕はその後を追いかけて闇の先を見通そうとランプを高く掲げると、視線の先にある茂みから黒い何かがぬうと突き出ているのが分かった。
「足……?」
慌ててそれを確認するべく近づく。剣を抜いて茂みを切り払うと、そこにあるものが明らかとなった。
小柄な、人間、だ。
黒ずくめの装束に身を包み、顔もフードとマフラーで入念に隠されている。剣を鞘に収めてからその傍に屈み、そのマフラーを丁寧に退けてみる。
その下にあった顔は幼い少女の顔であった。健康的な小麦色の肌だが、どうも顔色が悪く、浅く小さな呼吸を繰り返している。
「おい、大丈夫か、おい」
僕は何度かその身体を揺すってみる。だが、意識は戻らない。出血多量の線を疑うべきか。
幸い、ここからなら家まで近い。そこで処置をしよう。
僕はそう思い立つと彼女の小さな身体を慎重に抱え上げ、出来るだけ揺らさぬよう、それでも早足で帰路へとついた。
「悪いね」
僕は家に着くなり、彼女を寝台に乗せると服を脱がせていく。上着を脱がせ、肌着を脱がせるとその健康的な小麦色のお腹に大穴が空いていた。布が強く宛われていたが、血が染みだしている。
その布を取り払うと、僕は思わず呻き声を上げた。
「こりゃ酷い……!」
その傷口の周囲の組織を巻き込んで完璧にそこは破壊されていた。傷口の周りは変色しきっており、壊死した組織は何か嫌な臭いを発している。こんなの、凄腕の魔術師でもないと出来ないぞ……?
異世界では魔術師というのは仮想の存在とされることはあるが、この国には厳しい訓練を積んだ魔術師として資格を持ち、登録された者もいる。それは数えられるほどで、全員が城を守るために動いている。しかし、こんな子に魔術を撃ち込むとはどうかしている。という事は、登録されていない魔術師……?
「うっ……」
少女の微かな呻き声で僕は我に返った。見ると外気に触れたせいか、傷口からどろっとした血が流れ始めていた。僕は慌ててそれを清潔な布で力強く押さえると、手を伸ばして棚から救急箱を取りだした。
ともあれ、早く治療しないと……。
「少し我慢してくれよ……」
僕は箱の中から聖水を取りだし、脱脂綿にそれを含ませると傷口の周囲に抉り付けるように押しつけていく。
「――……ッ!」
声にならない悲鳴を上げる少女、それに心を痛めながら僕は消毒を続けていった。
消毒を終え、縫合を済ませ、ついでに増血剤、栄養剤を打った頃にはもうすでに空が明るくなり始めていった。
その場で座り込んでいた僕は眠い眼を擦りながら、針を外してから注射器を救急箱を放り込む。そしてその蓋を閉じてため息をつく。
少女は増血剤と栄養剤の効果が出たのか、もうすっかり息が整ってすやすやと眠っている様子だ。じっくりと休めばすぐに良くなるだろう。
だが、数々の処置で寝台のシーツはすっかり汚れてしまっている。あーあ、取っ替えないとなぁ……。
僕は欠伸をかみ殺して立ち上がる。そろそろ登城しないと。
「その前に……飯喰うかな」
僕は呟きながら貯蔵庫の方へと向かう。滅多に帰らないため、そこには日持ちする漬け物、干物、燻製などしか置いてない。それを取りだして少し悩んで背後を振り返る。
そこには気持ちよさそうに眠る少女の姿がある。
「起きたら、腹減っているだろうなぁ……」
僕は少し笑うと首を振ってからもう一つ分の薫製と漬け物、そしてこの国の主食の穀物を取り出す。そしてそれを卓袱台の上に置いておくと、メモを走り書きしてそこに添えておいた。
自分の名前、城に勤めている事、倒れていたから処置しておいたということ、食事をしっかり食べてくれ、ということ。
必要だと思える事を示しておいて、僕は少し迷ったがペンを置いた。
暫く是非ここで療養するように、と記そうかと思ったが、ここに残るかどうかは彼女次第だ。引き留めるようなことを書いては悪いかもしれない。
「早く元気になってくれよ」
僕はそっとその少女の頬を撫でて笑うと、大急ぎで食事の支度を調えて腹に詰め込んでから、家を飛び出す。が、その扉を閉める前に振り返って呟いた。久しぶりに呟くその言葉を噛みしめるように。
「行ってきます」