第00話 「Vicissitudes」 ~地を這う少女と冬の海。
とある大陸の最東端。
この大陸は、地球に太古の昔存在したとされるローレンシアと呼ばれる大陸に酷似している。
南北の尺度を縮めたオーストラリア大陸形を想像しても良い。
そんな擬似ローレンシア大陸の東の果てを拡大すると、先端に緩やかに湾曲した細い岬を二本生やした半島が東の海へと突き出ている。
上空から見れば、口を大きく開いた水鳥の頭を真横から見たような地形だ。
半島の根本――鳥の首元――には、まるで訪れるものを拒絶するかの如く、切り立った山が南北に連なっており、半島部と大陸との行き来は、唯一その山々の深い谷を縫うようにして抜けるルートしか無い。
そんな山々と海の狭間、小じんまりとした砂浜の一帯には風が吹けば今にも飛びそうな小屋が疎らに建ち並ぶ。見るからに閑散とした雰囲気の漁村だ。
人口はニ百に満たず、村が有する船も木をくり抜いただけの丸木舟と粗雑な筏が数隻のみ。正直漁村を名乗るのも烏滸がましいレベルだが、農村と呼ぶには圧倒的に田畑が足りない。どっちつかずな状態でなんとか凌いでいる寒村だ。
大国が起こす戦、流行病、増える化獣、そして飢餓。
理由は様々だが、行き場を無くした者達が流れ流れて辿り着き、塩気の強い荒れた土地に、しがみ付いては細々と暮らす。
そんな小さな村落は、その存在を知る僅かな者たちの間ではアイビス村、と呼ばれている。言うまでもなく、特異な地形が名前の所以だ。
この上なく辺境であり、唯一の街道も最悪、居住環境はもっと劣悪。購買力も無ければ目立った産出品や産業も無い。
流浪と行商を生涯の生き甲斐として各地を飛び回る稀有な種族ですら、この村に足を運ばなくなってから久しい。
しかし、この筆舌に尽くし難い苛烈な環境こそが招かれざるモノの侵入を未然に防ぐ天然の要害となっている事も事実なのだが。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「アイビスの長、グラース様。此度の事、深い感謝を……えっと、我ら一同……その、精一杯頑張る所存で……あぁッ! もう無理!」
そこまで言うと少女は深々と下げていた頭を勢い良く上げ、向かい合う老婆に抱きついた。
「ふぇふぇ、慣れん事はせんでもええ、アミィ。いや、アルバァタリィの里長、翼主ミトゥリアミィ殿、と呼んで欲しいかの?」
「……もう! やめてよ婆様。自分でも似あって無いのは分かってるんだから!」
長いポニーテールの先が内心を表すかのように腰の後ろで揺れる。
「それにしてもよう無事に来た。……バルトゥリィの事は残念じゃ」
「……うん。……でも大丈夫だから。いつまでも落ち込んでたらお父さんに怒られるもの」
照れながらも気丈に振舞っている少女の名はミトゥリアミィ。
背に翼を持つ希少な種族、アルバァタリィ族の翼主――翼人族の代表――を継いだばかりの一六歳だ。
健康的な小麦肌に鮮烈な赤い髪、なにより背中で折畳まれている純白の翼は見る者に強い印象を残す。
人間で言う耳の有るべき所には、代わりに翼と同色の小羽がやや下向きに付いているがそれら以外は普通の人間と変わらない。
「ふぇっふぇ、そうじゃの。なに、あやつの事じゃ。今頃は神のお国で、レリィといちゃこらしておるじゃろ」
「ふふ、きっとそうよね」
このアイビスという村の背後に切り立つ山脈、その北西部中腹に小さな村を作り暮らしていた翼の民、アルバァタリィ。
しかし、先日の大規模な山崩れで発生した土砂は、村の大部分と翼主であったアミィの父親もろとも、あっという間に呑み込んだ。
村人も多くが亡くなって、僅かに十数名を残すのみとなってしまった今、アミィは血筋を尊ぶ慣習に従って翼主の名を襲名した一族のリーダーでもある。
対して、グラース、と呼ばれた小柄な老人は見事な白髪。
頭髪の中からは牛の様な形状の太短い白い角を二本生やしている。
皺くちゃの両手で曲がった杖を突く姿は酷く疲れ、歳相応に老いて見えるが、背筋だけは真鉄の芯が通ったようにピンと伸び、確かな威厳を放っている。
「さて。さっきも言うたが、おぬしらをこの村に迎える事に依存はない。儂の孫みたいなもんじゃしの。ただし、言うておくがこことて良い状態とは言えぬ。裏山なんぞ酷いもんじゃ。見てみぃ」
皺くちゃの指で指し示す先にあるのは畑と村の背後に聳える山々。
かつて、裏山にはライラックの低木が鬱蒼と茂り、レモングラスに似た青草がびっしりと生え、動物もそれなりに生息していた。
堅い地層のお陰なのか海が近い割に、飲用に適した水が湧き出て、少しは畑に撒くことすら可能だった。だからこそこんな辺鄙な土地に根を張って生きる事が可能だったのだ。
しかし。
頻繁に天候が荒れ狂い、吹き荒ぶ風雨に乗った海水が土に染み込むに連れて、樹木はその葉を散らして枯れていった。
今や、すかすかになった山肌は赤錆の浮いた鉄のような地肌を潮風に晒している。
「冬に入ってからは山からの湧き水も減り続けておる、マナもこの通り殆ど感じられぬ。巫術に疎い儂らホルスナバリの民より、おぬしらアルバァタリィの民には辛かろう。最近では海にまで化獣が出るようになってきた。まだ小さいのがほとんどじゃがな、流石に漁には出せん」
植生が減ると食物連鎖の例に漏れず、まずは小動物が、続いて大型の動物が、と自然のサイクルは急速に崩れていった。
完全に巫術が使えなくなれば稀に谷を抜けてくる化獣を撃退する事も出来なくなり……、村民たちは仲良く化獣の腹の中に収まる事になるだろう。
もっとも。――――こんな光景は昨今の大陸ではさして珍しいものではない。
「……そんな。そこまで酷いなんて知らなかった……」
行き場を失った自分たちを受け入れてくれるのは有難いが、他を当たったほうが良いかも知れない。アミィはグラース達アイビスの人々を巻き込んでの共倒れを望んではいる訳ではないのだ。
確か、西にサルハーンという村の跡地があったと父親から聞いた事がある。
最悪でも、神聖セト国まで辿り着けばいい。
彼の国は戦が耐えないと聞くが増え続ける化獣にも常勝しているとも聞く。空を飛べる希少な種族であり、また若い女でもある自分が奴隷落ちすれば、少しは仲間の首も繋がるかも知れない。
アミィの脳裏に暗い想像が浮かぶ。
だが、そんな浅はかな思考を読んだかのようにグラースが話しだす。
「ええかアミィ、勘違いしてはならん。酷いのはなにも此処だけの話ではないぞ。内地も徐々に酷くなっておると聞く……昨年の話じゃが。西の果てでは大きな山が火を吹いたとも聞いておったしの、もう今はどれほどかも分からん。じゃがの」
グラースは曲がった腰を少し伸ばすとミトゥリアミィの目をじっと見つめる。
「こんな時じゃからこそ、土を耕し種を撒き、草を引いて麦を刈る。漁に出て魚を取り、それを皆で食べる。化獣を追い払い、皇国に抗うてでも儂らは生きねばならぬ。それが生き残ったもんの責じゃ。出来ねば死んでおるのも同じ、儂はそう思う。どうかの?」
御見通しか。
この寒村の老婆は、自分たちを見捨てる選択肢など端から持っていないのだ。
まだこの辺りが空を飛ぶのに不自由しない程にマナが満ちていた頃。
幼かった当時のアミィは、翼主として多忙な両親たちの隙を見ては、こっそりと里を抜け出し、頻繁にここまで遊びに来ていた。
アイビスに住むのは殆どがホルスナバリ族でグラースもその一人だ。当然アルバァタリィ族のアミィとは何の血の繋がりもない。だが、ミトゥリアミィは幼い頃からこの厳しくも優しい老婆が好きだった。
息を切らせて迎えに来る父のゲンコツは、いつも涙が滲むほど痛かったが、手を引かれて帰った道のりも今は懐かしい思い出だ。
「生き残った責任……」
なんの根拠もなく、自分が犠牲になれば、なんて軽々しく考えるべきことでは無かったのだ。短慮な自分に少し嫌気が差す。
厳しい辺境に流れ付いた者達を束ねるグラース婆と、血筋だけ、成り行きで翼主を継いだ自分。
経験が、年季が、度胸が。何もかもが全く敵わない。
「私も同じ。婆様、我ら一同あらためて宜しくお願いします」
「うむうむ、こちらこそじゃ。さてアミィよ。村の外で待たせている仲間を迎え入れるがええ。してな、今日は休め。明日から畑を増やすのとおぬしらの小屋も建てねばならん。忙しいぞ、腰が痛うても泣くな?」
ニヤリと悪戯っぽく笑うグラースは年の割にチャーミングだとアミィは思う。その様子に思わず素の自分が出てしまう。
「わ、分かってるわよ! 自分たちの住むとこぐらい自分たちで作……」
そこまで口に出した時だった。
腹の底から揺さぶるような振動が足元、地面から伝わってくる。
「な、なに!? また、また山が崩れるの!? に、逃げないと!!」
住んでいた集落の山が崩れた時の感覚に似ている。大挙して押し寄せた土塊が無情に里を飲み込んだ時の。
「落ち着くんじゃアミィ! こりゃ……地揺れじゃ! 落ち着いて早う外に!」
「う、うん! 婆ちゃ! 掴まって!」
グラース婆に肩を貸したアミィが小屋の外に出た瞬間だった。
先程とは比べ物にならない、天に向かって突き上げるような大きな揺れが村を襲った。
「きゃああああああ!!」
「だ、大地の怒りじゃ……! 大地が……大地が唸っておる!!」
まるで空気の全てが震えているかのような体に響く低い地鳴りが体を叩く。
「なんで! ……なんでよ!」
何故。
いったいどうして。
親の死を乗り越え、これから新しい土地で生きていこうと心に決めたところなのに。
これまで感じたことのない恐怖と、形容しがたい悔しさ。
アミィの中に二つの感情が激しく入り混じる。
しばらくすると不意にぴたりと揺れが止んだ。
他の種族より感覚の鋭敏なアルバァタリィ族には、大気に充満していた薄ら寒い怒気が霧散してゆくのが分かる。
「……アミィ。大丈夫か、怪我はしとらんか」
「大丈夫。婆様、今のは?」
「……地揺れじゃ。最近ちょくちょく起こっとった。これ程大きい物は儂も初めてじゃ。裏の崖は堅い、そう簡単に崩れんじゃろうが近づくなよ」
グラースは、後ろに聳える山を過剰なまでに気にしているアミィを気遣う。
周りを見渡すと、腰を抜かして立てない青年に、ひたすら祈りの言葉をつぶやく年寄り。母親に抱えられたまま泣き叫ぶ子供達。
「婆様!」
混乱からいち早く抜けだした屈強な数人がグラースの姿を見つけ、足早に駆け寄って来る。
「怪我人がおらんか探す。おぬしらも手伝えアミィ」
既に落ち着いているアミィは一つ頷くと、村の端で待たせていた翼人の集団――里の生き残り――を村に引き入れ、村の若い衆と手分けをして、怪我をした者や崩れた家屋の下敷きになっている者の救助に当たる。
軽い木材の質素な造りが幸いしたのか、全壊した家は極一部。怪我人はそれなりにいたが、幸いなことに死者は出なかった。
ここまで強烈な自然災害に直面したのが初めてのアイビス村民と、村を壊滅に追いやった土砂災害を生き残って此処まで辿り着いたアルバァタリィ族では、やはり精神的な余裕に明確な差が現れる。
落ち着きを取り戻したアミィも積極的に怪我人の手当をこなし、おろおろするばかりの者達には、自前の気の強さを発揮し、有無を言わさず怪我人の程度や、数を調べて来るなどの簡単な指示を出してゆく。
「……薬草もこれで殆ど終わり……。もう使っちゃうか……[白ノ癒]」
アミィは体内に残っていた最後のマナを絞り出して回復巫術を掛ける。この程度の術で傷口が完全に塞がることは無いが出血は綺麗に止まっている。
近くの者に短刀を借りると、スカートのような自分の腰布を細く裂き、傷口に腐り止めの薬草を当てて縛る。
この服は母が生前、汚れを防ぐ術を掛けてくれていた物だ、傷口に直接使っても問題はない。
今や裾が大分短くなってしまった腰布はアミィにとって母の思い出が詰まった大切な物だが、物は後からどうとでもなる。二度と取り返せない命とは別なのだ。
頭を下げて礼を言ってくる村人を他に任せてグラース婆の所に引き返す。
「婆様。怪我をした人は少ないけど、このままじゃ薬草が足りないかも。マナが落ち着いたら私達が探してく……婆様?」
グラースから反応が返ってこない。
何かを凝視している視線を辿ると、村の東、二本の岬に挟まれた湾の中……ではなく、その遥か遠い外海を見つめているのが分かる。
そこには白い線が蠢いている。
「婆様あれは波? 婆様? ……婆ちゃん!」
「おぉ……アミィか。あれは……恐らく高波じゃろう。……昔、儂の母様の母様から聞いた事がある」
「なんだ、ただの波なのね」
「大きな地揺れの後に来る波からは逃げられん。あれはなんもかんも全部洗い流すとな……村は終わりじゃ………………」
「そんな、大げさよ、終わりだなんて。濡れてもまた作りなおせばいいじゃない」
村へと迫ってくる高波は、まだ距離があるせいかそれほどの高さには見えない。
津波のメカニズムなど理解している筈もないアミィに取って、波など多少大きくても、命を奪うほどの脅威ではないと思えてしまう。
アミィの声が耳に入っていないグラースと共に、腰を下ろすと目を閉じて静かに祈りを捧げ始める。
波という現象は、大陸部に近づいて水深が浅くなればなる程、湾や入江に入って幅を狭められれば狭まるほどに行き場を無くしたエネルギーは凝縮され、より高く、そしてより大きく、暴力的な破壊力を増す。
「なッ!? どうして……!?」
数分の祈り終えたアミィがゆっくりと目を開けた時、高波は、先程とは比較にならないほど存在感を増していた。
まだ相当は離れているようだが、音の波は大気を伝わり、水の波よりも先に訪れる。
対応を迷っている内に、遠雷のような音がアミィ達の体を満遍なく叩き始める。
その規模を、分かりやすく伝えるかの様に。
「ダメだ……」
「もう終わりじゃ……」
「こわいよぉおお!」
「大丈夫、大丈夫だから泣かないで……大丈夫……」
誰ともなく嘆く声や、泣き叫ぶ子供を宥める母親の声が聞こえる。
「そんな、なんで……なんでよ……」
頭が働かず、譫言のように言葉を繰り返すアミィ。
「聞けアミィ。見たところあの波は足が速い。おぬしらなら逃げきれるか」
「婆様……?」
「今から浜に村の者を集める。見られるな、その間に裏から行け」
グラースは飛べない自分たちを置いてゆけと言っているのだ。
「……無理よ。さっき残ってたマナも使い果たしちゃったもの。それに……飛べたとしても置いていける訳無いじゃない」
他種族から羨望を込めて翼の民と呼ばれるアルバァタリィ族も、単に背中の翼を羽ばたかせるだけでは到底飛ぶ事は叶わない。
空を舞う為には飛行用の巫術を用いて、マナを自らの翼に纏わせてやる必要があるのだ。
しかし今のアミィ達は壊滅した集落から山を越え谷を抜け、アイビス村まで辿り着くので既に体力も体内のマナもとっくに限界を超えている。
例え、この辺りがマナで満ちていても、自分だけ逃げるという選択肢はアミィの頭には浮かばなかっただろう。
結局、グラースとアミィ、どちらも似たもの同士なのだ。
「お前も難儀な性格じゃの。バルトゥリィにそっくりじゃ」
「あら、どちらかと言えば父様より婆様寄りだと思うの」
アミィはグラースと軽口を叩きながらも、近くにいた同族の男に、手指の信号で好きに逃げろと伝える。
無責任なのかも知れないが、どうせ今から内陸へ繋がる谷を抜けるなんてとてもじゃないが間に合わないだろうし、皆が乗れるだけの船もなければ、飛ぶことも出来ない。
サインを受け取ったアルバァタリィ族にしては大柄な中年の男は、アミィの指示を仲間達に伝えると、またその場に戻ってきた。どかりと座り込むと、アミィに向けて、ニヤリと笑った。
「ふふ、皆して強情よね」
周りを見ると、抗いようのない自然の脅威に魅せられているのか、ほとんどの者たちが座り込んで波の方を見つめている。さっきまであんなに泣いていた子どもたちも場の雰囲気に呑まれたのか、もう嗚咽一つ漏らさずに静かに座っている。
誰もが運命を呪い、生を諦め、そして死を覚悟した。
その時、沖合が眩い光に包まれた。
迫る高波の姿を遮るかの様に、海の上へ現れたのは巨大な三角型。
「な、なに?」
高波は、何の前触れもなく現れた物体に進行方向を譲れと言わんばかりに挑む……が、小島とも呼べる程の圧倒的な質量を前にすれば、波に抗う術など存在しない。
波に向け、僅かに方位角を調整した四角錐の角にぶち当たった波は、巨大な剣に両断されるかの如く二分されてゆき……その大部分は左右の波の勢いを殺した後は、飛沫となって空高く舞い散った。
衝突から一瞬だけ、ほんの一瞬だけ遅れ、水が織り成すとは思えない衝突音が村にも届く。
あまりに予想外の展開に砂浜で唖然とする村人達。
村を襲う直前の高波が消えたこと。
得体の知れない何かが現れたこと。
しかしその|何か(、、)のおかげで村が助かったこと。
「すごく綺麗……」
「……そうじゃの」
海に現れた三角は、まるで津波など無かったとでも言うかの様に、微動だにせずそこにある。
全体は濃い鉄紺色。その隙間から所々覗く白銀色の輝きが良く映えており遠目にも美しい。
登り始めた冬の陽光が、宙を漂う水飛沫を透過して、無数の煌めく光に埋めつくされる光景は幻想的で、どこか荘厳な面持ちを醸し出している。
「助かっ……たんだよな? なぁ!?」
「三角ばんざぁああい!!」
「うぉおおおおお!!」
怒号のような歓声が小さな村に響く。
アミィが遥か海上を見上げると、そこには無事を祝うかのように大きな大きな虹が掛かっていた。




