セクレタリー
私は彼が大好きだった。
彼のことは何でも知っていた。
彼の名前はハラダさんという。飲料メーカーで企画の仕事をしている人で、歳は33歳。課長なのだそうだ。
ハラダさんは明るくて活動的で友達が多くてお酒が好きで、この歳で管理職に登用されているくらいだから会社でも有能な人だった。同期入社の中では出世頭だったが、それについて妬みを受けている様子もなかった。周囲を納得させるだけの働きをしているのだから当然だ。
私の仕事はハラダさんの補佐。
「明日14時からのミーティング、30分開始繰り上げね」
「今週木曜日、○○出版のヤマザキさんが来社するから、時間確認して」
「出張先のイマイくんに資料送っといて」
「プレゼン用の写真、加工して保存して」
多忙な彼に代わってスケジュールの管理をしたり、人と会う準備をしたり、部下へ連絡事項を送ったり、必要な資料を作って管理したり。仕事はたくさんあって、私は四六時中ハラダさんの傍にいることができた。
ハラダさんとの付き合いはもう2年になる。ハラダさんが私を選んでくれたのは、私が優秀で彼の求める能力をすべて有していたからだ。ハラダさんは私の働きをとても評価して、プライベートでも何かと頼ってくれていた。
ハラダさんは私に何でも話した。会社の忘年会で飲みすぎて終電を逃したことや、趣味でやっているフットサルのチームメイトとのやり取り、好きな映画の感想なんかを、取りとめもなく、でも楽しそうに語ってくれる。
私もまた、ハラダさんの希望に応じて、彼が必要とすることを調べてあげる。
「朝ですよ、起きてください。今日は1本早い電車に乗るんでしょう?」
「今週のランチはこんなクーポンが使えますよ。いかがですか?」
「お気に入りの靴屋に新作が入荷したようです」
「大学時代のお仲間から同窓会のお誘いが入っています」
ハラダさんは私に何も言わないけれど、彼の満足と感謝は確かに伝わってきて、私はそれだけで十分嬉しかった。
彼の役に立つことが私の幸せだった。
ハラダさんにはアケミさんという恋人がいた。
アケミさんは派遣社員としてハラダさんの勤める会社に勤務していた人で、契約が終了になった後も元上司のハラダさんと付き合っている。私がハラダさんと出会う前の話だ。
2人はたいてい土曜日の昼に外でデートして、日曜の朝まで一緒に過ごす。アケミさんは実家暮らしなので、ハラダさんの部屋に泊まっていくこともあったし、ドライブで少し遠出をしてホテルに泊まることもあった。そんなプランを立てるのも私の役目だった。
彼女はとても綺麗な人だった。ハラダさんより5つ年下の28歳で、今は別の会社で事務の仕事をしている。でも、仕事をするより本当は家事をする方が好きらしく、よくハラダさんの部屋で料理をしたり掃除をしたりしている。
「朝ごはんちゃんと食べてんの? 冷蔵庫のヨーグルト古くなってるよ」
「ちょっとは片付けとかしなよね。すぐ埃が溜まっちゃうんだからね」
独り暮らしのハラダさんにそんなふうに文句を言いながら、アケミさんはどこか楽しげに掃除機をかける。私は家事の手伝いはまったくできないので、彼女の存在はありがたかった。
アケミさんは本当にハラダさんを愛しているのだ――そう、私にはよく分かった。そしていつまでも恋人のままではなく、ハラダさんの奥さんになりたいと思っている。
でもそんな彼女の気持ちに気づいていないのか、気づいていて無視しているのか、ハラダさんが私に結婚費用や新居探しについて調べてほしいと希望することはなかった。
ハラダさんにはアケミさん以外にも付き合っている人がいた。
彼は喋るのが上手くて人好きのする容貌をしていて、同年代に比べてお給料もよかったから、当然のことながらよくもてた。たくさんいる友達に誘われて、いわゆる合コンに参加することも多かった。
そんな飲み会の後は必ずといっていいほど女の人と仲良くなって、アケミさんと会わない平日の夜に一緒に遊んでいた。私はハラダさんのためにその女の人に連絡を取り、彼女の好きそうなレストランを探さなければならなかった。
とはいえ特定の誰かと長く続くことはなく、1ヶ月かそこらのスパンで相手は変わっていった。私はそんな女の人たちのことをすべて覚えていたが、ハラダさんに固く口止めされていた。
その間にも、ハラダさんは毎週平然とアケミさんに会っている。本命の恋人はあくまでアケミさんで、他の女の人は浮気というやつなのだろう。いつまでたってもアケミさんを奥さんにしないのも、こうやって遊んでいたいからなのかもしれないが、私にその気持ちはよく分からなかった。
私はハラダさんからの言いつけを守って、浮気のことはアケミさんに一言も漏らさなかった。
それでも、アケミさんは他の女の人の存在に少しずつ気づいたようだった。
どれだけハラダさんが気をつけていても、スーツに少し残った香水の匂いや、2人分の料理が記載されたレストランのレシートや、自動車のガソリンの減り具合から、違和感を積み上げていったらしい。私にはやはり理解できない感覚だ。
アケミさんはよくハラダさんを問い詰めるようになった。ハラダさんはその度に懸命に言い逃れをして、
「仕事でいろんな人に会ってるんだよ。アケミが心配してるようなことは何もないって」
とアケミさんを抱きしめる。アケミさんは釈然としないながらもそれ以上追及できない。
彼女はハラダさんを愛しているから、彼を失いたくないと臆病になっているのかもしれない。ハラダさんを追い詰めて、面倒臭い女だと疎まれて捨てられるのが怖いから。
ハラダさんもそれが分かっていて、彼女の愛情に慢心しているのだ。
私はぼんやりとそんな2人のやり取りを眺めている。残念ながら私の介入できる問題ではない。
それに、何だか最近身体の調子が悪かった。以前は2日くらい続けて働いても平気だったのに、このところ夕方にはヘトヘトになってしまう。業務量が増えたわけでもないのにどうしたことだろう。そんな時はハラダさんも私の回復を待つしかなかった。
急な指示に応えられず、困った顔のハラダさんを見るのが何より辛かった。
その日、ハラダさんとアケミさんは車で海に出かけた。
夕暮れ、海岸の堤防前に止めた車内で、2人はまたしても言い争いを始めた。原因は、来週土曜日のデートをハラダさんがキャンセルしたこと。ハラダさんは仕事だと言っているが、本当は先週知り合った女の人と飲みに行く予定なのだ。その約束は私が取り付けた。
怪しんだアケミさんにいつものように詰問されて、ハラダさんは車から出た。堤防の切れ目から砂浜へ続く階段があって、そこを降りていく。不貞腐れたような態度はハラダさんのポーズだ。こうやればアケミさんが追いかけて来ると思っている。
アケミさんはしばらく助手席を動かなかった。肩が震えている。
彼女は右手で目元を拭って鼻をすすり、いきなり私に話しかけた。
彼が他の女の人と会っている証拠を出せと言う。あなたなら全部知っているはずだと。
私は当然黙っていた。ハラダさんからきつく命じられている。しかしアケミさんは思いつく限りの手を使って私を懐柔し――。
私はついに口を割ってしまった。
アケミさんは私を連れて車を飛び出し、ハラダさんの後を追った。
冬の夕映え色に染まった砂浜は赤く、波の音が騒々しい。ハラダさんはコートの襟を立てて寒そうに佇んでいたが、アケミさんの姿を見ると笑顔になった。だが彼女が私を連れているのに気づいて、その笑顔はすぐに凍りついた。
アケミさんは彼と他の女の人とのやり取りを見つけたと言い、これまでにない強い口調で彼をなじった。今までこらえてきたハラダさんへの不信と怒りとそして愛情が、いっきに堰を切って溢れ出したかのようだった。
ハラダさんはあまりの剣幕に圧倒されて、言い訳をすることもできずにオロオロとしている。その態度にアケミさんはさらに逆上したらしく、ついに彼に殴りかかっていった。ハラダさんは思わず彼女の腕を払いのけ、その反動でアケミさんは前のめりに砂浜へ倒れた。
私にもその衝撃が伝わって、私は大きく跳ね飛ばされ、波打ち際に倒れこんだ。私の身体は湿った砂に塗れ海水に濡れた。
水はとても冷たくて、私は全身が痺れるような気がした。早く、早くここから離れないと…。
ハラダさんはさすがに慌ててアケミさんに手を差し出している。アケミさんは無言で立ち上がって、服についた砂を払うこともせず、いきなり海に向かって走り出した。
ためらいなく荒い波の中に進んでいくアケミさんを、ハラダさんは呆然と見詰めていたが、すぐに我に返って後を追った。彼がアケミさんを追いかけるのは、私が知る限り初めてのことだ。
泣きながら海に入っていくアケミさん、それを追いかけるハラダさん。2人とも私には一瞥もくれなかった。
やがて腰まで水に浸かったところで、ようやくハラダさんは後ろからアケミさんの腕を掴んだ。何か大声で叫んで、アケミさんの華奢な肩を引き寄せている。アケミさんは激しく抵抗し、ハラダさんの顔といわず胸といわず殴りつけて、それからわあわあと泣いた。
水と塩分が私の内部に浸透し、容赦なく蝕んでゆく。私の意識は朦朧としてきた。
日はすでに沈んでいる。茜色の残照に染まった冬空と濃紺の海の狭間で、彼らのシルエットがひとつに溶け合う。
やはり私にはよく分からない領域。でもハラダさんの姿は何だか幸せそうだった。だから私も幸せなのだ――そう思いながら、私は完全に息絶えた。
「ああ、これはちょっと復元無理っぽいですね。これだけ水没しちゃうと」
店員の呆れたような声を聞いて、男は溜息をついた。カウンターの上に置かれた携帯電話は、見た目こそ変わっていないが、海水に浸かってたっぷりと塩分と水分に侵食されてしまったらしい。
「そうですか……まあデータはほとんどバックアップ取ってるんで、何とかなるんですけどね」
男はそう言って咳き込んだ。数日前に冬の海に入る羽目になって、風邪をひいてしまった。熱こそ下がったものの、まだ喉の痛みが取れない。
「気に入ってたんだけどなあ。仕事にも使えたし」
「ご、ごめんね、私のせいで」
彼の隣では彼の恋人が、バツの悪そうな表情で座っている。携帯が水没したもの男が風邪をひいたのも彼女のせいなのだが、責める気にはなれなかった。原因を作ったのは男の方で、それは彼自身身に染みて分かっていた。
男は恋人に気を遣わせまいと、にっこり笑って見せた。鼻水をすすって、
「いいよいいよ、2年以上使ってるんで、そろそろバッテリーがヤバくなってたんだよね。ちょうど替え時だったのかも」
「お客様のご使用期間だと…ポイントこれだけ溜まってますね。ご希望の機種ってお決まりですか?」
店員は手元のパソコンを操作して顧客情報をチェックしてから、新機種のカタログを広げた。
男はほんの短い間、名残惜しげな眼差しを壊れた携帯に注いで、それからすぐに真新しいモデルの写真に目を移した。
私は自分の身体がバラバラに分解されて、細かく粉砕されるのを見ていた。
そして私の本体は、数え切れないほどたくさんの仲間と一緒くたに容器に入れられて、高温の炎で溶かされた。蜂蜜のように柔らかくなった私に様々な薬品が加えられ、念入りに不純物が取り除かれて、少しずつ私の純度は高まっていった。
もう自分が固体なのか液体なのか、一部なのか全体なのか、個なのか集合なのか、それすら定かでなくなってきた。私は心地よい忘却のまどろみの中で、今までの役割から解放された。
やがて私は急激に冷却され、新たな何かに姿を変えた。
私は今、ある人の左手薬指にはまっている。
ハラダさんというその人、そして私を彼に贈ったアケミさんという奥さんに、私は覚えがあるような気がしたが、よく思い出せなかった。
ただ私は彼に大切にされて、四六時中一緒にいる。彼は最初私の存在をかなり意識していたようだったが、そのうちに身体の一部になったかのように私を気に留めなくなった。
私はずっとここにいる。何も求められず、何も与えず。それだけでいいのだ。
たぶん彼が死ぬまで、私は彼の指に留まるだろう。
彼と奥さんが円満である限り。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
途中で「私」が何か分かってしまった人、ごめんなさい。
再生レアメタルが結婚指輪になるかどうかは不明です。