罠
担任の先生に頼まれたものは二つ。
提出ノートを集めることと、授業用の大きな地図を資料室まで返すこと。
本来は日直の二人で分配するはずの仕事だが、相方の吉田さんが風邪で早退してしまったのだから仕方ない。
私はお喋りしてノートを手に持ったままの子達に声をかけてまわり、素早くノートを集めると地図と一緒に両手に抱えて教室を出た。
今日は真希と最近できたカフェに行く予定なのだ。チーズケーキが美味しいと噂なので、どうしても売り切れる前にお店に行きたい。
はやる気持ちのまま職員室までノートを運び、担任のお礼の言葉もそこそこに資料室へと急ぐ。
資料室は4階の端にあり、周りに部活動に使う部屋などないので放課後に立ち寄る人がいないのか、走って熱くなった耳が痛いほどの静けさで少し冷えるような気がした。
まるで別世界に入ったような感覚が嫌で、私は頭を2度振って、落ち着いてから資料室の戸を静かに開けた。
けれど私はそこで目にしたもので、せっかく落ち着かせた気持ちと耳の熱りが一気にわき戻ってしまった。
戸を開いた瞬間に目に飛び込んできたのは、私立女子高に相応しくない、いや在り得ないはずの、男女のキスシーンだった。
私が開けた戸の音に気付いてか、背を向けた女の方が少し身動ぎするが、男の手と行為がそれを許さない。
耳どころか顔も手も足も真っ赤になって動くことも出来ない私に、こちらの方を向いていた男が気づいた。
男は傍にある壁に手をついて、空いている手で女の頭を支えていた。
こちらに背を向けて男の首に抱きついている女に比べ、その姿はとても無雑作で、愛情などはあまり感じられなかった。
私と男の視線が絡む。動けずにいる私の頭の中で警報がなる。
ダメだ。何がかわからないけどダメだと何かが警告する。
男の態度のせいなのか、甘さなどかけらも感じない目の前の出来事はただいやらしさだけを放っているようで、私は思わず吐き気がした。
男の目が笑った気がした。視線を外せない私を見て、続いて視線だけを左にずらす。
私の視線も思わず同じようにたどっていくと、そこには質素なスチール扉があった。
私ははっとして、まさに穴があったら入りたい気持ちで、思わず扉に駆け込んだ。隠れるように扉を閉める。
しかしその物音で女が気づいたのか、閉めた扉の向こうからかすかに話し声が聞こえてきた。
そこで私は愕然とした。窓のない薄暗いこの部屋は倉庫だったのだ。
なんてバカなんだ。逃げるなら入ってきた方に逃げれば良かったんだ。扉を見たらまるでそこが出口のように飛び込んでしまった数秒前の自分が憎い。
扉に背をつけてずるずると座り込む。
女の顔は見えなかったが、制服からみてうちの生徒で間違いないだろう。見たこともない後姿だったので先輩だろうか。わからない。
けれども男の方の顔はばっちりと見てしまった。見てしまったがために忘れることも出来ない。自分の運のなさにはうんざりだ。
やるせない。頭を抱えて思わずため息がこぼれた。
「チーズケーキ、もう無理だろうなぁ…」
真希ごめん、そう呟く声が音にならずに空気にとけた。
代わりに背中に当たっていた冷たい扉が消えて驚きの声が上がり、慌てて転がりそうになる体を両手で支えて振り向く。そしてそこにいるのは間違いなく、自分をここに誘い込んだ張本人…
「…ここは学校です高瀬先生」
「そうだね。悪かったよ」
全く悪いと思ってないだろ。
胡散臭い笑みを浮かべる目の前の人物に眉を寄せて睨むが、男…高瀬誠は動じずに貼りつけたように笑顔を保っていた。
高瀬は今学期から来た臨時の講師だった。
そういえば真希達が若くてかっこいいと騒いでいたが、私は恋愛にも男にもあまり関心がもてずに聞き流していた。
そういえば、人気があって告白する生徒が絶えないとか、学外に何人もの恋人がいるとか、さまざまな噂も聞いた気がする。もちろんこれもまた右から左だ。
私はどの話にもさほど興味がなかったのだ。
けれどもあんな目の前で生々しいもの見せられては、もはや興味があるなしの問題ではない。
高瀬の、開けた倉庫の扉を抑える手、艶やかに濡れた唇、薄く細められた目。どれも強烈に男として意識させられてしまう。
逃げられない。なぜだかそう思った。
「さて、どうしたら黙っててくれるのかな」
目の奥が楽しそうに揺れている。
その瞳に吸い込まれるように、身動きが取れない。
そしてチョークで微かに白く汚れた袖が私の耳元に近づく。
そこで私はまた気づく。
罠にかかってしまったのだ。
甘過ぎて苦い程の、決して逃げられない罠に。
目を閉じた闇の中で、扉の閉まる音がした。