第6話 空白と、砂の剣
ガラガラと崩れ落ちる巨大な石の破片。
千年の歴史を持つ『大厄災の迷宮』の絶対封印扉が、内側から完全に粉砕された。
もうもうと立ち込める土煙の向こうから、一人の青年がゆっくりと姿を現す。
「……眩しすぎるな」
アレスは目を細め、新鮮な空気を肺の奥底まで吸い込んだ。
血と泥と魔物の体液にまみれたボロボロの服。だが、その背筋は奇妙なほど真っ直ぐに伸びており、彼から立ち上る魔力の残滓は、周囲の空間を陽炎のように歪ませていた。
その異常な光景に、迷宮の入り口を警備していた王都の近衛騎士たちは完全に硬直していた。
「ひぃっ……!? な、何者だ貴様ッ!」
「ダンジョンが崩壊しただと!? 馬鹿な、ここは第一階層の安全地帯だぞ!」
五人の武装した騎士たちが、慌てて腰の剣を引き抜く。
彼らの視線の先には、土煙を払って歩み出てくるアレスの姿があった。だが、誰も彼が『半年前に死んだはずの【解読士】』だとは気づかない。
死のループによって削ぎ落とされた感情と、極限まで書き換えられたステータスが、アレスの纏う空気を「ただの人の良さそうな青年」から「底知れぬ捕食者」へと変貌させていたからだ。
「おい、そこの浮浪者! 動くな! 貴様、この崩落の生き残りか!?」
部隊長らしき男が剣の切っ先を向け、怒鳴り声を上げる。
だが、アレスの視線は騎士たちには向いていなかった。
彼が見つめていたのは、騎士たちの背後——崩落の衝撃で腰を抜かし、地面にへたり込んでいる一人の少女だった。
「ひぐっ……あ、ああ……」
ボロボロの麻布の服を着せられ、両手は土で汚れきっている。彼女の足元には、迷宮の浅い階層で採れる『魔力石の欠片』が詰まった重そうな籠が転がっていた。
銀色の髪。怯えきった大きな瞳。
アレスの脳裏に、かつて王都の孤児院で頭を撫でてやった少女の記憶がフラッシュバックする。
(ミラ……? なぜ、あの子がこんな迷宮の入り口で、奴隷のような真似をさせられている?)
アレスは虚空に指を滑らせ、少女のステータスコードにアクセスした。
【Entity : Milla】
【Age : 10】
【Status : Malnourished(栄養失調)/Enslaved(隷属)】
【Affiliation : Holy_Church_Orphanage(聖教会・孤児院管轄)】
(聖教会……セリアの管轄下か)
コードを読み解き、アレスの瞳に氷のような冷たい怒りが宿る。
恐らくレオンとセリアは英雄として王都に凱旋した後、アレスが支援していた孤児院を「教会の保護下」という名目で接収したのだ。そして、身寄りのない子供たちを、迷宮周辺での魔力石拾いという危険な日雇い労働に強制的に従事させていた。
「おい、無視するなと——チィッ、おいガキ! 盾になれ!」
部隊長は、得体の知れないアレスの無言の圧力に耐えきれず、なんと背後にいたミラの首根っこを掴み、自分の前に乱暴に引きずり出した。
「痛いっ……やめて、騎士さま……!」
「黙れ! いいか浮浪者、これ以上近づけばこの教会の所有物の首を刎ねるぞ!」
ミラの細い首筋に、冷たい刃が押し当てられる。
その光景を見た瞬間。
アレスの視界の端で、世界の時間を管理する『システムクロック』の文字列が明滅した。
【System_Time : Year 1024 / Month 9 / Day 14】
(……そうか。地上では、まだ半年しか経っていないのか)
アレスが奈落に突き落とされたのは、今年の3月。
彼にとって、あの泥濘の底で魔物に食い殺され続けた十二万回の日々は、数百年、いや数千年にも及ぶ永遠の拷問だった。
だが、この地上では、たったの六ヶ月。
自分が地獄の底で発狂しかけている間、レオンたちは英雄として美酒を煽り、自分が守りたかった子供たちはこうして泥水を啜らされていた。
「……ふふっ」
アレスの口から、乾いた笑い声が漏れた。
それは怒りを通り越し、あまりの理不尽に対する純粋な嘲笑だった。
「な、何がおかしいッ!」
部隊長が怒鳴る。
アレスは足を止めなかった。ミラの首に剣が突きつけられているというのに、全く意に介する様子もなく、ゆっくりと歩みを進める。
「来るなと言っているだろうが! ええい、死ねッ!」
恐怖に駆られた部隊長が、ミラを突き飛ばし、鋭い踏み込みでアレスの首めがけて白刃を振り下ろした。
重い金属の風切り音。
騎士としての訓練を積んだ、必殺の一撃。
——だが、アレスは避けない。
彼は振り下ろされる剣の軌道を見つめたまま、その剣を構成している『物質コード』に指先で触れた。
【Material : Refined_Steel(精錬鋼)】
アレスはその文字列を弾き、ほんの数文字だけキーを叩くように上書きした。
【Material : Dry_Sand(乾いた砂)】
パサァッ。
部隊長の全力の斬撃がアレスの肩に触れた瞬間。
鋼鉄の剣は、まるで最初から砂の塊で作られていたかのように、音もなくボロボロと崩れ落ちた。
アレスの肩には傷一つなく、ただの砂ぼこりが舞うだけ。
「……は?」
部隊長は、柄だけになった自分の武器を素っ頓狂な顔で見つめた。
魔法陣の展開もない。呪文の詠唱もない。
ただ、剣が砂に変わった。その事象を、騎士たちの脳は全く処理できなかった。
「な、なんだお前は……悪魔か!? 魔法使いか!?」
「ひぃぃっ! ば、化け物ッ!」
残りの騎士たちがパニックに陥り、後ずさりする。
アレスは部隊長の顔の前にスッと右手を伸ばし、彼の『行動コード』に干渉した。
「うるさい。少し黙っていろ」
【Action : Speak(発声)】を【Null(無効)】へ。
「——ッ!? !?!?ッッ!!」
部隊長は叫ぼうとして大きく口を開けたが、喉からはヒューッという空気の漏れる音しか出なかった。声帯が振動する法則そのものを、世界から『削除』されたのだ。
見えない力で声を奪われ、武器を砂に変えられた部隊長は、恐怖のあまり白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「ひっ、逃げろ! 報告だ、王都へ急げッ!」
他の騎士たちは腰を抜かした部隊長を見捨て、悲鳴を上げながら王都の方向へと蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
アレスはその後ろ姿を追おうとはしなかった。ただの伝書鳩だ。むしろ、自分という『バグ』が地上に現れたことを、あの偽りの英雄たちに知らせてくれた方が都合がいい。
静寂が戻った迷宮の入り口。
アレスは、地面に倒れ込んだまま震えている銀髪の少女の前に、ゆっくりと歩み寄った。
「あ、う……ごめんなさい、ごめんなさい……魔力石、ちゃんと拾いますから……」
ミラは頭を抱え、ガタガタと震えながら命乞いをするように身を丸めていた。
孤児院で見せていた無邪気な笑顔は完全に消え失せている。この半年間、どれほどの暴力と恐怖に晒されてきたのか、その細い腕に刻まれた無数の赤いミミズ腫れが物語っていた。
アレスは静かに膝をつき、血と泥にまみれた自分の手で、ミラの震える肩にそっと触れた。
「……もう、石なんて拾わなくていい」
「え……?」
「思い出してくれ。王都の広場で、俺が教えた歌を」
アレスは、ひび割れた声で、静かに、そして優しく口ずさんだ。
「イーチ、ニー、サンで、世界が回る。
アー、ベー、セーで、扉が開く——」
その旋律を聞いた瞬間。
ミラの大きく見開かれた瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「もしも痛くて、泣きそうなら。
黒い文字を、白く……塗りつぶせばいい」
アレスが歌い終えると、ミラは信じられないものを見るように、ゆっくりと顔を上げた。
薄汚れた顔、見違えるように冷酷になった瞳。
けれど、その声の優しさと、不器用な歌い方は、間違いなく彼女が慕っていた『彼』のものだった。
「アレス、おにいちゃん……?」
ミラが震える声で紡ぐ。
アレスは小さく頷き、ミラの細い体を力強く抱きしめた。
「ああ、遅くなってすまなかったな。……もう誰も、お前たちを傷つけさせない」
アレスの背後で、完全に崩落した大厄災の迷宮が、ズズンと重い地響きを立てて沈み込んでいく。
世界をハッキングする力を持つ最強の異端者は、腕の中の小さな温もりを確かめながら、遥か遠くに見える王都ガルディナの尖塔を、氷のように冷たく見据えていた。




