第4話 書き換えと、蹂躙
「——【Action : Stop(停止)】」
アレスの指先が、虚空に浮かぶ青白い文字列に触れた瞬間。
獲物を貪ろうと牙を剥いていた巨大な腐食蜘蛛が、まるで空間そのものに縫い付けられたかのように、ピタリと静止した。
八本の醜悪な脚も、顎から滴り落ちる強酸の粘液も、空中で完全に固定されている。
「……動かない、か。いや、『動けない』ように書き換えられたんだな」
アレスは自身の血に塗れた右手をゆっくりと下ろし、静止した魔物の巨体を見上げた。
十二万回。この絶望の底で魔物に生きたまま臓物を引きずり出され、骨を砕かれ、脳髄を溶かされてきた。もしこれが一時間前であれば、恐怖で泣き叫び、ただ死の瞬間を待つことしかできなかっただろう。
だが今の彼に、恐怖はない。
あるのは、氷のように冷え切った怒りと、眼前に広がる世界の『真理』に対する異常なまでの理解力だった。
「なら、これはどうだ?」
アレスは一歩踏み出し、腐食蜘蛛の甲殻を覆うように浮かび上がっているステータスの文字列に、再び指を突き入れた。
【Entity_Spider_Lv80】
【HP : 18000 / 18000】
【Status : Active(稼働中)】
アレスは、【HP : 18000】という数値の先頭にある『1』の文字を指で弾き飛ばした。
そして、残りの『8000』という文字列を、粘土を握りつぶすように手の中でぐしゃりと握り込む。
「ゼロになれ」
【HP : 0 / 18000】
直後。
バキバキバキッ!!という凄惨な音が奈落に響き渡った。
腐食蜘蛛の巨体が、内側から見えない巨大な圧力で押し潰されたようにひしゃげ、緑色の体液を撒き散らしながら爆散した。
悲鳴を上げる間すらない、システムによる強制的な『死』の執行。
「……ははっ。もろい。もろすぎる」
肉片と成り果てた魔物の残骸を見下ろし、アレスはひび割れた唇を歪めた。
神聖な魔法も、鍛え抜かれた剣技も必要ない。ただ文字列を書き換えるだけ。たったそれだけで、迷宮の深層に生息する恐るべき魔物が、羽虫のように潰れたのだ。
と、その時。
アレスの視界に、新たな青白い文字列が滝のように流れ込んできた。
【System_Log : Entity_Spider_Lv80 _Defeated】
【Exp_Gain : 45,000】
【Level_Up : Lv.15 → Lv.32】
「経験値、か……」
魔物を倒したことで得られる、世界の正規ルールに乗っ取った成長。
だが、アレスは流れ込んでくるそのコードを、鬱陶しそうに手で振り払った。
「まだるっこしい。そんなルールに従って、ちまちまレベルを上げるつもりはねえよ」
アレスは自身の胸に手を当て、自らの存在を定義している『自己のソースコード』を引きずり出した。
【Target_Id : Ares_001】
【Class : Decoder(解読士)】
【Level : 32】
【HP : 450 / 450】
【MP : 120 / 120】
「俺の職業は【解読士】なんかじゃない。俺は、このふざけた世界をハッキングする簒奪者だ」
アレスは自らの【Level : 32】の数値を指でなぞり、直接『999』と上書きした。
さらに、【HP】や【MP】の最大値の桁数を、限界まで書き足していく。
限界突破の異常な数値がシステムに刻まれた瞬間、アレスの肉体を凄まじい熱量が駆け巡った。全身の細胞が爆発的に活性化し、かつてないほどの魔力が大気を震わせて立ち上る。
たった数秒で、彼は世界の頂点へと強引に躍り出たのだ。
「……ッ、ガァアアッ!!」
「……ギ、ギチチチチッ!!」
アレスから溢れ出した強大な魔力の匂いを嗅ぎつけ、暗闇の奥から無数の蠢く影が姿を現した。
一体の腐食蜘蛛の死は、ほんの始まりに過ぎなかった。
『死神の騎士』、『深淵の大百足』、そして数え切れないほどの迷宮の汚物たち。
十二万回の死の中で、アレスを何度も何度も惨たらしく食い殺してきた、悪夢の元凶たちが、暗闇を埋め尽くすほどの数で迫ってくる。
だが、アレスは逃げない。
彼の目に映っているのは、迫り来る魔物の群れではない。空間を埋め尽くすように重なり合う、無数の【Entity】の文字列だ。
アレスは両手を広げ、ピアノの鍵盤を叩くように、虚空に浮かぶ膨大なコードの羅列に十指を突き立てた。
「お前らには、俺の肉を散々食わせてやったな。味はどうだった?」
彼がかつて孤児院の少女に教えた、あの手遊び歌の旋律。
『イーチ、ニー、サンで、世界が回る。アー、ベー、セーで、扉が開く』。
それは、世界を管理する神のコンソールにアクセスするための、魔法のコマンド。
「——【Target_Select_All(範囲内の全敵対対象を選択)】」
アレスの言葉に呼応し、群がってくる数千体の魔物たちのステータスコードが、一斉に赤くハイライトされる。
「全員まとめて……【Delete】だ」
アレスが両手を勢いよく振り下ろした。
音すらなかった。
断末魔も、血しぶきも、肉の崩れる音すら存在しない。
ただ、赤いハイライトで選択されていた数千体の魔物たちが、文字通り「空間から消滅」した。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように、綺麗に跡形もなく。
絶対的な静寂が、奈落の底に降り注いだ。
あれほどひしめき合っていた死の恐怖は、アレスのたった一振りの手によって、完全に消去し去られたのだ。
「……ふぅ。驚くほど簡単だな」
誰もいなくなった暗闇の底で、アレスは小さく息を吐いた。
その時、足元の地面——ダンジョンのシステム基盤の奥深くから、かすかに発光する『ログデータ』の塊が目に入った。
それは、彼が奈落に突き落とされた直後に発生した、迷宮システムの『処理記録』だった。
アレスはしゃがみ込み、そのログデータを読み解く。
【Event_Log : Floor_100_Door_Unlocked(第百階層の扉、解放)】
【Key_Requirement : Living_Human_Soul(生きた人間の魂の捧げ物)】
【Sacrifice_Accepted : Target_Id_Ares_001(供物受理:アレス)】
間違いなく、レオンが自分を突き落とし、扉を開けた時の記録だ。
アレスは冷たい目でそのログを読み進め——ふと、その後に続く『報酬生成ログ』を見て、口角を深く、邪悪に吊り上げた。
【Reward_Generated : Item_Mythic『神滅の王冠』(報酬生成:ミシック級宝物)】
【Authentication_Lock : Ares_001(生体認証ロック:アレス)】
「……なるほど。そういう仕様か」
アレスは喉の奥でクククと笑った。
レオンたちは「アレスを犠牲にして」扉を開け、逃げ帰る際にその宝箱を奪っていった。
だが、迷宮のシステム(神のコード)は極めて厳密だ。扉の封印を解いた『鍵(供物)』がアレスの魂であった以上、生成されたミシック級の宝物の【所有権】は、完全にアレスの魂の波長に紐付けられていたのだ。
(レオン、お前たちはとんでもない爆弾を持ち帰ったな)
ミシック級の宝物は、所有者以外のアクセスを強烈に拒絶する。もし、所有権のないレオンやセリアが、無理やりその宝箱を開けようとしたり、力を引き出そうとすれば——防犯システムが作動し、王都の半分を吹き飛ばすほどの呪いや爆発を撒き散らすだろう。
「大事に持っておけよ、レオン。俺が地上に戻って、お前らの目の前でその箱を開けてやるまでな」
アレスは立ち上がった。
見上げる先には、果てしなく続く漆黒の縦穴。地上までおよそ一万メートル。
物理的に這い上がる手段など存在しない、絶望の壁だ。
「さて……重力のコードでも書き換えて、さっさと上へ行くとするか」
泥濘の底から、最強のバグが、偽りの英雄たちを引きずり下ろすために歩み始めた。




