第3話 泥濘の底のソースコード
王都ガルディナ。その中心にそびえ立つ王城の広間は、眩いばかりのシャンデリアの光と、熱狂的な貴族たちの歓声に包まれていた。
「見事である、勇者レオンよ! 『大厄災の迷宮』の最深部の扉を開き、遂に魔王軍の要である四天王『黒炎のヴァルガンド』を打ち倒すとは!」
玉座から身を乗り出し、興奮気味に賛辞を贈る国王に対し、純白の鎧を纏ったレオンは優雅に、そしてひどく悲痛な面持ちで跪いた。
その後ろでは、純潔の象徴である白いローブを身にまとった聖女セリアが、女神のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
「勿体なきお言葉。ヴァルガンドの力は凄まじく、我らも全滅の危機に瀕しました。ですが、王国の平和を願う民の祈り、そして……自ら贄となり、奈落へと落ちていった我が友アレスの遺志が、我々の刃に力を与えてくれたのです!」
レオンが声を震わせてそう語ると、広間は水を打ったように静まり返った。
セリアが一歩前に出て、美しい顔を両手で覆い、ポロポロと透き通るような涙をこぼす。
「彼が命を賭して開いてくれた扉の先で……私たちは死闘を繰り広げました。彼の犠牲を無駄にしない、その一心で……ッ!」
その可憐な涙と悲劇的な英雄譚に、列席していた貴族たちは心を強く打たれ、すすり泣く者さえいた。
「なんという自己犠牲……」「彼こそ真の英雄だ」「いや、友の死を乗り越え、四天王を討ち果たした勇者様と聖女様こそ光の御子だ!」
広間は、偽りの感動と熱狂の渦に包まれた。
——だが。
盛大な祝賀会を抜け出し、与えられた豪華な控室に戻った二人の顔から、先程までの悲壮感は微塵も消え失せていた。
「あー、クソッ、疲れた。馬鹿な貴族どもを騙して泣いたふりをするのも一苦労だぜ」
レオンは最高級のワインを一息に煽り、ふかふかのソファに乱暴に腰を下ろした。
「ふふっ、でも完璧な演技だったわよ、レオン。これで『逃げ帰ってきた』なんて誰も思わないわ。むしろ、私たちの名声はこれで不動のものになったわね」
セリアが妖艶な笑みを浮かべ、レオンの膝の上に身を預ける。
「……全くだ。だが、思い出すだけでも吐き気がするぜ」
レオンの顔に、一瞬だけ色濃い恐怖が走った。
第百階層の扉。アレスを奈落へ突き落とし、生贄の条件を満たして開かれたその先の空間にいたのは、四天王『黒炎のヴァルガンド』だった。
魔王にすら匹敵すると言われるその化け物を前に、レオンたちは自信満々で最強の魔法と剣技を放った。……しかし、結果は絶望的だった。
レオンの聖剣は防壁に弾かれ、セリアの攻撃魔法は詠唱の途中でかき消された。
これまで迷宮の罠や敵の防壁は、アレスが裏で密かに【解読】し、無力化してくれていたからこそ突破できていたのだ。その事実に気づいていない二人は、純粋な実力差の前に完全に蹂躙された。
「あんな化け物、まともに戦って勝てるわけがねえ。俺の剣がかすり傷一つ付けられなかったんだぞ? 殺される寸前で、緊急転移結晶を使って逃げ出さなかったら、俺たちは今頃ただの炭の塊だ」
ギリッと、レオンが悔しそうに歯を鳴らす。
逃げ帰った彼らは、保身のために大嘘をついた。アレスを美化して生贄の事実を隠蔽し、さらには「激戦の末に四天王を打ち倒し、扉を封印した」と王都に報告したのだ。
「でも、結果オーライじゃない。転移で逃げる直前に、部屋の入り口付近にあった『神話級』の宝箱だけはしっかり回収できたんだから。あいつは生きてる間はただの荷物持ちだったけど、扉を開けるための鍵として、一番いい働きをしたわ」
「違いない。俺たちは『友の死を悼み、深い傷を癒やす』という名目で、この王都で一生贅沢に暮らしてやる。魔王討伐なんて、数十年後の馬鹿どもに任せておけばいい」
二人は下劣な笑い声を上げ、勝利の美酒が注がれたグラスを高く合わせた。
彼らの頭の中には、生贄として奈落へ落ちていった青年のことなど、すでに一ミリも存在していなかった。
* * *
一方その頃。
光に満ちた王都から遥か地下深く、絶対死の領域『奈落』。
「——ガァッ、あ、アアアァァッ!!」
アレスの顔面は今、暗闇から現れた巨大な蜘蛛が吐き出した強酸の粘液によって、ドロドロに溶かされていた。
皮膚が泡を吹いて爛れ、眼球が白濁して弾け飛ぶ。脳髄が沸騰するような激痛の中、鼻腔を突くのは自分自身の肉が焼ける焦げ臭い匂いだった。
痛い。熱い。苦しい。
声帯すら溶け落ち、ヒューヒューという風漏れのような音だけが喉の奥から漏れる。巨大な毒牙がアレスの胸ぐらを貫き、心臓に直接、内臓を液化させる消化液が流し込まれた。
(これで……十二万、四千、八百……十二回、目……)
狂いそうな激痛の中で、アレスの意識だけは異常なほど冷え切っていた。
無限に繰り返される死と再生のループは、彼から「人間としての感情」を削り落とし、生きながらにして彼を純粋な「思考機械」へと作り変えていたのだ。
やがて内臓が完全に溶け落ち、アレスの命はまたしても途絶えた。
そして、訪れる『死と再生のタイムラグ』。
体感にしてわずか一秒にも満たないその暗転の世界で、アレスは「それ」を視ていた。
虚空を流れる、青白い光の文字列。
【Target_Id : Ares_001】
【Status : Dead_FatalError】
【Action : Auto_Restore(肉体復元)】
【Condition : Keep_Memory(記憶保持)/Keep_Pain(痛覚残存)】
それは、この迷宮、いや、この世界そのものを構成する神の言語、「ソースコード」。
普通の人間であれば、ただの幾何学模様の羅列にしか見えない無意味な光の線だ。
だが、あらゆる古代文字や暗号を読み解くためだけに生涯を捧げ、パーティの誰からも評価されなかった彼の底辺職【解読士】のスキルが、極限状態のプレッシャーと十二万回を超える死の経験によって、異常な進化を引き起こしていた。
(……読める。俺には、読めるぞ……!)
肉体が再生していく数コンマ秒の間。
アレスの脳髄は、眼前に広がる神のシステムを猛烈な速度で翻訳し、理解していく。
なぜ、自分が無限に蘇るのか。
なぜ、痛覚だけが残り続けるのか。
すべては、この『奈落』という空間に設定された悪辣な術式のせいだ。ここは自然にできた洞窟などではない。迷宮の不要物や、生贄として捧げられた侵入者を永遠に処理し続けるための、システム上の『ゴミ箱』なのだ。
「……は、ぁっ!」
視界が晴れ、蜘蛛の酸によって溶かされたはずの肉体が完全に復元され、冷たい石の床に転がる。
痛みと恐怖で震え上がるはずのその顔には、狂気じみた笑みが張り付いていた。
「あァ……そうかよ。全部、ただの『コード』の羅列じゃねえか」
再び迫り来る魔物の牙を前にしても、アレスはもう逃げようとはしなかった。
彼の双眸は、もはや目の前の魔物の恐ろしい姿など見ていない。魔物の肉体を覆う、不可視の文字列だけを捉えていた。
【Entity_Spider_Lv80】
【Action : Bite(噛みつき)/Target : Ares】
その文字列を見た瞬間、アレスの頭の奥で、かつて孤児院の少女に教えた『手遊び歌』のメロディがフラッシュバックした。
——イーチ、ニー、サンで、世界が回る。
——黒い文字を、白く塗りつぶせばいい。
アレスはゆっくりと、血に塗れた右手を持ち上げた。
そして、眼前に迫る魔物の『行動記述』に、指先で直接触れた。
「【Action : Bite】を——【Action : Stop(停止)】に書き換え(上書き)る」
アレスの指先から、バチリ、と青白い火花が散った。
次の瞬間。
アレスの首筋を食いちぎろうと迫っていた巨大な腐食蜘蛛が、まるで不可視の壁に激突したかのように、ピタリと動きを止めた。
「……ははっ。見ろよ、虫ケラ。俺の言う通りに止まったじゃねえか」
乾いた、ひび割れた笑い声が、奈落の底に響く。
ただの【解読士】は、今この泥濘の底で、神の記述を読み解き、世界を意のままに改変する【世界の簒奪者】へと、完全に羽化したのだ。




