第2話 底なしの穴
風を切る音すら、いつしか聞こえなくなっていた。
絶対的な暗闇の中を、俺はただひたすらに落下し続けていた。
恐怖を感じる時間はとうに過ぎ去り、裏切られたという怒りすら、果てしない滞空時間の中で薄れかけていた頃だった。
突然、全身が硬い岩盤に激突した。
肉が弾け、骨が粉々に砕け散る、嫌に生々しい音が頭蓋骨の内側に響いた。
肺から空気が強制的に絞り出され、悲鳴を上げるための喉笛すらひしゃげている。圧倒的な破壊の衝撃が全身の神経を焼き切り、俺の意識はあっけなく途切れた。
——はずだった。
「……あ、が……?」
ひんやりとした石の感触が頬を打った。
重い瞼をこじ開けると、俺は暗闇の中に横たわっていた。
肺が痙攣し、空気を貪り食うように息を吸い込む。血の匂いはしない。ゆっくりと身を起こし、自分の腕を、脚を、胴体をまさぐる。
粉砕されたはずの骨も、潰れたはずの内臓も、嘘のように元通りになっていた。
無傷だ。
だが、全身を貫いたあの激突の激痛だけは、確かに脳髄にべっとりと焼き付いていた。幻覚じゃない。俺は先程、間違いなく一度死んだのだ。
何が起きているのか理解できないまま立ち上がろうとした瞬間、背後の暗闇から、生暖かい息遣いを感じた。
腐った泥と、ひどく酸化した鉄のような悪臭が鼻を突く。
暗闇から、人間の胴体ほどもある巨大な顎がぬっと現れた。
そいつは俺の右足に噛みつくと、大根でもへし折るかのように、いとも簡単に引きちぎった。
「ああああああっ!!」
自身の足の断面から噴き出した熱い血を顔に浴びながら、俺は絶叫した。
熱い。痛い。痛い痛い痛い痛い。
異形は俺の叫び声など意に介さず、今度は俺の腹に太い爪を立て、生きたまま臓物を引きずり出して貪り始めた。咀嚼音が耳元で響く。薄れゆく意識の中で、俺は再び自分の死を確信した。
そして。
「……は、ぁっ、ああっ……!」
次に目を開けた時、俺はまた「五体満足」で冷たい石の上に転がっていた。
引きちぎられた右足もある。食い破られた腹も綺麗に塞がっている。
だが、臓器を引きずり出された時のえも言われぬ喪失感と、熱を帯びた激痛は残ったままだ。錯乱して自分の体を掻きむしるが、やはり傷一つない。
ガサリ、と。
また暗闇の奥から、複数の足音が近づいてきた。一つや二つではない。十、いや数十の気配が、新しい餌の匂いを嗅ぎつけて集まってくる。
レオンが突き落とす間際に言っていた言葉が、ふと脳裏をよぎった。
『生きた人間の魂をこの奈落へ捧げ、扉を開く必要がある』
生きた人間。
魂を捧げる。
ここは、ただ落ちて死ぬだけの場所じゃない。死ぬことすら許されない、底なしの地獄。迷宮の防衛機構が機能し続ける限り、魔物たちに永遠に喰われ続けるための、永久機関としての生贄の部屋なのだ。
「やめろ……来るな……っ! 俺を殺せ! 頼むから殺してくれ!」
喉が裂けるほど叫び、石の床を這いずり回って逃げようとした。だが、光の全くない空間で逃げ場などあるはずもなく、すぐに硬い顎が俺の首筋に食い込んだ。
三度目の死が訪れる。
そして数秒後、また傷一つない体で目覚め、新たな魔物に生きたまま咀嚼される。
死んで、喰われて、蘇る。
暗闇の中では、時間の感覚が完全に消え失せる。
最初の百回までは、数を数えていた。
千回を超えたあたりから、涙が枯れ果てた。
一万回を超えた時、俺は叫ぶのをやめた。
自分の足が噛み砕かれる音を聞きながら、ただぼんやりと虚空を見つめるだけになった。
激痛はある。だが、心はすでにそれを受け入れることを拒絶していた。
俺は誰だったか。
なぜこんな暗く、臭い場所にいるのか。
俺をここに突き落とした、あの金髪の男は誰だったか。その後ろで冷たい目をしていた女は、俺の何だったのか。
思い出せない。
そんなことよりも、次に来る痛みにどうやって耐えるか、いや、いかに早く意識を手放すかしか考えられなくなっていた。俺の精神は、暗闇の中でゆっくりと、しかし確実にすり潰され、ただの肉塊へと成り下がろうとしていた。
だがある時。
五万回目か、六万回目か。あるいは十万回を超えていたかもしれない。
魔物に頭蓋骨を砕かれ、再び意識が浮上するその一瞬の狭間で。
俺の目が、暗闇の中に「光の線」を捉えた。
それは、砕かれた俺の肉体を繋ぎ合わせるように虚空から現れた、青白い光の羅列だった。
ただの魔法の輝きではない。光の線は、無数の複雑な文字列で構成されていた。見たこともない文字だが、なぜかその構造に強烈な既視感がある。
すり減った精神の奥底で、俺がかつて持っていた、戦闘では何の役にも立たないと蔑まれた「解読」の力が、無意識下で微かに脈打っていた。
俺を蘇らせているこの現象は、神の奇跡でも、得体の知れない呪いでもない。
明確な規則性を持った、誰かが書き込んだ「術式」だ。
暗闇に転がり、次の魔物の顎が迫る中、俺の瞳の焦点は魔物ではなく、虚空に浮かぶその青白い文字列の残滓に縫い付けられていた。




