願いの代わりに
あなたは、もし自分の願いを叶える代わりに、本当に大切なものを失うことになるとしたら、願いを叶えますか?
大切な記憶、大切な気持ち、大切な家族、どれを失うかは分かりません。
あなたの中で、一番大切で失ってはいけないもの。
唯一無二のものが消える。
これは、古い古いお話。
僕が今まで見てきた中でも特に悲しく、特に辛い喪失の話。
◇◆◇
余命一週間の妹を持つ長崎紀恵。
人工呼吸器がなければ生きられず、もう目を覚まさないまま死んでしまうと言われている哀れな少女。
紀恵は学校帰りから、面会終了時刻まで、ずっと病院で妹の手を握っている。
妹の手はずっと温かかった。
人工呼吸器の規則的な音が、まるでこの部屋の時間そのものを刻んでいるようで、紀恵はそれを聞きながら瞬きもせずに妹の顔を見つめていた。
「……ねぇ、咲希」
返事が返ってこないことは分かっている。
医師にも、もう意識は戻らないだろうと言われていた。
それでも名前を呼ばずにはいられなかったのだろう。
まだ生きている妹を前にして、無言でいられるほど紀恵は大人じゃない。
ガラス越しの夕焼けが病室を橙色に染める。
面会終了まであと二十分。
紀恵は今日も学校帰りに寄ったコンビニの袋を足元に置いたままだった。
中には妹が好きだった苺ミルク。
もう飲めないと分かっていても、買わずにはいられなかった。
死体同然の妹に会いに来るなんて、紀恵もなかなかどうかしている。
「……神様、お願いがあるんだ」
声はつぶやきというより、祈りに近かった。
「一つでいいから。たった一つでいいから、私のお願いを叶えてよ……」
神なんていないというのになんで哀れなんだ。
昔の僕ならそう言っていただろう。
でも、僕はもう神様同然なんだ。
僕が君にとっての神様になってあげる。
「その願い、代償を払えば叶えてあげる」
紀恵が顔を上げた。
涙で滲んだ視界の向こう、夕焼けを背にして窓辺に子どもが座っている。
病室は三階だ。
かなり異様な光景だろう。
「誰……?」
掠れた声でそう問いかけながらも、紀恵はナースコールに手を伸ばさなかった。
不思議とそうする必要がない気がしたのだろう。
「名乗るほどのものじゃないよ。君達の言葉を借りるなら……そうだな、神様かな」
僕は無邪気に笑った。
年は咲希と同じくらいだろうか。
「さっき、お願いしてたでしょ。一つでいいから願いを叶えてくれって」
「……そんなの、独り言だよ」
「独り言ほど、よく届くんだ」
くすり、と僕は笑う。
その笑みを見た瞬間、紀恵の顔が少しひきつった。
この子は、人じゃない。
そう思ったんだろう。
「妹を助けたいんでしょ?」
「……助けたい。目を覚まして、また話して、笑って……それだけでいい」
「欲張りだね」
「……うるさい」
噛みつくように返されて、僕は肩をすくめた。
人間はこれだから嫌なんだ。
本音を言うとすぐに怒る。
「君はもう何を失ってもいい顔をしてるね」
その言葉を紀恵は否定しなかった。
否定できなかったが正しい。
妹の手を握る力がわずかに強まる。
「……失ってもいいとか、そういう話じゃない」
絞り出すような声だった。
「ただ……このまま何もしないで終わるのが嫌なだけ」
「うん」
僕は素直に頷いた。
「そういう人ほどいい願いをする」
「いい願い……?」
「純粋で、残酷で、どうしようもない願い」
紀恵は眉をひそめたが、何も言わなかった。
反論する気力すら、もう残っていないのだろう。
紀恵は強い。
他の家族すらも見捨て、見舞いにも来なくなった妹のそばにいつまでもいるのだから。
それがどれだけ辛いことか、僕にはわからない。
僕は窓枠に腰掛けたまま、足をぶらぶらと揺らす。
「僕が君の願いを叶える。その代わりに、君にとって一番大切なものを僕がもらう」
「……それは何?」
「分からない」
即答すると、紀恵の目が揺れた。
「え……?」
「僕が決めるんじゃない。君自身が一番だと定めているものが勝手に消える」
「そんなの……」
「不公平?」
「……残酷」
僕は少しだけ笑った。
「願いは代償なしでは叶えられないよ?」
紀恵はしばらく黙り込んだ。
人工呼吸器の音だけが、規則正しく病室を満たす。
「私、大切なものは咲希なの。咲希が消えたら本末転倒じゃない……」
「分からないよ?僕が見てきた中で、これが消えるって言い張っていた人は大体別のものを失っていた」
「え……?」
「大切って意思があるものが、絶対に一番ってわけじゃない。君が妹を大切だと思っていたとしても、もしかしたら別のものが一番大切かもしれない」
「……別のもの?」
紀恵はぽつりと呟いた。
「そんなのないよ。私にとって一番大切なのは咲希だけ」
「そう思ってるのは本当だと思う」
僕は軽く肩をすくめる。
「でもね、人の本当に一番って、案外自分でも気づいてないものなんだ」
「……」
「それに」
僕は、ベッドの上の少女、咲希をちらりと見た。
点滴が少しずつ少女の体に入っていく様子を横目に、僕は話を続けた。
「もし君が言う通りなら、そもそも契約なんて成立しない」
「どういう……」
「大切なものを助けたいと思って契約するなら、契約に矛盾が生じるじゃないか」
その言葉に病室の空気がわずかに冷えた。
大切なものを救いたいのに、大切なものを失う。
この時点で、契約は破綻してしまうからだ。
「それに人間の魂は、どんな神様でも死ぬまで奪えない」
まあ、僕は神様じゃないし、神はいないけどね。
「……じゃあ」
紀恵は反射的に妹の手を握り直した。
まるで確かめるように、少し間を置いて紀恵は言った。
「それでもいい」
声は小さいが揺れていない。
「何を失っても、それで咲希が生きられるなら、私は大切なものを失う」
その瞬間、僕はほんの一瞬だけ目を逸らした。
ああ。
また、こういう子だ。
自己犠牲が激しい子ほど、失った後の周りがうるさいんだよね。
「後悔するかもしれないよ?」
「もうしてる」
即答だった。
「何もしないでこのまま見送ることの方がずっと……ずっと後悔するから」
人工呼吸器の音が規則正しく鳴り続ける。
まるで秒針のように。
紀恵は僕の目をまっすぐ見つめて、逸らなかった。
「……分かった」
僕は小さく息を吐いた。
「契約しよう。これから君の願いは叶う」
僕は窓から病室の中へと降り立ち、紀恵のすぐそばまで歩み寄った。
ぱちんと指を鳴らす。
時間が一瞬止まる。
僕は動かなくなった紀恵の額に人差し指を当てた。
「……君は僕と話したことも、大切なもののこともきっと思い出せないよ。二度とね」
僕は窓から近くの木に飛び移り、病室を出た。
次に時間が動き出したとき、病室にはただの日常が戻っていた。
人工呼吸器の音はもう鳴っていない。
代わりに聞こえるのは心電図の安定した電子音と、誰かの小さな呼吸音。
「……おねえ、ちゃん……?」
掠れた声だった。
それでも確かに生きている声。
長崎紀恵は、はっと顔を上げる。
「……え?」
「お姉ちゃん……。私、生きてるよ!」
咲希はベッドから飛び降り、実の姉に抱きつく。
紀恵は何も言わない。
腕の中に飛び込んできた少女の体温は確かに温かい。
心臓の鼓動も、呼吸も、生きている証拠ばかりがはっきりと伝わってくるはずだ。
それなのに、紀恵は困惑した顔をしている。
「……?」
咲希は少し不安そうに顔を上げた。
「お姉ちゃん……?」
長崎紀恵、君の大切なものは確かに咲希だったよ。
神に近しい力を持つ僕でさえも、人の命は取れない。
でも、君から人の命を消すことはできたんだ。
紀恵は抱きついている咲希の肩に手を置き、自分から剥がした。
「………………誰?」
その言葉に咲希の顔から血の気が引いた。
「お、お姉ちゃん……?私だよ、咲希だよ……?」
声が震えている。
紀恵は困惑したように眉をひそめ、一歩後ずさった。
「ごめん、私、あなたのこと知らないんだけど……」
その瞬間、咲希の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「そんな……嘘だよね?お姉ちゃん、私のこと忘れたの……?」
紀恵は戸惑いながらも、冷静に状況を把握しようとしている様子だった。
「ここは病院だよね。私、なんでここにいるんだろう……」
自分の手のひらを見つめ、周りを見回す。
病室。
夕焼け。
見覚えのない少女。
そして、なぜか足元には開封されていない苺ミルクの入ったコンビニ袋。
「……私、何しに来たんだっけ」
つぶやきは独り言のようで、咲希の心をえぐった。
「お姉ちゃん!」
咲希は再び紀恵に抱きつこうとしたが、紀恵は反射的に手で制した。
「ごめんね、でも……本当に分からないの。あなた、誰?」
廊下から看護師が駆け込んできた。
心電図の変化に気づいたのだろう。
「咲希ちゃん!目が覚めたのね!先生を呼んでくるわ!」
看護師は興奮気味に部屋を出ていく。
その間も、咲希は紀恵を見つめ続けていた。
「……お姉ちゃんは、毎日来てくれてたんだよ。体は寝てたけど、お姉ちゃんの声、いつも聞こえてた……」
掠れた声で咲希が言う。
「私が眠ってる間も、ずっと手を握ってくれてた。そうでしょ?」
紀恵は首を横に振った。
「ごめん……本当に覚えてないんだ。私、そもそもなんでここにいるのかも……」
咲希の膝から力が抜けた。
床に座り込み、両手で顔を覆う。
「嘘……嘘だよ……」
◇◆◇
僕は病院の屋上から、その様子をぼんやりと眺めていた。
いつものことだ。
願いは叶う。
代償は払われる。
そして、誰かが泣く。
「……やっぱり見ていられないな」
独り言を言いながら、僕は夜空を見上げた。
星がきれいだ。
人間には見えないものが、僕にはたくさん見える。
紀恵の中から消えていった記憶の欠片も、今なら見えるだろう。
でも、取り戻すことはできない。
契約は絶対だから。
「僕は悪くないよ」
そう言い聞かせるように呟く。
「願いを叶えただけだ。代償も事前に伝えた」
風が吹いて、僕の髪を撫でていく。
「……それでも辛いね」
僕は目を閉じた。
紀恵は今、病院のロビーで看護師に事情を説明されているだろう。
「あなたは長崎咲希さんのお姉さんです」
「毎日面会に来ていました」
「妹さんのことをとても大切にしていましたよ」
そう言われても、紀恵の中には何も残っていない。
咲希という妹がいたこと。
一緒に過ごした日々。
笑った記憶も、泣いた記憶も。
すべてが消えた。
でも、願いは叶ったんだ。
咲希は生きている。
それだけは確かなことだ。
「……次はもう少しマシな結末になるといいな」
僕はそう呟いて、屋上から飛び降りた。
地面に着く前に姿を消し、風に溶けるように消えていく。
また次の願いを探しに行こう。
また次の、純粋で残酷な願いを。
誰かにとっては正解だったはずの願いを。




