毒殺冤罪で公開婚約破棄された私が、王家の誓環で冷徹宰相補佐に上書き求婚したら断罪が逆転して即日溺愛婚でした
グラスが割れる音は、拍手より大きく聞こえた。
王宮舞踏会。金糸の天蓋、香の煙、笑い声。そこへ、伯爵令嬢セレナ・リュミエが、白い指を震わせたまま床へ崩れ落ちた。
彼女の足元で、琥珀色の酒がじわりと広がる。すぐ隣にいた私は、反射的に手を伸ばした。倒れる体を支えようとして。
その瞬間。
「毒だ!」
高く鋭い声が、夜会の空気を裂いた。
声の主は、王太子カイゼル・アストリオン。白い軍礼服の胸元で、飾り鎖がきらめいている。人々は彼の視線に引きずられるように、私を見た。
「リゼリア・ノルデン。お前がセレナに毒を盛ったな」
耳の奥が熱くなる。舞踏会の中心で名を呼ばれるのは、誉れのはずだった。なのに今は、晒し台の上だ。
護衛が私の腕を掴んだ。指が食い込み、骨が鳴る。
「離して」
声は震えなかった。震えたら負ける。ここで泣いたら、私の沈黙は罪になる。
カイゼルは私の沈黙を勝利と勘違いしたらしい。彼は満足げに唇を吊り上げる。
「証拠は十分だ。私は、ここに、公の場で宣言する。リゼリア・ノルデンとの婚約を破棄する。毒の罪で処罰だ」
ざわめきが渦を巻いた。誰かが拍手をした。誰かが当然だと囁いた。私の視界が、白く滲む。
でも、私は深呼吸した。呼吸の奥で、冷たい怒りが固まっていく。
「承知いたしました」
私が言うと、会場が一瞬、静まった。カイゼルの眉が動く。想定外の返事だったのだろう。
私はゆっくりと、左手を持ち上げた。指先の金属が、灯りを反射する。
王家の婚約指輪、誓環。
王家が結ぶ婚約は、ただの言葉ではない。誓環が指に嵌められた瞬間、二人は王国の儀礼と法の網に掛かる。私はその重さを知っていたから、今夜まで外そうとしなかった。
そして今、これが唯一の、逃げ道であり、刃だった。
「では、誓環の条項に従い、返礼をいたします」
「は?」
カイゼルが笑うより先に、低い声が割り込んだ。
「護衛、その手を離せ」
宰相補佐ノアール・ヴェルダン。黒髪を後ろで束ね、顔には表情がない。冷徹、血が通っていないと噂される男。
しかし彼は、誰よりも早く、私の腕を掴む手首を見ていた。まるで、痛みの位置を測るように。
「これは王家の誓環だ。破棄宣言がなされた以上、手続きは法務官の監督下に移る。勝手な拘束は儀礼違反だ」
護衛の指が、わずかに緩む。
ノアールの隣に、背の高い女性が進み出た。銀縁の眼鏡。冷たい目。王宮法務官ユリシア・メルク。
「条項の確認を求めますか」
ユリシアの声には、温度がない。だがそこには、王太子であろうと例外にしない硬さがある。
私は頷いた。
「求めます。今ここで」
ユリシアは短い巻物を開き、淡々と読み上げた。
「誓環条項。公開の場において婚約破棄を宣言された者は、一度に限り、緊急保護婚約の発動を申請できる。申請者は保護者を指名し、指名された者が誓環に触れて受諾したとき、婚約は成立する。なお、誓環は所有者認証を持ち、奪取行為を拒絶する」
最後の一文に、カイゼルの目が細くなる。彼は私の指輪を睨み、次の瞬間、手を伸ばした。
「そんな玩具、取り上げれば」
指が届く直前、誓環が淡く光った。熱ではない。鋭い、拒絶の光。
カイゼルの指先が弾かれたように跳ね、彼は苛立ちを隠しきれず唇を歪める。
「忌々しい」
私は心の中で一度だけ笑った。勝てる。まだ、勝てる。
ただし、私が自分で選ばなければ。
私は誓環を掲げ、会場に響く声で言った。
「私は破棄される側として、緊急保護婚約を申請します。保護者を指名します」
ざわめきが、再び波になる。
視線が刺さる。喉が渇く。だが、逃げない。
「ノアール・ヴェルダン様」
一斉に息を呑む音。ノアールの瞳だけが、ほんの少し揺れた。
カイゼルが怒鳴る。
「ふざけるな! その男は宰相の犬だ。お前の逃げ道には」
「王太子殿下」
ユリシアが無情に遮った。
「条項に従う限り、異議は受理されません。続けてください、リゼリア様」
私はノアールを見た。彼は動かない。動かなければ、私はこの場で潰される。
だから、私は最後の一歩まで自分で踏み込む。
「私を選ぶ理由を言え」
ノアールが言った。冷たく。けれど、その冷たさの中に、確認がある。意思があるか。怯えて言っていないか。
私は、腕の痛みを飲み込み、真っ直ぐ答えた。
「私の腕を掴む手を止められるのは、ここであなたしかいないからです。あなたは今、私の手首を見ました。罪人を見る目ではありませんでした。受けてください」
怖い。でも、自分で選ぶと決めたから。
ノアールは一拍だけ沈黙し、片膝をついた。誓環の光が彼の頬を淡く照らす。
「触れる。嫌なら言え」
その言葉だけで、胸がきゅっと締まった。冷徹な男が、許可を求める。たったそれだけで、私は守られていると思ってしまう。
私は小さく頷いた。
ノアールの指が、私の指先に触れた。
誓環が、夜会の灯りとは別の光で、静かに満ちる。熱はないのに、指輪の内側だけが脈打つように温かい。
「成立」
ユリシアが言った。まるで書類に印を押すように。
会場が凍りつき、次の瞬間、セレナの泣き声が響いた。
「ひっ、わたし、死ぬかと思って」
可憐な声。震える肩。人々の同情は、毒より速い。
カイゼルはその同情を背に、私を指差す。
「見ろ! 被害者が怯えている! こいつは」
「私の婚約者に触れるな」
ノアールの声は、低いのに、よく通った。
彼は立ち上がり、私の前に半歩だけ出る。盾のように。だが盾の押し付けではない。私が立てる場所を残してくれる距離だ。
「次に動いた者は、手続き違反で拘束する。王太子殿下であっても例外ではない」
会場の空気が変わった。拍手の手が止まり、口が閉じる。
私は初めて、自分の心臓の音を聞いた。まだ鳴っている。私は、まだ生きている。
***
控室は静かだった。外の喧騒が厚い扉に吸い込まれ、遠い波の音みたいに聞こえる。
ノアールは私の手首に冷たい布を当てた。護衛の指の跡が赤く浮いている。彼はそれを見て眉ひとつ動かさない。けれど、布を巻く手つきだけが、丁寧だった。
「痛むか」
「少し」
正直に言うと、彼は小さく頷いた。言葉の代わりに、布の端をきっちりと結ぶ。
外套が肩に掛けられる。重い。けれどその重みは、鎖ではなく壁だった。外の視線を遮る壁。
「条件は何ですか」
私は問うた。震えていないつもりだったが、声の端が少しだけ欠けた。
助けられた。それは事実。けれど、私は助けられるための道具になりたくない。
「私を守るふりをして、都合よく使うのなら……誓環を外します。今夜でも」
ノアールは私を見る。黒い瞳。氷みたいに冷たいと噂される瞳。
けれど私は、そこに逃げない視線を見た。逃げないのは、私だけじゃない。
「条件は逆だ」
彼は淡々と言った。
「君が望むなら、今夜限りで解消できる条項を入れる。緊急保護婚約は、保護を目的とする。目的が達せられたなら、関係を続ける義務はない。君の意思が最優先だ」
私は目を瞬いた。
普通はここで、見返りを要求する。体面、政略、口止め。何かしらの代償。
なのに彼は、代償の入口を潰してくる。
「本当に、そういう人なのですね」
「噂は」
「冷たい人だと」
「冷たいふりなら慣れている」
そこで初めて、彼の口元がほんの僅かに動いた。笑いではない。苦味を飲み込む癖。
「君にだけは、慣れたくない」
私の胸の奥で、何かが小さく音を立てた。硬い殻にひびが入る音。
私は慌てて目線を逸らした。今、泣いたら負ける。そう思ってしまうのが、私の悪い癖だ。
「外で……まだ、私を犯人だと思っている人がいます」
「いるだろうな」
「証拠なんて、ないのに」
「だから、証拠を作る」
ノアールは机の上に、誓環を置かず、私の指に嵌ったままの状態で視線を落とした。
「ユリシアが条項の続きに触れなかった。今は、君の心を落ち着かせる方が先だと判断したからだ。だが、断罪を叫んだ者がいる以上、誓環は黙っていない」
「誓環が……?」
「真偽照合の反応を持つ。公開の場で罪名を叫んだ者にだけ、適用される」
私の背筋に冷たいものが走る。
それは救いであり、檻でもある。真実を守るための刃は、時に持ち主の指も切る。
「怖いか」
ノアールは、急にそう聞いた。
私は嘘をつきかけて、やめた。
「怖いです。でも、今夜の私は逃げません」
言った瞬間、体の芯が熱くなった。自分の言葉で、自分の背中を押す感覚。
ノアールは頷いた。
「なら一歩だけ。君の速度で」
その言い方が、妙に胸に残った。彼は私を引きずらない。押し倒さない。選ばせる。
だからこそ、私は彼の隣を歩ける。
***
舞踏会場へ戻る回廊は、噂の刃で満ちていた。
私の名前が、毒のように囁かれる。指差し。嘲笑。好奇の視線。
ノアールはその視線の矢面に、黙って立った。彼の背中が一番大きい盾になるように。
「法務官、条項を」
ノアールが言うと、ユリシアが再び巻物を開く。彼女は空気を読まない。読まないからこそ、信じられる。
「誓環条項、続き。公開断罪がなされた場合、断罪者および被害申告者は、誓環の前で罪状を反復し、具体を提示しなければならない。誓環が虚偽と判定した場合、告発は無効となり、虚偽告発として断罪者に罰が下る」
カイゼルの顔色が、ほんの少し変わった。彼は条項を知っていたのだ。知っていて、なお私を潰そうとした。
なら、彼はこの先、言い逃れを準備している。
「そんなもの、形式だ」
カイゼルは笑ってみせた。王太子の笑み。民のための正義を装う笑み。
「被害者が倒れた。それだけで十分だろう。私は国を守る」
「国を守るなら、具体を」
ユリシアが遮る。冷たい刃だ。
「いいだろう」
カイゼルは深く息を吸い、私を睨む。
セレナは彼の腕に縋りつき、泣きそうな顔で頷いた。二人は一つの物語を共有している。私を悪役にするための物語。
私は、一歩前に出た。
ノアールが手を伸ばしかけ、止める。私が自分で出るのを、許してくれたのだ。
「私が問いを選びます」
ユリシアが頷く。条項には、申請者の問いの選択権がある。私はそれを、今夜のために覚えていた。
「では確認します」
私はカイゼルを見る。彼の瞳の奥に、焦りの影が揺れた。
私はその影を、逃がさない。
「私が入れた毒は、どの杯に、いつ、誰が見たのですか」
会場が静まり返る。誰もが答えを待つ。正義の王太子なら、即答できるはずだ。
「この、床に落ちた杯だ」
「いつ」
「さっきだ。お前がセレナに近づいた時」
「誰が見ましたか」
カイゼルの喉が鳴る。
彼は言い逃れを探して視線を彷徨わせた。けれど、今夜会場にいる人々の目は鋭い。具体を求められた瞬間、作り話は骨を折る。
「私が見た」
「あなた以外は」
「セレナも……そうだな?」
セレナは涙を溜めた目で頷いた。頷いてしまった。
その瞬間、誓環が、静かに光を変えた。
淡い金が、濁る。濁って、黒に近づく。
誓環が黒く濁るのは、虚偽の反応だ。
人々が息を呑んだ。カイゼルの顔が、真っ青になる。
「な、何だそれは……!」
「虚偽」
ユリシアが言った。心底どうでもよさそうに、断言する。
「よって告発は無効。以後、虚偽告発の手続きに移行します」
「待て! これは誓環の故障だ!」
カイゼルが叫ぶ。彼は必死に体面を守ろうとする。王太子は、民の前で転ばないと信じていたはずだ。
だが、誓環は王家の象徴。故障だと言った瞬間、王家そのものを傷つける。
ノアールが一歩、前に出た。
「殿下。誓環を貶める発言は、儀礼違反だ」
声が低く落ちる。氷の槌だ。
カイゼルは唇を噛み、視線を逸らした。
セレナが、今さらのように小さく震えた。
「わ、わたしは……ただ、苦しくて……」
「苦しい原因は、毒ではない可能性が高い」
ユリシアが淡々と言う。
「倒れた原因については医務官が確認する。だが、少なくとも今夜、リゼリア・ノルデンに毒を盛ったという告発は虚偽。よって、断罪は成立しない」
会場の空気が、反転した。
さっきまで私を刺していた視線が、今度はカイゼルに向く。拍手していた手が、ふらつく。
「殿下が……嘘を?」
「まさか」
「でも、誓環が……」
囁きが、今度は彼を毒にする。
私は息を吐いた。長く、静かに。
勝った。けれど、心が軽いわけではない。傷は、ここにある。
ノアールが、私の隣に戻る。戻るときも、半歩。私の立つ場所を奪わない。
「リゼリア・ノルデン」
ユリシアが私を呼ぶ。
「名誉は回復された。拘束の必要はない。婚約破棄宣言については、虚偽告発に基づくものとして無効。ただし、緊急保護婚約は成立済み。解消するか、継続するかは当事者の意思に委ねられる」
私は誓環を見た。指に嵌る金属は、さっきより静かで、重い。
カイゼルが絞り出すように言う。
「お前は、私を貶めた。後悔するぞ」
王太子としての最後の脅し。けれど、それは空虚だった。もう誰も、彼の言葉だけを信じない。
私は彼を見返した。
「後悔するのは、嘘をついた方です」
言い切った瞬間、会場のどこかで小さな笑い声が漏れた。私ではない。私を笑っていた人たちの一部が、今度は彼を笑った。
ざまぁは、派手でなくていい。短く、確実に、刺さるところに刺さればいい。
その夜のうちに、国王から謹慎の命が下りたと、ユリシアが淡々と告げた。王太子派の貴族たちは、一斉に視線を逸らし、いつの間にかセレナも人波に溶けた。
私は、ようやく、自分の足で立っている感覚を取り戻した。
***
回廊の窓辺は、夜の冷気が甘かった。
舞踏会の灯りは遠く、静けさが耳に痛い。
ノアールは隣に立ち、外套の端を私の肩にきちんと掛け直した。触れる前に、視線で問いかける。私は小さく頷く。
それだけのやりとりが、妙に安心だった。
「あなたは……どうして、受けたのですか」
私は聞いた。知りたかった。知ってしまうのが怖いのに。
「緊急保護婚約は、受ける義務はないのでしょう」
「ない」
彼は即答した。
「だから、君が望んだ」
それだけ。とても簡単なことのように言う。
私の胸の奥が、また小さく音を立てた。
「私は利用されたくない」
私はもう一度、言った。今度は強く。自分のために。
「利用しない」
ノアールは、私の目を見たまま言う。
「君の部屋も、時間も、触れることも。全部、君が決めろ。今夜、同じ屋敷に戻る。だが別室だ。扉の鍵は君が持つ。噂は私が潰す。婚約の解消権は、君側に残す」
具体。生活。逃げ道。
私はそれを聞いた瞬間、肩の力が抜けた。甘さは、言葉の糖分じゃない。怖さを消してくれる現実だ。
「冷たい人だと聞いていました」
「冷たいふりなら慣れている」
彼は少しだけ目を細めた。
「君にだけは、慣れたくない」
私は笑ってしまった。声にならない笑い。涙が出そうになったけれど、今度は我慢しなかった。涙は負けじゃない。怖かったと認める印だ。
「私、今夜、怖かったです」
「知っている」
「でも、泣かずに終わらせたかった」
「終わらせたのは、君だ」
ノアールの言葉は短い。けれど、そこには肯定が詰まっていた。
私は誓環に触れる。冷たい金属。けれど、あの黒い濁りは、もうない。
「緊急保護婚約は……明日には終わるんですか」
「君が望めば」
「望まなければ」
「続く」
彼は、そこで初めて、ほんの少しだけ息を吐いた。耐えていたものを吐き出すみたいに。
「私は、君の明日を守る。君が望むなら、その先も」
私は胸の奥の殻が、静かに崩れるのを感じた。
守られるのが怖い。依存するのが怖い。けれど、選べるなら、怖さは甘さに変わる。
私は自分から、彼の手に指先を重ねた。触れる。けれど、これは奪われる触れ方じゃない。私が決めた触れ方だ。
「では命令します」
彼の眉が、ほんの少しだけ上がる。驚き。あるいは喜び。表情に出ない代わりに、目が揺れる。
「明日も、私の味方でいて」
ノアールは、ゆっくり頷いた。
「命令、承った」
そして、額に軽い口づけを落とした。許可を求める視線。頷く私。落ちる温度。
それだけで、世界が少し甘くなる。
彼は懐から小さな封筒を取り出し、私に渡した。
「手紙だ。言葉は、時々足りないから」
封筒を開くと、短い文字が並んでいた。
私は君の明日を守る
君が望むなら その先も甘くする
私は笑った。今度はちゃんと声が出た。
誓環に指を添え、私は静かに息を吸う。
「ノアール様」
「様は要らない」
「……ノアール」
呼び捨ては、少しだけくすぐったい。けれど、嫌ではない。
「緊急じゃなくていい。避難じゃなくていい。私は、自分の意思で、あなたを選びます」
誓環が、淡く光った。さっきとは違う、柔らかな光。
それは檻の光ではなく、約束の光だった。
遠くで、舞踏会の音楽が再び鳴り始める。
私はもう、あの拍手の中で潰れない。
「帰りましょう」
「どこへ」
「私の居場所へ。あなたのいる場所へ」
ノアールは、私の手を取る前に、視線で問いかけた。
私は頷いた。
指先が重なり、温度が移る。
その温度が、私の明日を甘くする。そう、確信できた。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました!
理不尽な断罪の夜でも、選ぶのは自分。怖さを消してから、甘さで満たす物語です。
少しでも面白いと思っていただけたら、ブックマーク・評価(広告下の☆☆☆☆☆)・ひと言感想をいただけると次作の力になります。好評なら誓環シリーズも書きます。




