第一章 宣戦布告、女99人への求愛
風が、優しかった。
辛いときにだけ感じる、あの不思議な感覚。
人はそれを“恋”って呼ぶらしい。
そんなもの、本当にあるのか?
中学の頃の僕は、正直疑ってた。
でもあのときだけは違った。
あの子の言葉が、確かに僕を救ったんだ。
……恋だったのかもしれない。
いや彼女、だったのかも。
けれど、僕にはその記憶がうまく思い出せない。
事故のせいで、断片だけが残ってる。
でも、確かに言えることがひとつある。
彼女はこの学校にいる。
いつかその時が来たら、
ちゃんと、この気持ちを伝えるんだ。
---
片山高等学校。
中学が終わって、高校生活の幕が上がる。
友達と遊んだり、部活で夢中になったり、好きな人と付き合ったり
誰もが憧れる、あの“青春”ってやつだ。
そして、僕もその“新入生”の一人。
期待と不安が入り混じる朝。
体育館では、入学式が始まろうとしていた。
校長先生の話が……やたら長い。
あくびを噛み殺しながら、周囲をぼんやり見回していた、そのときだった。
「いつでも待ってるよ、青松。」
その声が、ふいに、耳元に届いた。
一瞬、空気が止まったような感覚。
僕は思わず立ち上がりそうになった。
……体育館の端のほう。
今、確かにあの声が聞こえた。
奇跡的なタイミングで、クラス全体に「起立」の号令がかかった。
動きにまぎれて、誰にもバレずに済んだ。
嘘じゃない。
あの声と同じだった。
でも、まるで幻みたいで……怖いくらいに現実感がない。
教室に向かう途中、グラウンドから先輩たちの声が聞こえてくる。
サッカー部、男子バレー部、女子バスケ部──この学校では、どれも毎年県大会に出てるらしい。
たぶん今も、期待に応えるための練習に励んでるんだろう。
「……俺、部活どうしようかな」
まだ何も決めてない。
そう思った直後、頭の片隅で別の声が囁く。
いや、それよりも。彼女のこと、だ。
教室に着くと、担任の片山先生が前に立っていた。
ふわっとしたロングスカートに、白いシャツ。見た目はどこか緩いけど、目だけはやたらキラキラしてる。
「はーい、それじゃまず私の自己紹介からね。片山楓って言います。国語担当。あと、サッカー部の顧問も一応やってまーす」
明るく手を振る先生に、クラスが笑いに包まれる。
少し緊張が和らいだところで、生徒の自己紹介が始まった。
僕は出席番号16番。順番が少しずつ迫ってくる。
「えーっと、温水と申します。好きなことは、漫画を読むことです。一年間よろしくお願いします……」
少し声が小さくて、何となく目を伏せてる。
コミュニケーションが苦手そうな子だ。
「西片山中学校から来ました、斎藤拓哉です! よろよろ!」
元気よく手を振る男子。緊張してるのか“よろしく”が崩壊していた。
教室に小さな笑いが起きる。
そして僕の番が来た。
覚悟は決めていた。ここで引いたら、全部が崩れる。
視線が一斉に、僕に向かう。
「青松尚輝と申します」
まずは丁寧に。それから
「シンプルに言います。俺は、この片山高等学校の一年の女子全員に告白して、結婚を目指します」
教室の空気が止まった。全員の思考が、今、一時停止している。
「……いや、結婚って言うか、好きになってもらえるよう努力します。一年間、よろしくお願いします」
席に座るまでの数秒が、異様に長く感じた。
男子の一部からは笑い声。
女子からはあきらかに“殺意”を含んだ視線。
ちらりと後ろを見ると、出席番号17番の男子が、無言で絶望の顔をしていた。
「急にハードル高くすんなよ……」
「ごめんごめん」
小声で謝ると、彼はため息をついて顔を伏せた。
全員の自己紹介が終わり、次は“学活”の時間。
片山先生が、四人ずつグループになって“高校生活でやりたいこと”を話し合うよう指示した。
僕の班は、男女2人ずつの構成。
「じゃあ、右側の人から話していこうか」
僕が最初か。何から言おうかと考えていると
「ちょっと、質問いい?」
女子のひとりが手を上げずに喋った。
「女子全員と結婚するって、本当? マジでウケるんですけど」
笑いながら言うその子に、僕は堂々と答える。
「本当本当! “青松”って名前、ちゃんと覚えといて!」
「そういえば、名前は…?」
「は? 自己紹介したばっかじゃん。しょうがないなあ……現実とアニメを混同してるおバカちゃんのために教えてあげるわ。丸山みや、よろしく」
「みやちゃんね。ありがとう、よろしく!」
話し合いはそのまま進行していく。
冗談半分、興味半分。
でも、この三人とは案外うまくやっていける気がした。
丸山みや。山口春潮。中山青空──どれも、素敵な名前だった。
学活が終わり、ホームルームも終了。
帰り支度をしていると、春潮が声をかけてきた。
「三人で一緒に帰らない?」
「いいよ、有り有り!」
「俺も賛成」
門の前で待っていると、どこからともなく視線が突き刺さる。
もう、他のクラスにも噂が広まったらしい。
さっきの自己紹介が、想像以上にインパクトがあったってことか。
そのとき、春潮が走ってきた。
「待たせてごめん!」
「別にいいよ。それより、みやと青空ちゃん遅くない?」
「たしかに遅いな……」
五分ほど待ったところで、ようやく二人が姿を現した。
「遅くなってごめん」
「遅すぎるって」
「すまんすまん!」
「じゃ、行こっか」
門を出て、四人で並んで歩きながら、みやがつぶやく。
「こういうのって、青春ってやつじゃない?」
「いやいや、違う違う。部活で汗かいて、クタクタになって帰るときが本物でしょ! これじゃ半分くらいしか青春してない!」
春潮がなぜか全力で熱弁する。
「……人によって、青春の形は違うと思うな。春潮が元気すぎるんだよ……」
青空がぽつりと言う。
みやはその肩を抱きしめた。
「あ~もう、うちの青空ちゃんってば、なんでそんな可愛いこと言うの!」
「ちょっと、やめてよぉ~……」
そんな二人を見ながら、俺は春潮にこっそり訊いた。
「なあ、俺ら……これ、どういう気持ちで見ればいいんだろうな」
「さぁ~?」
他人事のように言って、春潮は笑った。
しばらくして、青空が途中の交差点で手を振って別れ、春潮も別方向へと歩いていった。
みやと俺だけが残った。
「……私たちだけになっちゃったね」
「なっちゃったね」
少しの沈黙と、柔らかい風が二人の間を通り過ぎた。
「今日、ちょっと安心した」
みやがぽつりと、つぶやいた。
「安心?」
いきなり何の話かと思って振り向くと、彼女は少し照れくさそうに笑っていた。
「高校で、ちゃんと友達できるか不安だったんだよね。中学のとき、あんまり友達いなかったからさ」
「おー、それならこの俺と友達になれて光栄に思いな!」
冗談めかして言うと、みやが小さく笑った。
「……うん。出会えてよかったかも」
風がまた吹いた。今日はいろんなものが、やけに優しい気がする。
「ねえ、あのさ。“女子全員に告白する”って計画、いつから始めるの?」
「明日からやるつもり。まずは1年の名簿を調べるところから」
「そっか……」
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ──みやの笑顔が消えた。
「……どうした?」
「ううん、何でもないよ。応援してるから」
そう言って、みやは笑顔を戻す。
「じゃあ、私ここだから。また明日」
「うん、また明日」
一人になると、急に空気が静かになった。
なんだろう、さっきまでみんなで笑ってたのに。
「……まあ、帰るか。昼メシ食わなきゃな」
そうつぶやいて歩き出したその時。
背後から、低い声が飛んできた。
「おい、待て」
「え?」
振り返ると──そこには、見覚えのない男子が立っていた。
身長は140センチほど。体型は……かなり大きい。ざっと見て100キロ近くはありそうだった。
制服のボタンがはち切れそうで、目だけがやけに鋭かった。
「……あの、何か?」
なるべく冷静に訊ねたが、彼はニヤリとも笑わず言った。
「お前の計画、アホアホシイ」
「はっ?」
「そのままの意味だ」
……何者なんだこいつ。
何か言い返そうとしたが、彼は一方的に言い捨てると、くるりと背を向けて去っていった。
その背中を、しばらく見送る。
あれは……何だったんだ? ただの冷やかし? それにしては……何か、妙だった。
家に着く。
扉を開けると、誰もいない静けさが迎えてくれた。
「ただいま……」
誰にも返事はない。
──そうだ。俺、一人暮らしなんだった。
なんか……急に、寂しいな。
翌朝、目が覚めると、なぜか頬が濡れていた。
鏡を見ると、目が赤くなっていた。……涙を流していたらしい。
「夢……見たのか」
なんとなく、昨日の夢の内容を思い出そうとする。
あの人のことだった。
中学最後の文化祭。……振られた日。
でも、それ以上は思い出したくない。
「やめとこ……」
そう呟いて洗面所へ行き、手を洗ってうがいを済ませる。
朝ごはんは卵焼きとベーコンにするつもりだ。
最近、自炊が楽しくなってきた。男のくせにって言われそうだけど──いや、そこはもうどうでもいい。
ジュウ、と油のはねる音。
ベーコンの焼ける匂い。卵の甘み。
シンプルな朝食を皿に盛って、一人で食べる。
「……うまい」
さあ、今日から始めよう。
僕が最初に告白する相手は
一年一組、出席番号3番・阿部愛梨。
髪はショートカット。
光が当たるときらきらと黒く輝く、その髪が印象的だった。
僕から見れば、間違いなく“可愛い”と言える人。
名前を考えるだけで、ちょっと緊張してくる。
……もし、あの人に再び出会えたら、こんな緊張じゃすまないかもな。
「今日のホームルーム前に、連絡先を聞いてみよう」
決意を胸に、家の鍵を取り、ドアを開けた。
春の空気が、ほんの少し冷たくて気持ちいい。
登校中、すでにいろんな視線を感じる。
憧れ、好奇心、殺気混じりの敵意まさにカオスだ。
先輩たちにまで噂が広まったようだった。
そして、校門に到着すると
彼女の姿が見えた。
阿部愛梨が、友達と笑いながら話している。
その姿を見た瞬間、自然と足が動いた。
「おおー、今噂の青松じゃないか」
愛梨がこちらに気づいて、茶化すように言った。
「こんにちは、愛梨」
「学校の有名人が、私に何の用かな~?」
なんだか無理して軽くふるまってる感じがする。
「……連絡先を、聞こうかなって」
「私の連絡先? いいわよ。ただし、条件が一つあるけどね」
そう言って、彼女は
まるで何か企んでいるような、悪い笑顔を浮かべていた。