第3章:歪み
翌朝、マクレガンは二度寝に失敗し、眠気を引きずったまま署に向かった。
殺人課のオフィスには、すでに何人かの刑事が出勤していた。がやがやとコーヒーの香りが漂う中、マクレガンは重たい足取りでデスクに着く。隣の机には、若い刑事のミラーが書類の山に埋もれていた。
「おはようございます、マクレガンさん。昨日の報告書、早かったっすね。徹夜ですか?」
「……まあな」
曖昧に返しながら、彼は自分のデスクに座った。
──そこで、違和感を覚えた。
机の上の卓上時計の針が、午前6時23分で止まっている。
それも、ぴたりと静止したような不自然さだった。
マクレガンは眉をひそめ、スマホを確認する。午前8時47分。明らかにズレていた。
(電池切れか……)
そう思って時計を持ち上げようとしたが、背面には新しい電池が入っていた。交換したのは、つい三日前のはずだ。
「……変だな」
ミラーに何気なく訊く。「おい、お前のカレンダー、日付どうなってる?」
「今日っすか? えっと、12月……6日ですね」
だが、マクレガンのカレンダーは“12月7日”を指していた。
破った記憶はない。誰かがイタズラした様子もない。
些細な違和感。けれど、それはどこか、脳の奥を不気味にくすぐるような感覚だった。
⸻
午前中は、事務的な報告と再捜査の書類仕事で終わった。
だが午後、さらにひとつの“ねじれ”が起きた。
ミラーがやってきて、彼のデスクにメモを置いた。
「さっき言ってたっすよね。病院の監視カメラの件、調べるって」
「……何の話だ?」
「え? 今日の朝ですよ。『確認しとけ』って言ったじゃないですか。ほら、俺、メモまで取ったんですよ」
メモには、彼の筆跡そっくりな文字で、《病院監視カメラ→火曜の夜9時以降》と書かれていた。
だが、マクレガンにはその会話の記憶がない。
冗談かと思った。だがミラーの顔は真剣だった。
「……大丈夫っすか? なんか顔色悪いですよ」
「いや……問題ない。ちょっと寝不足なだけだ」
嘘だった。
眠ってはいる。だが、眠りがどこか異常だった。
夢が現実にまでにじんできている──そんな、得体の知れない不安が頭から離れなかった。
⸻
夕方。休憩室のソファに座り、冷めたコーヒーを飲んでいた時のことだった。
廊下を通る同僚のサムが、ふとマクレガンを見て言った。
「……お前、昔はもっとよく笑ってたよな」
何気ない言葉。だが、胸に鋭く突き刺さった。
マクレガンは答えなかった。
ただ黙ってコーヒーをすすった。
(笑ってた、か……)
あの頃の自分を思い出す。妻と娘と、公園でピクニックをした午後。
ビデオカメラ越しに、妻が笑いながら「もう、そんな顔しないの!」と言っていた。その映像は今もハードディスクに眠っている。
──そして、もう二度と撮れない。
⸻
夜、自宅に戻ったマクレガンは、何とはなしにPCを起動した。
眠る気にはなれなかった。昨夜の夢のことが、まだ脳裏に焼き付いていた。
PCのスピーカーから、ふと微かな音が聞こえた。
サー……というノイズの中に、何かが混じっている。
再生中のアプリは何もない。だが、確かに聞こえた。
「パパ……」
その声が、娘のものだと気づいた瞬間、マクレガンの背筋に冷たいものが走った。
だが、音はそれきりだった。
ログにも履歴は残っていない。まるで、最初から存在しなかった音のように。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
──そして、部屋の片隅に置かれた鏡に、一瞬だけ“何か”が映った気がした。
青い、髑髏のような形をした影が。