魔女の森、仄かな灯
僕が森に捨てられたのは、まだ冷たい十の春だった。
その年は冬の名残が長く、村の大人たちは畑の土に祈りを埋めてばかりいた。
誰にも惜しまれず、僕は一人きり森へ追いやられた。
どうせなら静かな場所で、と思っていたけれど、不思議だった。
死に場所を探して歩いていたはずなのに──
ふいに、風がやわらかな匂いを運んできた。
焚き火、ハーブ、焼きたてのパン。
香りに誘われるようにして、僕は森の奥の灯を見つけた。
そこにいたのが、ミャリカだった。
彼女は長い黒髪で、くちびるは血のように赤く、少しだけ影のある濡れた瞳をしていた。
首を傾げはすれども、僕を追い返すことも、名前を尋ねることもなく、そっと差し出してくれた毛布からは、薬草の匂いがした。
「……ひとり?」
その問いにうなずいたあの日から、僕の春は、ゆっくりほどけていった。
ミャリカは、村人たちから“魔女”と呼ばれていた。
その実、彼女はただの薬師だった。時々動物と話すように見えたけれど、僕からすれば、村の大人たちよりずっとまともだった。
春が終わるころ、彼女は僕に薬草の見分け方を教えてくれた。
夏には、一緒に野いちごを摘んで、手を真っ赤に染めて笑った。
秋には落ち葉の上で星を数え、冬にはふたりでスープの鍋を囲んだ。
彼女は、季節を語らない代わりに、静かに生きていた。
僕は、言葉より先に彼女の背中を覚え、しぐさを覚えた。
ある日の夕暮れ、ミャリカは泉のほとりで小さな歌をうたっていた。
それは森のことばのようで、誰のものでもない旋律だった。
そよ風に揺れる彼女を見たとき、僕の中の何かが静かに起こされた。
──この人の悲しみに、そっと手を添えられる存在になりたい。
思えばきっかけは些細で、けれど確かな種火だった。
十六の冬。
森は深い雪に包まれ、小屋の灯が一層あたたかく感じられるようになった。
ある晩、焚き火の前で僕は言った。
「ミャリカが好きだ。ずっと、そばにいたい」
ミャリカはただ言葉を食むように、穏やかにまばたきをしていた。
焚き火が数回爆ぜた後、静かに僕の頭を撫でて、少しだけ笑ってこう言った。
「……それなら、薪を忘れないで。寒いのは苦手なの」
それが彼女なりの返事だった。
それから、僕らの暮らしは緩やかに変わった。
食器がふたつ並び、眠る毛布も、湯の支度も。視線が交じわれば笑い、名前を呼ぶ声は、小さくても良くなった。
春、また雪が溶けて、森の鳥たちがさえずり始める。
ミャリカはいつもより早く目覚め、庭に薬草を植えていた。
僕は土を耕しながら、ふと思い出す。
──あの泉の歌。あの旋律。
「ねえ、あの歌、また唄ってくれない?」
そう頼むと、ミャリカは少し照れくさそうに笑った。
「……あれはね。昔、母がよく唄ってたの。忘れたくなかっただけ」
「でも、今は?」
「今は……忘れても平気かもしれない。誰かさんがいるから」
それだけ言って、彼女は小さなハミングをくちずさむ。
風がそれをさらって、森の奥へと運んでいく。
日々は静かに、色を変えながら流れていく。
春の土が彼女の指先を染め、夏の風が彼女の髪を撫で、秋の陽がふたりの影を伸ばし、冬の火がその肩を照らす。
誰にも知られず、誰にも祝福されず、でも、ここには確かなものがある。
たとえば名前を呼ぶ声。
手をつなぐ瞬間。
ふたり分の湯気。
肩越しの沈黙。
そのすべてが、
僕にとっての灯だった。
あの日、森で見上げた淡いあかり。
今、それは僕の隣で、そっと笑っている。