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敦盛散華

作者: 秋山如雪

 少年は、夜の海を見ながら笛を吹いていた。


 その手に握られているのは、祖父・忠盛ただもりが鳥羽院から授かった、「小枝さえだ」という笛だった。


 少年の名は、平敦盛。この時、15歳。


 寿永二年(1183年)5月の倶利伽羅くりから峠の戦いで源義仲(よしなか)に敗れた平氏は兵力の大半を失い、同年7月に幼帝の安徳あんとく天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州の大宰府だざいふまで逃れていた。


清経きよつね殿も亡くなった。これから平家はどうなるのだろうか)

 平相国へいしょうこくと呼ばれた平清盛(きよもり)入道の弟の子、甥である敦盛と、清盛の子、重盛しげもりの三男で、清盛の孫に当たる清経は年も近く、仲が良かった。

 同時に、共に笛の名手として、お互いに通じるものがあった。


 その清経が、豊前ぶぜん国柳浦にて突如、入水自殺を計ったのは、わずか数日前のことだった。


 その衝撃は、彼には計り知れなかった。


 夜の海に漂う、満月を見ながら、笛を吹いていた敦盛だったが、その音色は、死者を弔うかのように、寂しげであった。



 寿永二年閏10月1日。清盛の五男であり、敦盛にとって、叔父に当たる重衡しげひらが率いる軍が、備中びっちゅう国水島において、源義仲の軍を打ち破る。


 平氏は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築。勢力は衰えていたが、「海の上」では平氏はまだまだ強かった。


 義仲軍は足利義清・海野うんの幸広の両大将や足利義長(義清の弟)、高梨高信、仁科盛家といった諸将を失い壊滅、京都へ敗走することになった。


 この勝利により平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津せっつ福原まで戻ることになる。


 そして。

 寿永三年(1184年)2月4日、鎌倉方は矢合せを7日と定め、源頼朝の弟、範頼のりよりが大手軍5万6千余騎を、義経が搦手からめて軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。

 平家軍は福原に陣営を置いて、その外周、即ち東の生田いくた口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口に強固な防御陣を築いて待ち構えることとなる。


 ところが、同日、搦手を率い丹波たんば路を進む源義経軍が播磨はりま国・三草みくさ山の平資盛(すけもり)(清盛の子、重盛の次男)、有盛(ありもり)(同じく四男)らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する。世にいう三草山の戦いだ。前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥どひ実平に追撃させて山道を進撃した。


 軍議が開かれたのは、その直後だった。


 平家方の大将は、「知の知盛とももり」と呼ばれ、「新中納言」と称された、平清盛の四男、平知盛であった。


 軍議には、清盛の異母弟の忠度ただのり、同じく三男の宗盛むねもり、五男の重衡も参加。同時に、敦盛と共に最年少格の知盛の嫡男、知章ともあきらの姿もあった。


 また、勇将として名高く、敦盛と同じく清盛の甥でもある「能登守のとのかみ」平教経(のりつね)の姿もあった。


 威風堂々たる、武人で、弓矢の名手であった教経は、この中でも一番、「戦に場慣れ」しているように、敦盛の目には映っていた。特に恐ろしげな、「鬼」のように鋭い眼光が苦手だった。


「さて。作戦だが」

 知盛が一同を見回す。薄く口髭を生やし、端正な顔立ちの彼は、この時、33歳。敦盛の目には、いつでも冷静沈着な、「大将」格には相応しい人物に、知盛は見えていた。


「私と重衡は生田口、通盛みちもりと教経は夢野口、忠度は一ノ谷口と塩屋口を守れ」

 通盛は、教経の兄に当たる。なお、塩屋口は、一ノ谷からさらに西になる。


「はっ」

 諸将が頷く中、一番若い敦盛が疑問に思ったことを声に出していた。


「知盛様」

「何じゃ?」


「それだけにございますか?」

「それだけ、とは?」


「源氏方は、総兵力6万を越える大軍にございます。万が一の備えをしておいた方がよろしいのでは?」

 だが、若く、戦の経験がほとんどない敦盛の発言など、彼らには聞く耳を持たないものだった。ましてや、平家軍は8万とも10万とも言われる大軍を擁していた。


「敦盛。そなたは若いからわからんだろうが、我が方は、一ノ谷を中心に強固な陣を構築しておる。万が一にも破られることはあるまい」

「しかし……」


 なおも食い下がろうとする敦盛を鋭い声で制したのは、あの恐ろしい目をした教経であった。

「黙れ、小僧」

 その迫力と、他人を圧するような威圧感のある声音に、敦盛は黙った。


「平家が総力を結集するいくさだ。知盛殿の申される通り、万が一もありえん。それに我が方は、沖に宗盛殿も控えている。いざとなったら、海に逃げる。海の上では平家は無敵だ」

 彼の言葉通り、清盛の三男、宗盛が海上に船と共に待機する手筈になっていた。


 だが、敦盛には、それは「逃げ」の戦術に思えてならなかった。


 同時に、背後の山が気にかかっていた。

「どうした、敦盛。怖気づいたか?」

 そう、野太い声をかけて、彼の考えを止めたのは、知盛の長男で、16歳で、同い年の知章だった。父の知盛とは反対に、筋骨隆々の力自慢の男だった。


「違います。ただ、あの山が気になります」

 そう言って、彼が指を差した先には、鉄拐山てっかいざんという山があり、この軍議が行われている一ノ谷の西に当たる。


 ただ、そこは険しい断崖絶壁の山というより、「崖」であった。


「私が源氏の大将なら、あそこから攻めます。ですから、どうかあの辺りの守りを……」

 と言いかけたところで、大きな笑い声が響いた。


 忠度だった。つられて、教経まで笑っていた。

「ははは。敦盛。おぬし、戦を知らんな。あのような断崖絶壁から攻められるものか」

「まったくだ。小僧はおとなしく、後ろで見ておれ」

 二人の大人にからかわれた上、大将格の知盛からも、


「鉄拐山はないな。それにその辺りには、忠度殿を配しておく。文武両道のそなたなら、万が一の心配もあるまい」

 と、忠度に念を押しており、忠度も、「お任せあれ」と自信満々に頷いていた。


 だが、若い敦盛の感性は、違っていた。

(誰もが「攻めない」と思うところから、攻められたら、終わる。しかも九郎義経はいくさ巧者こうしゃと聞く)


 彼は知っていた。

 源義経は、京の都で、「朝日将軍」と呼ばれ、権勢を振るって、暴虐の限りを尽くした源義仲を、同族でありながら、宇治川の戦いで、見事に制し、さらについ先程入ってきた情報では、三草山で資盛、有盛を破っている。


 それまで、源義経の名を知らない者が多かったが、彼はこれらの戦で武名を上げていた。


 さらに、気になったのは、義経の軍が、軍を分けたことだ。1万騎を率いていたはずの搦手の大将格の義経は、忽然と「消えた」と思われていた。行方が掴めないのが不気味に思えた。


(何もなければよいが)

 彼の視線の先にある、鉄拐山。またの名を「鵯越ひよどりごえ」と呼んだ。



 2月7日払暁。


 一ノ谷の合戦は、ある男の「名乗り」から始まった。


「遠からん者は音にも聞け。近くば寄って目にも見よ! やあやあ、我こそは平貞盛(さだもり)の孫、維時これときの6代の子孫にて、武蔵七党、武蔵国むさしのくに熊谷在住、熊谷くまがい次郎直実(なおざね)なり!」


 この時代、まずは「名乗り」を上げてから戦が始まるのが、一種の「作法」だった。


 先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実くまがいなおざね・直家父子と平山季重(すえしげ)らの5騎が、忠度の守る、一ノ谷口の西にある、塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。


 そして、この「男」こそが、敦盛の運命を握ることになる。


 平氏は最初は少数と侮って相手にしなかった。

(気が緩んでいる)

 そう思った、敦盛は、愛馬の白馬を駆って、その場所を守っている忠度の元へ行き、進言する。


「忠度様。何故、仕掛けないのですか?」

「うむ? 敦盛か。まあ、あのような小物は余興に過ぎん」

 忠度は、余程自信があるのか、兜をつけないまま、烏帽子だけを被っていた。


「今、すぐ攻めるべきです。相手が少数なら勝てます」

 しつこく進言する、敦盛に業を煮やした忠度は、ようやく渋々ながらも頷いた。


 忠度の兵が、討ち取らんと繰り出して直実らを取り囲む。直実らは奮戦するが、たったの5騎である。

 多勢に無勢で討ち取られかけた時。馬蹄を響かせ、砂煙を上げて、後方から襲いかかってくる一団があった。土肥実平率いる7000余騎だった。


(だから、気が緩んでいると……)

 敦盛もまた、その戦の中に駆けこんでゆく。


 たちまち、激戦となった。



 一方、その頃、東の生田口では。

 午前6時。知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時(かげとき)、畠山重忠(しげただ)以下の大手軍5万騎が布陣。


 範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏はほりをめぐらし、逆茂木さかもぎを重ねて陣を固めて、万全の体勢で待ち構えていた。


 平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ源氏軍をひるませる。平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねた。そこへ梶原景時・景季かげすえ父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。


 また、義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口の攻撃を開始する。


 生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は容易には突破できなかった。


 戦況は、平家方が有利だった。


 即ち、「地の利」を生かして、ここに強固な防衛線を張った、知盛の「作戦勝ち」と思われた。


 ただ、それでもなお、敦盛は、背後の「あの山」が気にかかっていた。


 昼前頃。

 尚も、果敢に戦っていた敦盛が、不意に山を見ると、山の上にわずかながら、人影があるように思えた。


(まさか)

 嫌な予感を覚え、太刀で源氏方の雑兵を斬った後、山上に目をこらす。


 そして。

 突如、鉄拐山から雪崩が起きたか、と思った。


 それほどまでに強烈な「坂落とし」と思われる一撃。


 文字通り、「空から兵が降ってきた」状態だった。


 源義経はこの時、地元の猟師に案内させ、わずか70騎を率いて、この鉄拐山に到着。


 しかも、「鹿がたまにこの崖を下っている」という情報を猟師から聞き、「鹿も馬も四本足だ。鹿が下れるなら、馬でも下れる」と、部下を鼓舞し、強引に駆け下ったとされている。


 実際には、ほとんど垂直に近いくらいの、文字通り「崖」に近いところで、実際に1頭の馬が足をくじいている。


 この「鵯越の坂落とし」が決定打となった。


 突如、空から降ってきたような兵に、平家軍は大混乱になり、予想もしなかった攻撃に慌てふためき、その間に義経軍が火を放つ。


 平忠度が守っていた、塩屋口の西城戸も突破され、逃げ惑う兵士たちが、沖合いの船に殺到。溺死者が続出していた。


 それを見ていた敦盛は、悠然としていた。

(これで、平家の命運も尽きたな)

 彼は、慌てふためく味方を横目に悠然と浜をさすらい、敵兵の姿を探して歩き、幾人かと交戦していた。


(この上は、せめて一矢報いるために、何か土産でも……)

 

 そう思って、浜辺をさまよっている間に、後ろから野太い声をかけられていた。


「卑怯にも敵に後ろをお見せになるのか?」

 馬首を返す敦盛。


 彼は、「逃げていた」わけではなく、「敵を」求めてさまよっていただけだったが、反論はしなかった。


 そして、

(あの男か)

 脳裏に、開戦時のことが思い浮かんでいた。


 あの「名乗り」を彼は遠くから聞いていた。特徴的な野太い声、口髭を生やした、熊のような大柄な男で、年齢は40代くらい。


「名のある武士もののふとお見受けした。一手手合わせ願おう」


 男は、黒い馬から降りると、浜辺に降り立ち、太刀を抜いた。

 敦盛もまた、白馬から降りて、自らの太刀を抜く。


 あとは、「男同士」の「生死を賭けた」一騎打ちだ。


 幸い、周りに他の兵士がおらず、邪魔者となる者はいなかった。


 一太刀、二太刀と斬り結ぶが、すぐに、

(強い)

 敦盛は、早くも押されていた。


 年齢的には、彼の父の経盛よりは若いが、「父」と思っても不思議ではない年齢と経験の重さを感じる。


 2人は、打ち寄せる波に揉まれ、何合も斬り結んでいたが、なかなか決着がつかなかった。


 そのうち、敦盛が仕掛けた。

 素早い足運びから、相手の正面に突っ込み、正面から斬ると見せかけて、横に飛び、そのまま下から上に「斬り上げていた」。


 鮮血が飛び散る。


 男の顔面、顎から鼻にかけての部分が朱色に染まり、兜は宙に舞っていた。

(勝った!)

 そのまま、ひるんでいる相手に対し、上から袈裟斬りに斬りつけようと構える。


 だが、敦盛にとって予想外のことが起こった。

「うぉぉー!」

 雄たけびを上げながら、体ごと男が突進し、敦盛の細い体に激突。そのまま太刀を海中に落としていた。


 気がついた時には、腕を捕まれ、そのまま海中に転ばされていた。


 浮き上がった時には、男に組しだかれている状態で、両肩を筋骨隆々な、男の両腕に抑えられていた。


 そのまま兜をはぎ取られる。

 死を覚悟した。


 しかし、男は、そのまま硬直したように動かなかった。

 その目は、どこか「憐れんで」いるような「悲しんで」いるような、瞳の色をしていた。


「大した者ではないが、武蔵国の住人、熊谷次郎直実だ。名を聞こうか?」

(知ってるさ)

 あの、大音声の名乗りを聞けば、嫌でも耳に入る、と敦盛は、最期を迎えるにしては、冷静に思い出していた。


「私が名乗らずとも、首を取って、誰かに尋ねればよい」

 この世の最期が迫るにしては、我ながら冷静だと思っていた。


 だが、最期の時はなかなか訪れなかった。

 何故なら、この「熊谷直実」が躊躇していたからだ。


 恐らくは、「若すぎる」ことで、後悔か、躊躇の念が先に立っているのだろう。今さらなことだ、と敦盛は感じていた。


 その時、後方の浜辺の先から、数十騎の武者が駆けてくる姿が、敦盛の目に映った。源氏方の兵士たちだ。


 なおも、躊躇している直実に、

「早く討て。他の者に取られる前に、おぬしの手柄とするがよい」

 そう言って、目を閉じた。


(さらば、父上。皆々も)

 最期の最後に念仏を唱える余裕もない。


「うぉぉおおおっ!」

 まるで、熊か狼の叫び声のようだ、と思いながら、熊谷直実が泣きながら振るった太刀が、若い敦盛の最期に見た光景になった。


 享年16歳。


 平敦盛の、「若すぎる死」は、その後、「平家物語」に描かれ、数百年後には「敦盛の舞」として、かの織田信長にも歌われることになる。


 そして、熊谷直実。

 彼が、敦盛を殺すのを最後まで躊躇ったのは、自らの息子の「直家」が、この敦盛と同世代だったからだ、と言われている。


 彼は、戦という非情な舞台で、偶然、平家の御曹司に「息子」を重ねていた。


 直実は、弓矢の名手でもあった。

 だが、敦盛を討ったことが余程、精神的に響いたのか。


 その後、出家して、法然ほうねんに弟子入りし、法力房蓮生ほうりきぼうれんせいと名乗り 、後日、いくつかの寺を建立している。


 源頼朝の配下の者たち、つまり彼の同僚たちは、あるいは疑いをかけられて殺され、あるいは兄の頼朝に討伐され、いずれも悲惨な最期を迎えている。


 だが、直実は、建永二年(1207年)まで天寿を全うしている。


 直実の遺骨は遺言により、西山浄土宗総本山光明寺の念仏三昧堂に安置されたと言われている。

 彼の墓は現在法然廟の近くにある。また妻と息子・直家の墓は、熊谷寺の直実の墓に並んである。


 そして、高野山には直実と敦盛の墓が並んである。金戒光明寺には法然の廟の近くに、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにある。


 翌寿永四年(1185年)、壇ノ浦の戦いで、平家は滅亡するが、源氏もまた源頼朝の死後に、北条氏によって、滅ぼされることになる。


 これは、若き平家の御曹司の歩んだ、死ぬまでのわずかな記録。

(完)

初の短編。難しいですね。短い文で書くのが苦手な自分にはツラい。久しぶりに歴史物を描くのと同時に、源平物は初めてだったりします。

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