スカイアンカー
「わかりません」
僕は首を振って否定した。
僕の前には警察の人が居た、若い女性が一人、少しくたびれたおじさんが一人。
生徒指導室の窓から覗く空は僕の頭の中とは正反対に雲ひとつない春の青。
僕は、何かを言われる前に言葉を続ける。
「ダイゴはいいやつで、あいつを嫌ってるやつなんて居なかったと思います」
仮に嫌っているヤツがいても、大悟にどうこうする度胸のあるやつなんて居なかっただろう。
「僕もよく話しました、他愛のない話も真面目な話も、でも、あいつが悩んでる素振りなんか一度も見たことがなかった」
親友だと思っていた、周りから見れば変な目で見られるような話もした。
「ダイゴが死のうとしてたなんて、僕には検討もつきません」
最後にひとつだけ僕は嘘をついた。
中学の三年目、受験も終わった三月、僕が私立の受験で学校に居なかったその日、一人の生徒が学校の屋上から飛び降りた。
迷いなく頭から真っ逆さま、頭蓋をきれいに割り、頚椎を粉々にし、見事な華を咲かした。
遺書はなかった。
成績は上の中、人当たりもよく、スポーツも嫌味のない程度にできる男。
受験だって目標の公立になんの問題もなく受かっていたし、よく妹や両親のことを楽しげに話していたのを覚えている。
そんなどこにでもいる、よくできたヤツ、それが僕の親友であった大悟という男だった。
彼の交友関係は広く、警察の人達も聞き込みに難儀していた。
なにせ、本当になにも問題が無い青年だったからだ、そしてその中で僕に白羽の矢が立ったのは周囲から見て一番彼と仲がよく見えたのが僕だったから、だそうだ。
それ故に名誉なような迷惑なようなそんな感情を懐きながら、僕は警察の事情聴取に付き合うことになった。
結果として彼らの希望するような、問題も、手がかりも僕は提供できなかった。
帰りに、大悟の両親に会った。
彼らは、しきにりに僕に頭を下げた。
曰く、家ではよく話題に出て、一番の親友だと言っていた、楽しいヤツだと。
僕は困ってしまった、むしろ話を聞いてもらっていたのは僕の方で、だからこそ、礼を言うべきは僕の方だとすら思っていたからだ。
ただ、話の節々で彼がなにか悩んでいなかったか、それをしきりに聞いてきたのは少しだけ居心地が悪かった。
僕は唯一つの真実として、彼は家族を大切に思っていたし、不満もなかったと伝えるので精一杯で、なんなら、妹に僕を紹介しようとまでしていたのを断ったくらいだ、とまで口を滑らせてしまった。
そう、彼に悩みはなかった。
僕と大悟の関係はまったくもって、普通の友人関係だと言い切れる。
そこに恋の悩みや、特殊な性の悩み、悪巧み、思想のぶつかり合い等というのはない、学校が終わってお互いの家に集まって遊ぶなんてことはなかったが、穏やかな会話こそが僕と大悟の楽しみだった。
ただ一つだけ、他の同学年の友人と話す内容と違っていたのは、口に出すのも憚られるが、少しばかり哲学的な内容……他人にしてみても、自分にしてみても中二病と揶揄される内容の会話を僕ら二人は好んだ。
人はどこから来てどこに行くのか、人生の意味とか、高校に行って勉強してサラリーマンになって、何があるのかとか、悩みともとれないそんなありきたりで、腹を割って話せる親友相手でなければ恥ずかしくて顔から火を噴きそうな内容をよく話した。
だからこそ、僕らは昼休みに封鎖されているはずの屋上に忍び込んでそんな話をした。
大悟が死んでからある日の会話を何度も僕は思い出している。
「そんな所居ると、あぶねーぞ」
フェンスにへばりつくように空を見ている僕を、大悟が背後で菓子パンを食べながら諭した。
僕は、その言葉に口をへの字にして返した。
「危なくねえよ、フェンスもあるんだから、それよりダイゴもこっちこいよ、スゲー空青いぞ、アホみたいに青い」
んだよそれ、と大悟は重い腰を上げ、僕の隣に歩いてきて、フェンスに手をかけた。
「ホントだスゲー青い、世界空色、青色記録大更新じゃね?」
「なんだそりゃ」
そう言ってゲラゲラと二人で笑った。
ひとしきり笑った後、僕は神妙な顔になっていつもの詭弁を始めた。
「しかしだね、空はこんなに青く、できるなら身を任してやりたい程に美しいというのにそれすらできない、それは我々の自由の権利が阻害されていると言えるのではないかね?」
大悟はそんな僕の問いかけに、ニヤリと笑って返す。
「いや、それは当人の自由をただ死にたくないという理由で自ら縛っているに過ぎないのだろう?」
「いいやそうじゃない、なぜ死にたくないのか、それは残された者の事を考えればという考えの方が本位だ、他者によって個人の自由が侵害されていると言える、自由にこの青い空に身を任せるという当然の権利がだ!それはとても許され難い事だ!」
本当に死にたいわけじゃない、話の種としての哲学的な――僕らにとっての――話題の一つにしか過ぎなかった。
だが、大悟はそれを聞いて考え込んでしまった。
真面目な顔で彼が考え込んだ時僕は、なんだか居心地が悪くなって、大きな声で続けた。
「それとアレだ、僕らのもつ他の魅力的な未来の選択肢、自由を選択できるが故に他の自由が選択できず阻害されてしまう!それもまた難題だ……!なぜ僕らは一つしか命がないのだろうか……」
大仰に中二病らしく、くだらない事を、僕らはその後も話し続けた。
そう、これは大した話題じゃない。
警察の事情聴取をうけたその日、大悟の葬式の前日、その夜
僕は学校の裏門をよじ登り、コソコソと校舎へ忍び込んだ。
目的地はたった一つ、学校の屋上。
理由はあった、確かめなきゃならない事があった。
侵入こそうまく行ったが屋上へ上がるための踊り場で、立ち往生する羽目になった。
僕と大悟は屋上のダイヤルキーを勝手に解読して開けていたが、いつの間にか別の南京錠に変えられていた。
「まいったな」
ポリポリと頭をかきながら、ちらりと横を見る。
少し高い場所に窓があった。
僕は迷いなく、そこに手をかけた。
恐ろしい数分間だった。
春の風が吹き、体を地面に叩き落とそうと躍起になっていた。
僕は必死に壁伝いに、屋上に足を伸ばし、なんとかフェンスの外側にしがみつくことに成功したが、あまりにも激しい動悸で頭が真っ白になり、しばらく何も考える事ができなかった。
息を整えながら、僕はフェンスに絶対離れる事がないように背をつけ、外に脚を放り出すように座り込んだ。
もたれかかるように見上げた雲ひとつない空、明かりも全て消えた校舎の頭上にはそれがあった。
厳かに光る星々と小さな月。
ほんとうに大したことのない、よくある夜空。
「ああクソ…マジかよ、ダイゴの野郎…本気かよ…」
それでも、見上げた他愛の無い夜空は僕にとっては十分な答えだった。
あの日、あの問答の時大悟はきっと考えてしまったのだろう。
あと先考えずに、ただ、ただ、一瞬の空に身を任せる快感、それを選ぶ自由、そういう選択肢もあるということを。
そう、つまり。
「何の理由もないってのかよ」
ただ選べる無限の自由の中で、跳べてしまった、目的もない人生なら跳ぶことを選ぶことも悪くないと選んでしまった。
ただそれだけが大悟の死の答えだった。
僕はフェンスを掴み、立ち上がろうとした、初めて親友の行動に頭にきて怒りのままに行動しようとしてした。
だが、足が竦んだ。
高さじゃない、夜の風のせいじゃない、空が不満なわけじゃない、ただ、ただ。
「クソ野郎…何…自分だけ、気持ちよくなってんだ……!」
僕は知ってしまった、大切な人が死んだ時の最悪な気持ちを、特に勝手に死にやがった時のそれを。
知ってしまったそれを、他人に背負わせれる程僕は図太くない、大悟の死が僕の足を錨のように屋上に繋ぎ止めている。
「ふざけんな!」
小さな月に向かってただ僕は叫んだ。
夜の闇は、その声に波打つこともなく立ち往生する心を受け止める。
行き先は定まらずとも、ただ生きる事を選ばざる得ない。
それは二人が話していた自由とはかけ離れていても、そう思ってほしかった。
生きることこそ、生きる目的だと、ただ、ただ、理屈も無く僕は願うしかなかった。