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スプートニクの夜

作者: 平乃ひら



 偶然にも助かった。

 そう判断したコロリョフは痛む頭を振って自分が無理矢理乗り込んだ船内へと目を向けた。周波数が合い、うまくハッキング成功した時には僅かな希望を見出して決死の突入をしたものだが、もし船内にある外敵用プログラムが発動しようものなら最悪その場で蜂の巣にされかねないことをたった今思い付いたからだ。思わず両手を挙げて詮索するものの、大して広くない出入り口用の空気排出口には誰もいないし、外敵に対する防御機構らしき装置も見当たらない。

 では一体何に対して自分は乗り込んでこうして両手を挙げて警戒しているのか、ふとした疑問が浮かび上がる。

「つーかよぉ……」

 この船は地球を延々周回している様で、本当に偶然発見できただけだ。それ自体はもの凄く幸運だった。コロリョフが地球への帰還用に調達した船は宇宙塵(デブリ)検知用システムが不調を起こし、実際に相当確率の低いデブリ衝突事故に遭ってしまったからだ。本来なら検知システムが作動して事前にコース変更、防御システムの展開などが行われるのだが、やはりレンタル費用をどこまでも安くしたのが原因だったのだろう。あと地球周回状況を伝えるニュース番組を流していなかったこともまた注意散漫だったといえる。

 宇宙は怖い。そのこと自体は訓練時に幾らでも習っているが、思い知る時というのはほぼ間違いなく事故に遭った時と相場は決まっている――コロリョフはとにかく壊れた船体を直付けして乗り込んだこの船の中を探索するため、思い知った事故の反省を活かして今度は慎重に船内へと続くドアへと忍び寄っていく。

「古くさいな……数十年前といったところか」

 その間、人が操作した後は無く運良く地球の周回を回っているだけのようだった。船体自体はそこそこ大きく、今まで宇宙塵予報に引っ掛からなかったのが奇跡に近いだろう。そしてそんな宇宙船を偶然発見したことはさらに凄い奇跡かもしれないが、自前の船が壊れてしまったのだ、運が良い訳では無い。

「動くのか、これ。ソーラーパネルは生きてるから電気は通っている……コーティングもまだ効いてるってことだ。経年観測装置はまだ生きてるか? というか内部無線通じないのかよ。うわ、有線か。コネクトの規格合うかぁ?」

 全く無線が無いことなく、実際は電波を受信している。外部からのアクセスは成功したのだ。しかし内部回線用の無線規格既に使われていないもののため、手持ちの端末ではこの宇宙船にアクセスできなかった。その場合の予備として有線でのアクセス回線も出入り口付近に用意されている筈だが、ぱっと観たところそういうものはなさそうだった。

「電光は明るい。埃はあるが……まぁ宇宙じゃ積もることもないな。重力装置も正常だ。外側の見た目では判断できないぐらい中は正常だ。古くさくはあるがな」

 場所によって重力を変化させてバリアフリーの補助を効かせたり、人が歩く位置を逐一監視して電光を適切に利用したりなど、今では一般的となっている機能が無い。それだけで少なく見積もっても三十年以上前の船だろうことは予想できた。コロリョフ自身、この船がまともに運航できる等とは一切思っていない。通信機能が利用できて、それで救助が呼べたら幸いだという程度の考えだった。

「いざとなったら……あー、勿体ないけど俺の船を爆破して救助呼ぶしかないな」

 地球周辺で小爆発が起これば確実に探知される。それにレンタルした船でも障害発生時の緊急コールが飛ばされている筈だ。喩え通話しなくともそこまで時間が経たずに救助が来るだろう。

 だからといって壊れた宇宙船よりまだ壊れていない古い方を選んで移動したほうが安全性が保たれていいのではないか、という考えがコロリョフをこの船に来させた最大の理由だ。中は古いだけで十分機能を果たしている。空気の成分もきちんと循環機能が作用しているらしく、地球のそれとほとんど同一だ。ウイルスの類も発見されない。これなら宇宙服を脱いでも何ら問題は無いだろう。

「特に黴臭いことはないな」

 ヘルメットを外してスンと鼻を動かすが、宇宙船の中は見事なまでに無臭だった。リラックス作用の効果があると思しき香りについては既に成分を使い果たしてしまったのだろう。本来なら耐久年数をとうに超えた宇宙船など大気圏に突入させるか、宇宙で分解して別の資源にするかの二択だ。こうして生き残っているのだけでも奇跡に近い。

「食料は期待できないな」

 ほぼ永久保存可能なパックなら期待できるかもしれないが、それ以外は全滅で間違いないと判断する。人の手で管理されていない船はすぐにダメになるのは、いつの時代も同じだった。

「さて……おっと、コネクタは……変換使えば行けるなこれ。いやー、助かった」

 端末と船を繋いでアクセスし、船内へと繋がる扉を開く。暗号化自体は数秒で解けるぐらい古くさいもので、今の端末ならどれだけ低スペックでも解除に苦労はしないだろう。

 一応警戒しながら中へと侵入するが、廊下と思しきところでパッと電光がついただけだ。

「一般船かねぇ。さすがに警備システムはついてないか」

 素人に宇宙用の警備システムを扱わせるのは法律で禁止されている。完全に機械化されているなら話は別だが、手動のものはあまりにも危険だからだ。大気の中ならいざ知らず、僅かな穴が絶滅に繋がる宇宙空間ではそれなりに厳しい法が敷かれている。

 何にしろ船内の通信設備に急ぐ必要があった。これ以上古い船を詮索する趣味はないし、如何せんそれ以上の興味が湧かなかったからだ。

 廊下の突き当たりには電子ロックのなされたドアがある。

「白骨化した死体とか出てきたらイヤだなぁ」

 そうぼやいてから取っ手を掴んで横に動かす。先程のアクセスで内部のドアをロックしている鍵はいくつか外してあった。

 中からむわりと流れてきた風には、僅かながら水分が含まれている様だった。

「……風?」

 均一に保たれているだろう気圧において、扉が開いただけで風を感じるのには少々違和感がある。

「あなたは」

 そして何よりコロリョフを驚かせたのはその声だ。ほぼ真正面から投げ掛けられた声にコロリョフは背筋を凍らせながら数歩分後ろへと下がる。

 それから自分が何を聞いたのかを振り返り、首を振った。

「おいおい、今の声……人間か?」

 ここは無人船のはずだ。少なくとも中の人間は――脱出したか、全滅している。理由は不明だが、そうならざるをえなかった状況下にあったはずなのだ。

 それなのに開いたドアの向こうから声がした。

 三十年以上も放置していた船の中から、人間の声がしたのだ。

「……幽霊とかナンセンスだぜ」

 かといって放置しておくのも気味が悪い。もう一度ドアに寄って、そっと中を覗き込む。

 中は――信じられないことだが、一面が緑色に染まっていた。それも人工的に染色されたものではなく、天井から柔らかな光が降り注ぎ、それによって成長したらしい木々や草などによってだ。ちろりと流れる二本指程度に広がった幅の小川まであり、沿うようにして苔が生えていた。自然を見事に濃縮した場所は、かつて宇宙船という閉じられた中での憩いの場所として用いられたのだろう。

 その中心の根っこに座っている金色の長い髪をした少女がコロリョフに目を向けて首を傾げた。

「あなたは?」

 まず咄嗟に疑ったのはアンドロイドという線だった。やはり閉じられた宇宙船の中において、人間とまったく同じに振る舞う異性の姿をしたロボットというのは精神的に安寧をもたらす。特に人間と何もかもがほぼ同じならば、だ。その技術自体は三十年以上前にほぼ完成していたので、この船にもそういうアンドロイドが搭載されていてもおかしくはなかった。

「ねぇ、あなたは?」

「あー、あー、俺か? それよりお前こそなんだよ」

「わたし?」

「そうだ、お前だお前。応えられるだろ?」

 中身はコンピュータなのだから壊れてもいない限り対話は可能だろう。

「そういうあなたは?」

(会話にならねぇぞ)

 どうやらどこかに欠陥があるらしい。それならそれで仕方の無いことだ。

「人にものを訊ねる前にまず自分が名乗らなきゃいけねぇよ」

 それだけ言って、少なくともここは目的の場所では無い為に部屋を出ようと少女に背中を向け、出て行こうとする。

「ごめんなさい」

 コロリョフは思わず足を止めていた。

「人と話したの初めてで……ずっと船とお話してるだけだったから」

(何を言ってやがる)

 そんな話今まで聴いたことが無い。

「寂しくて……どう声を掛けていいか、分からなくて」

(そういうプログラミングがされてるってことか。手が込みすぎてるだろう、そりゃ)

 もし本当にそうならば、信じられないことだがこのアンドロイドの制作者は人間心理を的確に突いていたということかもしれない。少なくとも興味の無かったコロリョフは足を止めて振り返ってしまったからだ。

「私の名前はライカ、それだけ教えてもらった」

「ライカ……? 出来すぎた偶然だが、そうかい」

「貴方はどうしてこんなところへ?」

「あー、船が難破してな……偶々この辺にいた船にしがみついたところだ。お前さんは」

「外に出たことないからわからない。ずっとここで暮らしてきた」

「そうか、それは不便なことだ」

 別に深く意識して言った訳ではない言葉だ。むしろ適当に受け流そうとしてついと口から漏れた単語に、少女は過敏に反応する。

「何で私が不憫なのか、訊きたい」

「さてね、自分で考えな。とりあえず俺は他の所に用があるから……いや、そういえばちょっと訊ねたいんだが、この船の通信設備のある部屋はどこか知ってるか?」

「通信設備とは、なに?」

「おいおい、冗談きついな」

「外と連絡が取れるの?」

「取れるというか、この船はずっと何してたんだ? 見たところ客船じゃねぇだろ、目的は何だ?」

「分からない。ここが宇宙船で外が宇宙なのは教えてもらったけど、それ以上は知らない。教えてくれなかったから」

 ふぅ、と思わず溜息が漏れてしまう。目の前の少女は本当に何も知らない様子だった。ここにいた連中はこの愛玩道具に余計な知識(データ)を与えなかったのだろうが、それもまた当然のことだった。道具に無駄な知識は必要無い。

「んじゃあいいや、俺は他のところ行くから、じゃあな」

「待って」

 と言われたところで待つ理由はどこにもない。なのに足を止めてしまった理由が思い浮かばず、コロリョフは眉と眉の間に皺を作る。湿気の籠もった部屋の中にいるのですら不快なのに、どうしてただの道具の言葉で自分の行動が制限される必要があるのか――

「もっと教えて欲しい。世界を、知りたい」

「……自律成長型だとでもいうのか、普通お前みたいなのはンなこと言わねぇな。あるいは人間の心理を突いた問いというやつか。人は知識をひけらかしたくなる生き物っつーからな、そうやって船内にいる奴の会話を盛り上げる機能がついてるってわけか」

 コロリョフが両手を広げて呆れた様に言葉を続ける。

「上出来だ、よく出来てる。だが俺には通じないぞ、いいな」

「……よくわからない。それは何の意味があるの?」

 それもまた人間心理を突いた問いの一つなのだろう。

(わざと分からない振りをしてさらに相手を喋らせ、ストレスの発散をさせるとかそんな類のものだ。付き合ってられっか)

「だとしたら失敗だ。俺のストレスは無駄に溜まりまくってるからな」

 コロリョフはポケットの中を漁り、指先に何かが触れたのでそれを摘まんでライカと名乗る少女に投げた。ライカは手を広げてそれを受け止める。

「飴でもなめてな、お嬢ちゃん」

「これ、食べ物?」

「ああ、噛むもんじゃねぇぞ、舐めるもんだ。かといってロボットに舐められるかどうか知らないが」

「私、ロボットじゃないよ」

「そうかい」

 こんな古くさい宇宙船の中でずっと少女の姿をしていて人間を名乗るのは実に滑稽だ。踏みしめた土の感触に地球の懐かしさを覚えるが、こことは違う実際に味のある空気を味わう為にはさっさと帰還する術を見つけなければならないのだ。

「ねぇ、どうやったら信じてもらえる?」

「別に証明なんてしなくていいさ。お前が何だろうが俺には関係無い」

「私にはあるの。だってこんなに喋ったの、久しぶりなんだもの」

「そうだろうな、三十年ぐらいだろ」

「ちがうよ」

 とにかく会話を打ち切って部屋を出る。

 そして別の部屋に行こうとしたところで、後ろからひたひたという足音が聞こえてきた。まるで宇宙船に潜む幽霊よろしく気味の悪い足音に嘆息し、自ら律儀だなと反省を密かに心の中で促しつつ彼は口を開く。

「おいおい、宇宙で怪異とかはやめてくれよ。幽霊じゃなけりゃどこぞのエイリアンか」

 振り返ると、その少女がそこにいた。靴は履いてないので裸足で歩いてきているから、そんな音がしたのだろう。

「お前な、俺のあとをついてきてどうすんだ」

「お話したい。色々知りたい。私の世界はこの宇宙船の中だけだから」

「そうかい。俺にとっては名も知らぬ宇宙船と少女ってだけだ。いや、ロボットかな。どっちにしろこれ以上関わる気はないし、できりゃここからすぐにでも脱出したいぐらいだ」

「外に帰りたいの?」

 外に帰る、というのは妙な言い回しだなとコロリョフは吹き出しそうになる。

「ああそうだ。帰るんだ、地球へな」

「そこには何があるの?」

「何でもあるさ。こんな狭い空間じゃなく、見渡す限りの空や大地、様々な食べ物や動物、植物、果てはいろんな人間がいる。ここに居る限りデータはあっても想像が本物を超えることはないだろうな」

「私が見ているモノは偽物?」

「そうじゃない、それも本物だ。だが所詮はデータというだけに過ぎない。分かるか?」

「……分からない」

 しゅん、と少女が落ち込んでいる様にも見えて、その精巧さに思わず関心してしまう。

「生まれてから十三年しか経過してないから、いまいち分からない。これだけ喋るのも初めてだし……喉が痛い」

「おいおい」

(製造されてから十三年……ということは思ったより新しい。十三年前にはまだ人間がこの船に居たということか。そうなると正式な手続きを踏まずに放置した理由はなんだ? 三十年前ならまだしも、十三年前ならそこまで昔じゃない。ならそんなん通じないだろうに……)

 あと、奇妙なことを呟いていた。

 喉が痛い、というプログラムが追加されていることだ。通常、こういうアンドロイドの声帯は限りなく人間の喉を再現し、スピーカーではなく実際に音を作り出して人間の声とほぼ同質に仕上げられている。それ自体の技術はそこそこ昔に確立しており、この船に搭載されたアンドロイドに採用されていても不思議はない。しかし喉が痛い、という機能が追加されているのはおかしい。宇宙船はその名の通り見渡す限り広大な宇宙を旅する船であり、そこにおかれた人間の精神的負担となる孤独感や恐怖、船の圧迫感を和らげるのが彼女達ロボットの役目だ。それは話し相手になったり、身の回りの世話をしたりと多種に渡る。故に人間に対し逆に心配をかけさせる行為についてできるだけ排除されているのが普通で、ましてや話し相手ともなるだろうアンドロイドが「喉が痛い」なんて呟こうものなら、人間側が相手の役目を忘れ気楽に話しかけるのも躊躇してしまうこともあり得る。あくまで部品なのだから故障することはあるだろう。それでもアンドロイドを生産可能な設備が搭載されているのなら、自動修復プログラムぐらい働くシステムもまた搭載されていて然るべきではないか――コロリョフはますますこの奇妙な搭乗者への疑問が強くなる。

(……本当にアンドロイドか)

 あまりにも馬鹿げた疑問だった。こんなところで人間が生まれて一人で成長して会話可能なまでの知識を得て、さらには精神的にも特におかしな症状は見受けられない、となるとやはり人間ではないと考えるべきだった。

(解剖すれば一発で分かるが、さすがにな)

 いくら人間ではないとしても少女の姿をした彼女を解体するのはコロリョフとしても気が引ける。それにどうしても「まさか」という気持ちが拭えない以上、彼女をどうこうするという行動に移るのは実質不可能だった。

「この宇宙船にゃお前以外に誰もいないのか」

「いない。宇宙船の管理は全て宇宙船自身が行ってる」

「太陽発電装置なんだよな」

「うん、経年観測装置も見れるよ。各メーターの管理は権限さえあればどこでも閲覧可能」

「権限か、お前はあるのか?」

「ある。私しか持ってない」

「ま、お前しかいないんだから当たり前か」

 人間であろうがなかろうが、中を自由に動ける個体に権限を預ける判断を下したのは船自体だろう。恐らくそういうプログラムが組まれていたのだ。

(そうなると何かしらの理由で人間が居なくなっても自動航行、運用可能なシステムが最初から組まれていた……)

「ちょっと船の経歴を見させてくれないか。なに、ROMだけだから書き込むつもりはない」

「問題ない。私の権限でリーディングのみ可能とするから」

「そうかい、助かるよ」

 眼前の空間へ立体的にモニターが表示される、周囲への閲覧を不可にする指向性を与えた光の表示に文字が羅列される。多少目への負担を感じるのは現在のものと違い、当時の技術の限界から来ているのだろう。

(今から三十三年前に地球を出発したのか。船の名前は……アンノウン? 名前が無いということか。そんな馬鹿なことありえないだろう。データ消失か。意図的にそうした? なぜ?)

 前を歩く少女――ライカにモニタールームへと案内される。基本的な情報は全ての箇所から閲覧可能となっている構造だが、船のシステムそのものを操作するとなると物理的なセキュリティに守られた場所に入る以外に基本的な方法は存在しない。単なるルームへの扉を開ける程度ならハッキング可能だし実際に実行もしてみせたが、それでも幾ら古いとはいえ一端の宇宙船である限りセキュリティもそこそこにあるだろうとコロリョフは判断する。

(下手に外部から操作して壊れたら元も子もないからな。できうる限り安全策でいきたい)

 部屋の中は現在のシステムルームからするとやはり古臭い造りだ。旧世紀のシステムが引き継がれたままの入力装置を見て、コロリョフは操作に躊躇った。かつて習ったことのある記憶を引っ張り出すのに苦労する。

「参ったな、キーボードときたもんだ」

 QWERTY配列の入力装置を最後に見たのは一体いつからだろうか。今でも現役の宇宙船には最終的な入力装置として組み込まれているが、現在音声システムよる最低限の命令によって間を補完するソフトウェアが発達し、指での入力という作業はほとんど使われなくなっている。しかも光学接触デバイスではなくプラスチックによる装置ともなると、そのレトロ感は大昔の映画を閲覧しているような気分にさえなり、コロリョフは思わず声が漏れてしまった。

「この時代のコマンドは何だ……あー、なーんか見たことあるぞ、これ」

「何をするの?」

「ああ、救難信号を出す。信号自体のSOSは昔から変化しちゃいないからな」

「救助……? 誰が救助されるの?」

「誰って、俺だよ。他に救出される奴ぁいないだろうが」

「救助されないといけないの?」

「こんなところで生きてらんないだろう。俺はお前とは違うんだ」

「そう? 生体チェックでは同類に思えるんだけど」

「あ、お前俺のことチェックしたのか。そういうのは同意が必要なんだが、ここにはその程度のプライバシー保護という概念は存在しないのか」

「そういうものなんだ、知らなかった」

「まったく……それと船の経歴ぐらいここにあるだろ。さっきも言ったが、それももう少し見させてもらうからな。そっちはお前の言う通りリーディングオンリーで構わない。だが救難信号だけは俺がやりたい」

「分かった」

 ライカが前に出てキーボードを操作する。モニターに表示された文字を読む前に上へと流れていき、最終的にパスワードを入力する項目が表示される。

 ライカはそこへ凡そ六十文字程度入力し、その後にユーザー名と書かれた入力蘭が出てきたところでコロリョフに向けて近寄れという意味合いの手を振った。

「どうすればいい?」

「ユーザー名を入力して。その後に専用のパスワードを配布する」

「それで俺が使えるようになるのか」

「限定的な部分しか使えないけど」

「ああ、それでいい。別に船をどうこうしようなんて思ってない」

 救助がここへ来ることになればその間だけここに滞在することになるだろうが、それも恐らく数時間の話だ。一泊たりともここで過ごす気など彼には微塵も無かった。

 アンノウンとされる船がかつてどういう名称だったのか、その履歴が残っていれば助かると踏んでいたのだが、なかなかそれも見つかりそうにない。

「この船はなんていう名前なんだ」

「スプートニク」

「それ、本当か?」

「うん、そう聞いてる」

 だとしたら更に笑える事態だと、コロリョフは声を漏らしていた。

「どうしたの?」

「何でもないさ」

 宇宙船のほとんどは経年劣化を測定する装置がある。基本的に劣化を防ぐ為に船の外装には特殊なコーティングをしてあるが、それとは別にこの船のようにはぐれて文字通りUnKnownとなった船が何年頃に宇宙へ出てきたのかを測定するための装置だ。そこは特殊な素材を使われ、わざとコーティングをしていない。それによって太陽光を浴びてある程度の年数経過を調査する。そういうのは全てモニタールームから閲覧可能だ。

 先程閲覧した資料にあった通り、この船は大凡三十三年前に宇宙へと旅立っている。その後不慮の事故によって今の位置から動かなくなったようだが、その原因についての記載は存在していなかった。

「ねぇ、外の世界って一体どうなってるの?」

「そこのモニターから見られるだろう」

「うん、さっきまでそれでいいと思ってた」

「今は違うってか?」

「実際に人と喋って、考えが変わった。楽しいから」

「ま、モニター越しの世界と自分の目で体感するのってなぁ、どんだけ技術が進化しても超えられない壁だな。地球にゃ視覚と嗅覚、肌の感触まで使って現地の空気を再現するアトラクションみたいなのもあるらしいが」

「面白そう。ここにはそんなのないから」

「ま、地球に来たら自分で行ってみるのが一番いいさ。別に苦労を買ってでもしろなんて言うつもりはないが、俺ぁハイキングとか嫌いじゃないんでね」

 無駄話をしつつも一切手を止めずに他のファイルを開いていく。資料項目を一覧として並べているが、ファイル数だけでも膨大な数に及ぶ。ファイル名、文書検索で絞るだけ絞り、さらに自分の目で必要だろう数だけに絞りこんでいく。数万以上にも及ぶファイルが二桁にまで絞れた頃には小一時間程度経過しており、コロリョフは思わず喉を擦って自分がしばらく水分を摂っていないことを思い出す。

「ちょっと自分の船に戻る」

「どうしたの?」

「喉が渇いたから水持ってくるのさ。さすがに飲み物すらないのはキツイからな」

「それならここにもある」

「何年前の水だよ。腐ってるんじゃないのか?」

「それだったら私飲めないもの」

「お前に水分補給が必要か?」

「必要だよ」

「……よく出来てるな、お前は……」

「それに水は常に循環させて新鮮さを保ってる。一定値の基準はクリアしているよ」

「……そうかい、じゃあちょっと用意してくれよ」

 その場での水質チェックは可能だ。飲めるならわざわざ戻る必要も無いし、駄目なら改めて船に向かえばいい。この船のデータからも循環機能は正常に動作していることは確認していたが、それでもさすがに三十年余前ともなると些か不安要素が残る。

「食器は洗ってあるけど、お湯を沸かしてくるから少し待ってて。五分で戻ってくる」

「了解」

 水なんて一瞬で沸騰させる設備も今ならではだ。

「もしだ、もしお前がお茶の味が分かるなら」

「ん、なに?」

「――いや、忘れてくれ」

(俺は何を言いかけた?)

 振り返って足を止めているライカに手を振ると、彼女は一度だけ首を傾げてから部屋を出て行く。

 再びモニターへと目を向けて淡々と作業を開始する。救難信号を出す方法なんて本来部屋を見たら一発で分かりそうなものなのだが、この船にはそういった類の装置がどこにも存在しなかった。だとしたら何かしらの起動プログラムが存在するはずなのだが、そのキーとなるショートカットすら発見できやしない。

 参ったな、とついつい口からこぼれ落ちていた。

 かといってここが中心部であるならば、全ての命令系統はここから発することが可能な筈だ。それすらも存在しないとなればまた別の話だが、しかしあまり考えられることでもない。

「わざと削除した? 搭乗員にそれを可能とさせていたのか? けどまさか全くそういうのがないってこともないだろうし、物理的な信号発信装置があるのか。そうなると船の中を見て回る以外になさそうだな」

 そこそこ広いこの中を全て見回すのもまた骨が折れる作業だ。嘆息し、とりあえず一休みすることにする。どうせ船が難破した時点で約束の時間は超えてしまったし、そちらを考慮するにしてもまずは自分の身が第一だとした場合、どうしても優先順位は低い。そういう理由から時間なら大量にある。後は自分の気力と体力だけの問題だ。

 今の時代でも不慮の事故、今回のは比較的大規模なほうとはいえ簡単な故障の時などに宇宙服を着込んで船外へ出て作業をすることはある。機械による自動修復機能を積んでいる船はやはり高額で、コロリョフとしてはできるだけ出費を抑えたいところだったが、こんな事になるなら金を払っておくべきだったと段々後悔という念が湧き上がってくる。

「ただいま」

 たらいの上にコップを二つ置いたライカが戻ってくる。ふわりと鼻を刺激する香ばしい匂いはコーヒーのそれだ。

「そんなものまであったのか」

「これが大人の飲み物だっていうから。船の中で豆を栽培してるし」

「……栽培施設まであるとは驚きだな」

 今でも稼働しているのなら、確かに水の循環機能は正常に働いている証明となるだろう。水が腐っていては植物は育たない。特に船の中での栽培施設は土ではなく水のみで育てるのだから、水質についてはますます重要な項目となる。

「いつもインスタントだから新鮮だな。あれはあれで嫌いじゃないんだが」

「インスタント? あの手軽に飲めるやつ?」

「ああそうそう、あれだけは俺の小さな頃……いや、たぶん生まれる前からずっと変わりゃしない」

「飲んでみたい」

「これもそうだが、自分で淹れたコーヒーのほうが旨い」

「そうなんだ……」

「残念そうだな」

「憧れだったから」

「お前が地球に来ればいいだけの話だよ」

「私が?」

 不思議そうに首を傾げて、そして彼女は自分を指差した。

「私って、ここから出られるの?」

 あれだけの思考能力を有しておきながら、どうやらそれについての発想が無いことについて妙におかしな気分になる。

「何故それが駄目だと思った?」

「なんでだろう……あ、そうだ、外に出る方法が無かったから」

 この船が動かないとなれば、なるほど確かにそうだろうと納得する。

「なら、外に出るか?」

 ふとそんな提案が口から零れ出て、直後にコロリョフは顔を顰める。こと発言というのは場合によって重要な責任を負わされるものだが、そんな提案をしたところで彼女の面倒など自分は見られない。だからこそ「しまった」と後悔したのだが、既に手遅れだろう。

「うーん……」

 ライカは少しばかり考え込んでから、

「分からない。どうしたいんだろう」

 とだけ呟いた。

「まぁ当然か。そもそも外に出ようとすら思ってなかった奴に突然そんなことを言ったところで決められないな。お前は案外、ここにいるのが幸せなのかもしれないな」

 それもこの船の寿命までの話で、彼女の寿命が尽きる前ではないだろう。いくら現状維持ができているとはいえ、恐らくそう長くない間に船自体の限界がやってくる。そうなれば生命維持装置のみならず電気回路そのものが故障し、完全に停止することは必須だ。必然的に『彼女』の寿命もそこまでということになる。

(だから俺は誘ってしまったのか?)

 彼女の寿命のことなど考えるまでもなく分かっていたことだ。だとしたらただの同情心から出た言葉だったのだろう。

「はぁ……意味が無いな」

 彼女がその気にならないのなら――自らの停止そのものを重要視していないというのなら、これ以上誘う気もない。

「しかしうまいな」

 コーヒー特有の苦さだけではなく、実に飲みやすい。

「お前、いつもこんなのを飲んでるのか」

「コーヒーはあまり飲まない」

「そうなのか」

 コーヒーを飲み終えてから一度だけ深く息を吐き、立ち上がる。とにかく船内を巡回しそれらしい装置を発見しなければならないのだ。とはいえ緊急用の信号発信装置が複雑な場所にあるとも思えない。あるとするならこの部屋こそ最も可能性が高く一番無視してはならない場所なのだが、いくら見回してみてもそれらしきものはどこにもない。

「なぁ、SOS信号は出せるのか?」

「わからない。やったことないから」

「何だったら試してくれないか。とにかく発信してくれればどこかが拾うだろうから」

「うん」

 キーボードに触れて何かを打ち込んでいく。すると近くでカコンという音がしたかと思えば、壁の一部に切れ込みが入ってゆっくりと開いていく。

「一応そこのボタンが緊急信号発信用になってる」

「……そういう仕組みか」

 端末操作から直接発信が可能だと思っていたからこそ項目が見つからなかった、という話だった。

「んじゃあ押すからな」

「一つだけ忠告、私それ試したことないから、何が起こるかわからない」

「何って、別に助けが来るだけだろう。SOS信号にそれ以上の意味はないだろうが」

「私、この船から聞かされたことがあるの。それを押すなって」

「押すな……?」

 緊急用なのだから普段から押すものではないし、そういう意味でなら別段不思議なことはない。彼女は割と好奇心旺盛な様子なので、敢えてそういう警告が走ったのかもしれないとコロリョフは考えた。

「ねぇ、地球とか、他の星で観たことを教えてくれない?」

「知りたいのか」

「知ってるけど、知らない。私は何も観ていないから。映像は観るけど、話してもらったことはない。話すことも普段しない。AIは応答してくれるけどパターン知ってるから」

「んじゃあ俺みたいな生身の人間との会話で何か掴んだことがあるのか?」

「予想していないパターンばかり。船とは趣が違う」

「そりゃどうも」

 船と一緒にされるのも困りものだが、彼女がずっとここで過ごしてきたとなればそういう物の考え方になるのかもしれない。

(それはそれで勿体ねぇな)

 経験というのは生きてきた時間と、何より自身が感じてきた体感が物を言う。彼女は世界と呼ぶには余りにも狭い船の中でずっと過ごしてきた。

(だからか。だから彼女は外を知りたがっている)

 今まで自らが感じたことのない外の空気を、コロリョフという男を通じて嗅ぎ取っているのだろう。それは彼女の中に隠されていた本能にも似た興味を呼び起こすには十分過ぎるスパイスだ。刺激された鼻はより強烈な匂いを求めてひくひくと動き、食い付いてくることだろう。

「外か。さっき話したが、別に良いことばかりじゃないな」

「そうなの?」

「ああ、人間が大量にいりゃぁそれだけ色んな事が起こる。犯罪なんてしょっちゅうだ。幾ら時代を経て社会がより成長していったとしても、結局人間の本能ってのは変わらない。一時はその感情ごと制御をしてしまおうという試みも試されたが、結局は大規模な戦争や襲撃があって潰された。生活のレベルは、そりゃぁ良くなってるさ。死ぬことなんざほとんどない。宇宙への進出により人口問題はほぼ解決されたも同然だからな。重力制御が可能なシステム構築に成功したのは歴史的な革命だったよ、おかげで月に移住スペースを作っても地球とほぼ同じ環境を構築できた」

「観たことある。資料に載ってた」

「そうだな、それがほぼ確立され運用され始めたのが三十年ぐらい前だ。ま、それはさておき、そんなに時代が発達しても、人間の生きている地球のスペースはここ数世紀変わっていない。自然が残ってるところは残ってるし、かねてより都市だった部分は同じだ。結局整備された環境を捨てるわけにゃいかんし最先端の技術が揃ってりゃ便利だからな。あと人が集まっているところは自然と災害が少ない上に、そう、さっき言った整備された区画なのでより被害が無い。人間が住む処としちゃ実に良く最適化されてんだよ」

「だけど月に移動したんだよね。なんで? 月は整備されてない。ただの塊だけど」

「塊か、まぁそうだな。重要な資源もそこまで多いわけじゃない。いや、あることはあるがわざわざほぼ真空に施設を作ってどうこうって程じゃないかもしれないが、そこは意味があった」

「人口問題? 人が増えすぎたから、宇宙に行ったの?」

「ああ、これも問題が山積みだったがな。今でも宇宙に住みたいと願う人間は少数派だよ。それに月以上に離れるのはやはり心境として辛いらしい」

「なんで? 宇宙に住むならどこでも同じだと思う」

「そりゃそうだ。だがな、やっぱり地球から離れるのは……な」

「よく分からない」

 彼女の呟きは耳に届いていた。苦笑してからコロリョフは口を開く。

「お前は地球生まれじゃないんだったな」

「私はずっとこの宇宙船の中で育ってきたから」

「親もいないんだったな」

「親? あ、うん、子供を育てる男女のペアのこと? ならいない。人間は私と貴方だけ。他には誰もいない」

「なんとも殺風景だな、ここは」

「殺風景……なのかな。それもいまいち分からない」

「お前は本当に分からないことだらけだ」

「でも疑問もある。人はどうしてそこまで増えたの? 寂しいと思うなら、どうして宇宙に出てまで生きていこうとするの?」

「……なるほど、それは考えたことなかったな」

 鋭い、というよりも恐らく現代を生きる人間にとってその問いに対する嗅覚が麻痺しているのだろう。

(何故そこまでして生きる……そりゃ人間だから行きたいという欲だ。でも、確かになんで増えたのか……というのは難しいな。子供が欲しいから、か?)

 それもまた本能の一つと言えばそうなのだろう。これだけ科学が発達し、宇宙への進出のみならず旅行ですら珍しくなくなった昨今、人間はいまだ本能一つ抗えないでいる。かつてそういう欲望を全て一元管理し、よりよく人間としての理性を高めて社会的な秩序を保つプロジェクトが発足されかかったが、考えてみるとその結論はごくごく自然な流れだったのだろう。人間の繁栄や宇宙進出において邪魔になるとさえ言える根源的な恐怖や寂しさというのは、今の時代になって新たに発見できた感情だ。自分達の大元となる命の根源が地球に発生してから四十五億年、生物が未知なる世界へと本格的に旅立つのは今の時代が初めてのことだと考えれば、まだまだこれから新たな障害を発見をしていくだろうし、その度に克服していかねばならないだろう。

 どれだけの生命体を調べても宇宙に適用し生存してきた種はない。あるいは他の星の生命体にはそういう可能性も隠されているかもしれないが、今のところ【宇宙生命体】と呼べる何かが発見されたというニュースを目にしたこともなければ、今となっては誰も期待していないことだ。もしかしたらこの宇宙で奇跡的に科学を発達させ進出しているのはこの地球生命体を置いて他にいない可能性すらあるのだから。

「それでも、だ」

 ――それでも、かつて大陸を発見した時のように。

「たぶん、俺達人間のほんのちょっとだけだがな、新しい世界を観てみたいって思っちまったんだろうよ。ただただ海だけが広がる『殺風景』な場所を何日も何ヶ月もかけて航海し、新たな世界を発見した時のことを……覚えちまってるからな」

「自分で観たいから……」

「今はそういう時代なんだ。誰よりも知らない地を自分の目で見てみたい連中が増えている。命を失うかもしれない。宇宙はどこまでも危険が広がっている。だからこそ、だ。既に地球には存在しない前人未踏を達成できるのなんざ、このどこまでも広がって切りが無い宇宙だけなんだよ」

「なら、私も見たい。この世界から外の世界を見たい。そう願うのは勝手なことじゃないよね」

「誰が勝手だって決めたんだ?」

「外は危険だらけで、一人では生きていけないから。そう教わってる。だから私はそのボタンも押さないし、外へと出ない。――ただそう教わった」

「じゃあなんで見たいんだ?」

 今度はこちらからの質問ばかりだ。彼女とのやりとりは全て片方が問い、片方が答えるのみだ。会話というよりはまるで――

 ――彼女はずっとそうやってここで教育を受けてきたのだろう。ならば外へと興味を持つことこそあれ出ようなどと思わないのではないか。

「気付いたのは、さっき。今の私は独りじゃない」

「……そうきたか」

 つまり、自分についてきたい、と彼女は言外に、しかしはっきりとそう告げてきた。

「ライカ」

 はっきりと少女の名前を呼ぶと、彼女は驚いたようにして顔を上げた。

「じゃあ、来るか? 俺はあまり金なんて持ってねぇが、お前を連れ出して歩くぐらいならなんとかなるさ」

「――いいの?」

「お前が言い出したことだろう。俺も人としてこんなところに居るのを見捨てて燻っていつか寿命を迎えさせるってのはよ、どうにも納得できやしねぇからよ」

「うん」

 小さく笑って彼女は頷いた。

 これでもうこの船には用が無いだろう、とコロリョフは判断して空になったカップを空いているところへと置く。

「よし、じゃあSOSを発信するぞ。いいな」

「あっ……でも少し待って。それを押すと何が起こるかわからない。船は教えてくれなかった。だから」

「だけど、世界を見るってんならそうするしかないだろ。SOS信号以外何が起こるって訳じゃ無いだろう?」

「……恐らく」

 一体何を躊躇しているのか、それについて質問を投げたところで彼女が答えを知っているとも考え辛く、コロリョフは少しだけ唸る。

「やってみるしかないか」

 タッチ式でもなく、機械式のボタンだ。頑強さという意味ではこういったアナログ的なほうが良い場合もあるが、最近の電子式というのも整備のしやすさや自動的な復旧機能を考えるとアナログよりも良い場面が多数あるので、その船の特徴に合わせるべきだなのだろう。

 スイッチを押す。少しだけ力が必要なのは内部で錆びているからかもしれない。如何せん古い船だ、動いてくれるだけでも僥倖と思ったほうがいいだろう。

 目の前のモニターに表示されたのは信号発信完了の文字だった。これで緊急避難信号が届いているだろう。

「私は」

 ぽつりと、少女が喋り出す。

「この船の中しか知らない」

「そうか」

「なんで私を外に連れ出そうとしてるの?」

「別に、お前が外を見たいからだと思ったからだ。お前が外に何ら関心持ってないってんなら俺だって何もしやしねぇよ」

「私はただここで暮らしていくだけだと思ってる。今も、きっと、変わらない」

「そりゃ外を知らないからだ」

「だってこの船はスプートニク」

 それは、かつて宇宙へ発射された船の名前だ。

 一体どれ程昔のことだろうか。歴史の教科書に載っているぐらい、古い話に出てくる船名。

「そして、私はスプートニクに乗ったライカ」

「ああ」

「だからこの船から出られないと思ってる」

「そりゃお前の意思一つだ。そう信じ込んでるなら出られない、出たいと望むなら出られる。明確に違うだろう」

「そうかもしれない。けど、そうじゃないかもしれない」

「何を言っている?」

「私は船が無いと生きていけない。船の中でずっと暮らしていたから、外に出たら生きていく術が無い」

(……俺と話をしていた時は、まだ現実が見えてなかったということか)

 好奇心、高揚感だけが先行し、現実がまるで見えていなかった。しかし少しだけ時が経過すると今度は明るかった部分とは別に――いや、輝かしい未来だからこそ強く影が刺しているのに気付いてしまう。彼女が気付いた影の部分は『自分はずっと船の保護下にあった為、ここを離れて生きていくだけの技術や知恵が無い』ということだ。当然、外の世界はここと違ってどうしても個人の能力が試される。金を稼がないとならない。食料を手に入れないとならない。この船は太陽光発電で個人を生かす設備こそあれ、あくまでこの少女単体程度を生きながらえさせる程度だろう。そして船のどこかが故障すれば生命維持機能も失われる可能性が高い。言うなれば綱渡りの状態でこの少女は生きてきた。

(……気付けば)

 気付けばそれがどれだけ危険であり、そして自らに後が無いのかを自覚するだろう。少女はそこを考えなかったのではなく、元々そういう発想が無かっただけだ。しかしこうして外部よりの情報がどんどんと流れ込み、自分の思考とは別のベクトルを持つ考え方に触れることによって新しい思考を凄まじい勢いで吸収している。

 元々頭の良い少女なのだろう。だからこそ後から気付く事が多く、そして気付けばその分の恐怖も湧いてくる。自分はここに居て良いのか、外に出て良いのか、生きていく術はどうすれば良いのか――もしかしたら未来は無いのでは。

(そう、気付けば、だ。――俺も何時の間にか気付いちまったことがあるしな)

「だから私は……きっとここから出られない」

「……そうかい、無理強いはしないが、お前はそれでいいんだな?」

「もし次にあなたがここへ来た時、きっと答えは出てる」

「残念だが――二度は来ない。こんな検索にも引っ掛かりそうにない船へ訪れる機会など、もうないだろうよ」

「――そうなんだ」

「それでもいいのかい?」

「……うん、私はここに」

「……ああ、わかった。なら、ちょっとだけこの船の中を案内してくれないか。どうせ救助が来るまで時間が掛かる」

 鑑賞するにしても船の中はどうせ殺風景だろう。それでも二度と来ないと思えばこそ、中を観たくなるというものだった。そして船の中は彼女の世界そのものだ。いつか思い出す時の為に、せめて記憶に留めておく箇所を増やしたい。

「うん」

 そして彼女がずっと過ごしてきたこの空間を見ておきたい、という気もしていたのだ。

「まずはこっち」

 案内されたのは、おそらくかつて食堂に利用されていただろう広場だった。丸テーブル席は五つあり、それぞれ椅子が三つほど。

「ここで食事を摂ったこともある」

「普段はどこで食べているんだ?」

「さっき私がいた場所。あそこから動くこと、あんまりないから」

 あの人工的に作り出した自然のある部屋のことだろう。湿気といい空気の匂いといい、森の中を再現しているのは見事だった。環境的にも整っているので病原菌や、ましてや虫なども居ないだろう。不自然だが、人間にとってはクリーンな環境だ。

 彼女がそこを好んでいるのは人間としての本能だろうか。

(……俺は何故、彼女を)

 先程気付いた一つの『疑問』が再び浮かんでくる。

(いや、もうどうでもいいか)

「次はこっち」

 今度は風呂場に案内される。共同利用される場所なので、シャワー室のみとなっている。

「お風呂は三日に一度、入ってる」

「できるなら毎日入ったほうがいいな」

「……そうなんだ」

 どの程度の頻度で入るか、そこまで船は教えてくれなかったらしい。

「じゃあ、次はこっち」

 そういって最後に案内されたのは彼女と出会った場所だった。たった三箇所のみの案内は、つまりこの少女自身がその三箇所以外にあまり足を運ばないということなのだろう。

(その三箇所こそが彼女の感じていた世界の全てというわけだ)

 映像で近くて遠い地球の姿は何度も観てきただろう。ただ目で見て、耳で音を聞いてきただろう。何度も、何度もだ。

 そして触れることの叶わない世界だと何度思い知ったことだろう。

「今日は沢山喋ったから喉が痛い」

 そもそも人と喋る機会などなく、この船に搭載されたAIのみが彼女の会話役となっていたのだから当たり前だろう。船自身が彼女を育てたのなら、船が彼女に無茶をさせるはずもない。適切な『飼育環境』と化していた筈なのだ。

「私はここで生まれて育ったって聞いた。お父さんとお母さんもこの船にいたみたい」

「お前を作った……いや、産んだ、のか。お前は本当に人間なのか」

「人間だと思ってたけど、分からない。もしかしたら違うのかもしれない」

「信じられなくなったか?」

 ライカは部屋のどこか一点をじっと眺めてから、ゆっくりと口を開いた。

「人間が何なのか、分からないから」

 哲学的な問いか、または彼女が人と始めて喋ったことによる思考の混乱からか――

「ここが最後。私はずっとここにいる。あなたの言う本物の水の流れとか空気の匂いとか無いけど、ここしかないから」

 そして最後の最後に、彼女は未知という畏れに負けた。それもまた自衛という本能なのだろうか、とコロリョフは一人でそう思う。

「そうか。まぁ、水が流れてるの見ると落ち着くよな」

「うん、そうかもしれな」

 その言葉が途中で遮られる。

 突然耳を劈くような凄まじい音の警報が鳴り響いた。

「何……何が起きたの?」

「船に異常事態か? いやしかし、それでも!」

 この警報の鳴り方は異常だ。何よりこの船に詳しいライカが分かっていない様子なのがコロリョフに一層の危機感を煽る。このタイミングで船が故障したのかもしれない。

「空気漏れとかだったら最悪だぞ!」

 稼働している限り当然いつかは壊れるだろう船だ。それが今ということだって可能性としては存在する。

 しかし、船から告げられた警告は決して故障のそれではなかった。――内容は警告・害意ある船団の接近を確認――

「……おいおい、どういうことだ?」

 敵なんていう単語が今更聞くことになるとは思わなかった。宇宙開発時代に突入した今世紀、世界中の紛争は小さな小競り合いを抜かしてほぼ無くなっているというのにわざわざ『敵』と表現する意図が分からない。

(……どういうことだ? この船がUnKnownなのが関係しているってことか?)

 存在不明、船名不明、出自不明――そしてライカという名前の少女と、彼女が語った船の名前、スプートニク。

 おそらく船の名前は何かの冗談めかしたものだ。そこ自体が問題になることはないが、何故そうしたのかという問題と、船の記録があまりにも失われていることについてはもっと考慮すべきだったという後悔の念が襲ってくる。

 ジジッ、とノイズが耳に届いてくる。

『誰かいるのか? 応答しろ』

 ――助けだろうか、と考える。船は敵だと判断したが、そんなものは何かの間違いではないか。

(応えるべきか否か)

 即答はさすがに控える。ライカにも返事をするなと口元に人差し指を当ててジェスチャーで伝える。

(どうしたものか)

『応答しろ、誰かいるのか?』

 それにここへ来るのが想像以上に早い。あと二、三時間は掛かると踏んでいたのに、この速度は別の意味での緊急発進が掛かったと踏んでいいだろう。

 今の時代、声紋さえあれば人類全体から特定の個人への検索が可能だ。変声機があれば良いのだが、当然ながらそんなものは持ち込んでいない。もしかしたら助けかもしれないが、そうではなかった場合の危険性を度外視するのは躊躇われる。

「私なら大丈夫」

 ――そして少女がそう囁く。確かに記録上存在していない彼女が検索される恐れはない。

「貴方達はだれ?」

『……機械による自動応答か?』

 即座に検索したのだろう、しかし該当が無ければそう判断するのも致し方なかった。

「違う。貴方達は誰?」

『――そちらの船はクドリャフカエックス号で合っているか?』

 それは船の記録にも残っていなかった名前だ。

「こちらはスプートニク。そんな名前ではない」

『おい、やはり合っているぞ。排除すべきか?』

『待て、いきなりはやめろ。それに一般の船が接触している。恐らく難破船だ』

『なら救助の後に排除か』

『生きているのか? 中の人間は』

 色々と憶測が飛んでくるが、コロリョフは決して聞き逃してはならない単語を耳に入れていた。

(排除? この船をか?)

『まったく……未だ人類の精神統一プロジェクト時代の生き残りがあるなんてな』

(……そういうことかよ!)

 かつて人類の完璧な管理システム構築計画とそれに対する反乱組織との争いは、最終的に反乱組織が勝利し、人類の自由を勝ち取るに至った。あくまで表面上では細やかな政治的駆け引きに終わったかのように見えたが、裏では相当凄まじい戦争が起こったという噂もある。この船はその時代に建造され打ち上げられたものだ。戦争時代――つまり人類をシステムによって操作するような連中の船となれば、一体どういうシステムが搭載されているか知れたものではない。

(じゃあライカは……その実験のなれの果てか)

 機械による育成と教育の限界を見極める為の個体。恐らく計画した人間はとうにこの世に存在していないだろうが、船に組み込まれたプログラムだけは忠実にそれを実行していた。少しの興味とハッキリとした受け答え、そして一定の場所より動かないように刷り込まれた教育――

『スキャニングは?』

『二名いる。一人は大人だな……もう一人は子供に見える』

『聞こえるか。応答が不可能ならそのままいてくれ。君達は我々が保護する。安心してくれると助かる』

 何かの冗談だろう、という気すらする。

「彼らは……船を壊そうとしてる。そんなのダメ」

 ライカは一方的に通信を切った。これでこちらの声は相手に届かないだろう。

「船は、残したい」

「と言われてもな」

「その為なら何でもする」

「……船を残す、か」

 ここは彼女が生まれ育った場所だ。壊されたくないと願うのは当然だろう。

「なぁ、最後の問いだ。いいか?」

「……うん」

「ここに残るか、俺と一緒に来るかだ。そしてここへ残った時、お前は二度とその窓から地球を眺められなくなる」

「……どういうこと?」

「よく聞け。この船を強制的に遠くへと移動させる。エンジンが生きているのなら動く筈だ。俺は自分の船に戻って救助を待つだけでいいが、ここへ残れば二度と人間と触れ合えなくなる。僅かに残ったチャンスは全部無くなる」

「戻ってこれないってこと?」

「戻ってこれるような選択をすれば、この船は確実に壊されるだろう」

 彼女がここへ残る意思は船がもたらした教育の賜だ。そう、コロリョフは勘違いしていたのだ。故郷に愛着があるからこそここへ残りたい、未知なる世界が怖いから外に出たくない、そう考えているのだろうと思っていた。

(違う……そうじゃない)

 誰だって旅立つ時が来る。彼女はまだ年齢的に早いのかもしれないが、唐突にその時が来ても何らおかしくない。

「いいか、お前は選択をしなきゃなんねぇ。ここに残るか、外へと出るか。外へ出たいなら俺が連れていってやる。ここへ残るなら――永遠にさよならだ」

「……」

 どうしたらいいか分からないのだろう、あのライカが即答を控えてしまった。躊躇うような仕草を見せて、目を合わせようとしない。

「……あなたは、私に来て欲しい?」

「決めるのはお前だ。俺はお前の選択に関わりたくない」

 それは責任を持ちたくないという意味だった。

「……うん、せめて……せめてあなたの船の前まで一緒に。それまでに決めるから」

「分かった。急げよ。あいつらが来るまでもう時間が無いんだ」

 彼女が持っていく荷物はほとんどないだろうが、それでも「とってくるものがある」と彼女は急いで部屋の隅へと向かう。

「……これ」

「植物か」

「うん。小さな木なんだけど、私が記憶してる中で一番古い木。一緒につれていきたい」

「名前は?」

「わからない」

「そうかい、名無しの木だな」

「じゃあ、ナナシで」

「……それでいいならそうしよう。よし、ナナシだけでいいな」

「他は要らない」

 急いで自分の船へと向かう。このスプートニクという船内は無意味に広く、走っても数秒で着くような作りではなかった。

「でもあんまり考えてる時間無い」

「そいつぁすまんかったな」

 そうこうしている間に接合した自分の船の前へと辿り着く。

「決めたか?」

「……」

 やはり決めかねている――コロリョフは溜息を吐いた。答えが出るまで待ってやりたいところだが、生憎そんな時間は無い。

「俺が出した答えはこの船の破壊を防ぐことだけだ。それ以外の選択肢は敢えて排除してある……が、それ以外に道は無い。あくまで船を壊されたくないというのなら、な」

「……私は」

「それとも船と心中でもするか。それもいいだろう。一つの道だ。といっても連中はそうさせないだろうが……」

「私は、船と一緒に生きてきたから」

「……そうかい」

 それが彼女の出した答えらしい。ぎゅぅっと抱いた植木鉢とナナシという名前の木。彼女はそれらと共にここへ残る決心をした、ということだ。

「なら、ここでさよならだ。この船の発進の仕方は分かるな。いざとなれば俺がハッキングしてでも」

「分かる」

「……そうかい」

「この場合は、さよなら、でいいの?」

「ああ、そうだ」

 それが彼女から聴ける最後の問いになるのだろう。

「俺は向こうに行く」

「うん」

「ここでお別れだ」

「さよなら」

 淡々としたものだった。自分で決めた道にもう躊躇いは無いのだろうか――だとしたら寂しいものだと最後に彼女の姿を観て、自分の方こそ淡々としたものだということに気付かされる。

(震えている)

 余りにも突然色々な事が起こりすぎたのだろう、彼女にとって今日は人生で一番大きな日となったに違いない。永久に変わらない時間を過ごす、そう信じていた彼女にとって、今この時間は激動の嵐の中に立たされているようなものだろう。

 下手をすれば生きるか死ぬかの選択だ。

(……そうしたのは、俺だ)

 船が難破さえしなければこんなことにはならなかった。

 偶然ここを発見しなければ彼女を巻き込むようなことはなかった。

 そしてここへ置き去りにするというのは、つまり――

 スプートニクが僅かに振動する。エンジンに灯がともったのだろうか。だとしたらそうしたのはライカ本人だろう。

「ライカ……」

「……」

 ただただ寂しそうにこちらを眺めている。彼女に決断を委ねたのは自分だ、彼女自身の意思を尊重したのも自分だ。

(だから、俺がこれ以上考えることじゃない)

「早く閉めて。もうすぐ離れるから」

「ああ……」

「じゃあ、さようなら――コロリョフ」

 その時、初めて名前を呼ばれた。

「――来い!」

 気が付けば叫んでいた。

 伸ばした手を掴まえて彼女をしっかりと抱き締め、これからどうするかなどはひとまず地球へ帰ってから考えることにした。



「夜は宇宙みたい。スプートニクで観る夜の空とそっくり」

 地球に降り立った彼女が呟いた初めての一言はそれだった。

  


終わり

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