イエローサブマリン
「だからー!! 私はー!!!」
「え!? なんて!?!?」
「なにがー!?!?」
彼女はさらに加速する。
「速い!! 危ない!!!」
僕は叫ぶ。
通勤時間でやや車通りのある県道を、彼女は猛スピードで走っていた。
前に車が走ってようが、対向車が来てようがお構いなしで、頑なにスピードを落とさないどころかさらに加速して行った。おかげで会話のしようがない。そもそもヘルメット越しで声はくぐもっているし、風切り音は彼女が加速して行くに連れてどんどん大きくなる。それに何より、顔の下から冷たい風がビュンビュンと入ってきて寒いと言うよりは痛いほどであった。
僕は会話をするのを諦めて、おとなしく彼女の腰に回した手に力を込めて抱きついていた。
信号で止まると、彼女はこちらを振り向き、僕のヘルメットに手を添えて何かをいじった。
「あーあー、しょーくん聞こえますかー。こちらユミミー」
急に彼女の声が明瞭に聞こえる。インカムあったのか……。
「聞こえるよ」
「よろしい。しっかり掴まって離すんじゃねーぞー??」
「うわ!!!」
彼女は急発進して、また走り出した。
家から学校までは電車と徒歩で40分ほど。車だと30分ほどの距離だ。
彼女は今は速度も安定させて走っている。
「ウィーオールリーヴィンナイエロサブマリーン♪」
インカムからは陽気な彼女の鼻歌が聞こえる。
「ね、ねえ」
僕は彼女にしがみついたまま聞く。やはりヘルメットの中に吹き込んでくる風が冷たい。
「お、どーしたのしょーくん。しょんべんか?」
「あ、あなたは誰なの?」
「わたしー? わたしはねー、お姉さんだよ、しょーくんの」
「僕に姉はいないよ!」
「ハハー! 聞こえない聞こえなーい!」
結局要領の得ないまま、彼女はバイクを走らせた。県道を右折して、上り坂に入る。上がって行くにつれて、次第に緑が増えて行く。学校はもうすぐだ。
「はい、しょーくん。こんな辺鄙なとこでも自販機ってあるんだねー」
なぜか脇道に逸れて、公園と呼べるのかわからないくらい何もなくてそこかしこに雑草が生い茂っている広場のベンチに僕は座っていた。ここには遊具もなくて、人の気配はもちろんない。これより奥は道が整備されていない林になっている。
彼女から差し出された缶コーヒーを握ると、かじかんでいた手が生気を取り戻したようだった。
すぐ隣に彼女も座る。
「苦いのは苦手なんだ……」
僕はつぶやいた。
「いずれ良さがわかるよ」
優しく笑いながらそう言った。
そして彼女は一本のタバコ、とても細くて長いタバコを口に咥えると静かに火をつけた。ゆっくりと味わうように吸い込み、ふううと大きく空に吐き出した。
「飲まないならそれ、もらうね」
僕が握っていた缶コーヒーを取り、飲み始める。
「やっぱこれが一番合うわー」
まだ残った缶コーヒーを僕に渡し、再びタバコを吸う。しかし今度は険しい表情のままだった。目を細め、タバコの先をじっと見つめる彼女はどこか思い詰めているようだった。
その凛とした佇まいは、まるでハリウッド女優のようであった。
「一つだけ」
ベンチの下に灰を落としながら彼女は切り出した。
「一つだけ、質問に答えてあげる。よく考えな」
その声のトーンは、今までの彼女とはうって変わって真剣なものだった。
僕は逡巡した。一つ。何を聞けばいいのだろう。
いや、僕の聞くべきことは決まっているじゃないか。
「あ、兄貴は生きてるの?」
昨日までの世界、この人が現れる前の世界では、兄貴は2年前に亡くなっていたのだった。
彼女は遠くを見るように目を細めて、再び虚空に煙を吐き出した。
「生きてるよ。今はイギリスのシティで立派なバンカーやってるはずだ」
「そ、そっか……」
兄貴が生きている。だから、このVストロームも家に置いてあったんだ。僕は自分の体が震えているのを感じた。寒さだけのせいじゃない。
二年前までは、兄貴がよく僕を後ろに乗せてタンデムしていたのだった。兄貴が生きている……。
「うー、違うでしょ、しょーくん。まずはこの美人でナイスバデーなお姉さんはだれかってことでしょ」
笑いながら彼女は言う。
冷たい風がビュンと吹いて、草木が揺れる音がする。僕は思わずマフラーに顔を埋める。
「な、なんとなくわかってるよ。お姉さんは、僕の姉なんかじゃない。そして、あの、塔、宇宙塔に関係しているんだ。そして、桐川……。あれ、そういえば!」
僕は立ち上がって周りをぐるりと見回す。どこにもあのグレーのタワーが見当たらない。
「宇宙塔はまだないよ。今日の12時13分でしょ、君に見えるようになったのは」
座ったまま、その静かな目で僕をじっと見つめる。細い前髪がヘルメットのせいか少し乱れていて、そこが色っぽかった。
僕が見つめ返すと、彼女はニヤリと笑った。
そしてすぐに立ち上がり、持っていたタバコをその辺に投げ捨てると、土の上をヒールで歩きにくそうに進んで行った。
彼女はバイクに積んであった僕のスカスカのスクールバッグをベンチまで投げる。そのままヘルメットをつけてバイクにまたがった。
「こっからはもう一人で行けるでしょ」
ジェッペルのシールドを開けて、まっすぐこちらを見つめて彼女は言った。
「ま、とりあえずはあの家で義理の姉として厄介になるからよろしくね、少年よ」
そう言い残して彼女は去ろうとする。しかし、再び動きを止めて振り返る。
「あ、そうそう、今日を終えたいなら、明日を迎えたいなら、もう忘れ物すんなヨ」
にかっと笑って、今度こそ大きなエンジン音を立てて去って行く。
僕は冷たくなった缶コーヒーをいまだに握りしめていた。