Vストローム
『なあ、翔貴。お前は確かに自分ってモノをしっかりと持ってるのかもしれない。でもな、いつか必ず出会うよ。男でも女でも、年上でも年下でも。こいつと一緒にいれば、俺はもっと楽しいんだって思える人に。お前がしっかりと笑いかけられる相手に』
「……」
ここは……部屋のベッド……。
枕元のスマホをつけて、時間を確認する。朝の七時過ぎ。
12月3日、金曜日。
……き、金曜日?
僕は飛び起きて、もう一度スマホを確認する。金曜日の朝7時12分。
慌てて部屋から出て階段を降り、一階のリビングに向かう。
そこでは、スーツ姿の父親が新聞を見ながら朝食をとっていた。台所では母親が洗い物をしている。
「12月3日、本日の星座占いはー!」
テレビの声が聞こえる。
僕はとりあえず洗面所に行き、顔を洗う。冷たい水を思い切り顔に当てる。何回も。
……昨日から変なことばかりだ。
そもそも、昨日は12月3日の金曜日で、今日も12月3日の金曜日なのだから、あれは昨日と言えるのだろうか。
サラリーマンの父がスーツなので、やはり今日は金曜日だ。テレビでも言っていたじゃないか。
でも、確かにあれは昨日のはずだ。
僕は水筒を部室に取りに行って、そうしたらあの塔が光っていて、部室の中には裸の桐川が血の涙を流しながら立っていて……。その後の記憶がない。
「翔貴、ご飯準備できたよ」
母の呼びかけに「うん」と答えて、僕は食卓へと向かう。
「おはよう」
「おう」
父に呼びかけて、いつもの場所に座る。
我が家の食卓は、テレビを前に、横型の大きなテーブルが置かれている。短い縦の両側にそれぞれ両親。長い横で、テレビが見える方の側に僕一人という、配置だった。あの日以降、そういう配置だった。
はずだった。
確かに、僕一人では広すぎるスペースだ。それでも、僕一人しかいないはずなのにそこには二人分の朝食が用意されていた。
二つの皿。二つのトースト。二つのお茶。父と母のコーヒーカップはそれぞれ別の場所に置かれている。まるで、四人家族のようだった。
僕は慌てて左後ろを振り返る。
そこには、確かにあるはずのものがなくなっていた。
つまり、兄の仏壇がなくなっていた。
父も母も何食わぬ顔で、いつも通りの朝を過ごしている。僕は動揺を悟られないように、自分の席に着いた。
僕は、右側だった。
心臓の鼓動がドキドキと鳴る。
ジャアと、トイレを流す音、扉の開閉の音、電気のボタンを押す音。
近づいてくる足音。
くだらない星座占いの音。
12位は水瓶座だという。
そして、僕の前に現れたのは。
見たこともない女の人だった。
「それでさー、どうしてもその客がしつこく絡んでくるからさー、私言ってやったわけ。うちはそんな店じゃねんだよ!って。そしたら店長からも妙に気に入られちゃってさー。男のくせに根性ないよねー」
「あら、そう。大ごとにならなくてよかったわね」
「まあ私こう見えても鍛えてるんで」
台所の母と楽しげに話しながら、彼女は皿に山盛りに積まれたトーストをガツガツと食べていく。
バターナイフで大きくバターを掴んでトーストに塗りたくり、ジャム瓶から大量のジャムをのせて一気にかじりついている。
初めは5枚以上あったトーストがみるみるなくなって言った。
「どーしたの。食べないならもらうよ、しょーくんのも」
彼女はそう言ってニマリと笑う。
僕は慌てて目をそらして、手元のトーストに手をつけた。
「それにしてもゆみちゃん。今日は早いのね」
「久しぶりにしょーくんを車で送ってあげようと思ってねー。お姉さんに感謝しなさいよ、こいつめっ」
ゆみちゃんと呼ばれた彼女は僕の頭をわしゃわしゃしようとしてきた。
僕は黙ってその手を払いのける。
「あら、釣れないねえ」
残念そうに口を尖らせて彼女は言った。
僕が水筒に麦茶を注いでいる間も、あの女は母と陽気に雑談をしていた。
僕は黙ってそれを見ていた。
部屋で着替えてる途中、あることに気づいた。
「ギターがない……」
父が家を出た数十分後、僕と彼女も家を出た。
玄関の扉を閉めると同時に僕は言った。
「あ、あの……あなたは、誰……?」
僕のやや先を歩いて駐車場に向かっていた彼女は振り向くとニコリと笑った。
「やだーしょーくん。お姉ちゃんのこと忘れたのー?? こんなに綺麗なのに」
そう言って彼女はくねくねとポーズをとる。
長くて少しだけ赤味がかった茶髪。ライダースの黒のジャケットの下には、その大きな胸がくっきりと浮き出るベージュのニットのセーター。そして体のラインと長い足を強調するスキニーの黒いパンツ。歩くたびにカツカツと音のなる赤いヒール。
ハーフを思わせるようなすらっとした高い鼻に、くっきりとした二重、アーモンド状の目。
唇はやや薄く、口角は少しだけ上がっている。
ヒールを履いているせいか、身長も僕と同じかそれ以上くらいある。
確かに、綺麗だけど……。
「し、知らないですよ」
僕は目を伏せながら言う。
「まあ送ってく途中で説明してあげるよん」
彼女はツカツカと先へ進んだ。
しかし、うちは父が車通勤だ……。車なんてないはずだ……。
そう思いながらついて行くと、ふいに彼女がヘルメットを投げてくる。ジェットタイプ。
「ほら、乗んな。タンデムでランデブーだよ」
そう言って彼女は自らが跨っているバイクの後ろを指差す。ヘッドに黒い文字で刻まれたVストローム。
それは間違いなく、兄貴が乗り回していたバイクだった。
僕は何がなんだか全くわからないまま、手元のヘルメットを撫でていた。