宇宙塔にうってつけの日
『宇宙塔(うちゅうとう、Space Tower)とは、世界各地に見られる筒状の建造物、またはその総称である。直径は約30メートル。その存在は紀元前より確認されており、起源は不明である。それらは全て灰色であり、地球の外まで伸びている。現在では、どこまで伸びているのかは解明されていない。』
僕はスマホで一通りの説明を読んだ。
ほんの数分前の世界までは、こんなものはなかったはずだ。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。いつもより早いペースで呼吸を行う。
さらにスマホをスクロールして説明を読む。
『また、宇宙塔は大人になると見えなくなるという特徴がある。正確な日時は個人差があるが、一般的には17~18歳の時、見えなくなると言われている。そのため、現在でも十分に研究が進んでいない。』
宇宙塔、それは空の彼方、宇宙にまで伸びる灰色の塔。大人たちには決して見えない、灰色の塔……。
教室の窓から見るそれは、とても細くて、冬の澄んだ空気の中で少しくすんでいるように見えた。
退屈な世界史の授業の間も、僕はずっと考えていた。この世界にとって宇宙塔は、「はじめからそこに存在しているもの」であった。
どうして僕だけが違ったのだろうか。
僕は、僕の自意識は、「それが存在する前の世界」と「当たり前のように存在する世界」の二つを知っている。心臓の高鳴りはさっきよりもどんどん増して行く。
どこか、ワクワクしている自分がいたのだった。初めて『let it be』を聴いた時以上だった。僕は特別なのだ。
誰からも見られていない黒板にはアレクサンドロス大王とマケドニアの衰退が書かれていた。
六時間目、最後の授業は体育だった。
大きなグラウンドで、サッカーを行う。女子は端にある陸上レーンでハードル走や幅跳びを行なっていた。
1試合終えると、口の中が乾燥しきっていた。水を飲んだ後、近くのコンクートの段差に腰掛け、ぼうっと宇宙塔を眺めた。
教室の窓と見る角度は違えど、それはそこに「あった」。
「ずっと、見てるんだね、あの塔」
「!?」
いつの間にか僕の隣には女の子が座っていた。
と言っても、彼女は僕が学校で話をする数少ないうちの一人、桐川唯である。
失礼かもしれないが、彼女はなかなかに影が薄いというか、存在感がないため、こうして驚かされることが多い。
「ああ、桐川か。うん、まあね」
「気になるの?」
彼女は囁くように言う。長袖のジャージに、長袖のズボン。どっちも学校指定の水色だった。
「う、うん……」
僕は少しドギマギしていた。少し体を傾ければ肩と肩とが触れ合うくらい、近い。女の子特有の甘い香りが余計ドキドキさせる。
彼女は深い黒の髪を一つ結びにして下ろしていた。小ぶりな鼻と、綺麗な奥二重。おとなしげな雰囲気。
「き、桐川は、あの塔、どう思う?」
僕はすぐに顔をそらして、平常心を装って聞いた。
「宇宙塔のこと? うーん……」
彼女は少し唸ってから続けた。
「子供にしか見えないって素敵じゃない。どうせだったら、子供の間は、雲はふわふわの綿菓子で、サンタクロースは本物が実在して、お化けも妖怪も全部いればいいのにって、思う」
彼女は静かにそう言って、笑った。僕は少しだけ彼女の方を向き、横目でその可愛らしい笑顔を見ていた。
昼下がりの青空には、飛行機雲の筋が一本だけ、長く、途切れ途切れに伸びていた。
女子の笑い声や、男子のはしゃぐ声はどこか遠くに聞こえていた。
この季節の放課後は、不思議だ。
僕の通う高校は大学受験対策にも力を入れていて、希望した生徒はさらに授業を受けることができる。そのためホームルームが終わった後も教室に残ってその授業を待つ生徒がチラホラいる。
一方で、すぐに部活動を始めるため大きなカバンや荷物を持って部室へと急ぐ生徒もいる。
それぞれが思い思いの場所へと、時に気だるげに、時に意気揚々と向かう。それに合わせて校舎は、朝の威圧的な佇まいから生徒たちを見守る優しげな母へと変貌するように思われるのだ。
小学校の時分を思い出すとき、それは決まって放課後のような気がする。木造校舎の金木犀の香りは、昼下がりから発生するのではないだろうか。
おそらく10年後、僕が高校生活を懐かしむ時に思い出すのは、きっとこんな何気無い放課後の優しくて虚しい空気なんだろうなと思う。
ふうとため息をつく。机に肘をのせる。改めて、目の前のプリントを眺める。
成績不良者への追加課題。二次関数。
そもそもこの忌々しい座標系を関数に充てるために考え出したのは、あのデカルトであるそうだ。コギトエルゴスム。
二次関数を考える僕という自意識は、確かに存在する。
ならば、あの宇宙塔を知らずに生きていた僕の自意識はすでに存在しないのだから、ほんの数時間前まで、宇宙塔が急に現れるまでの僕も、もはや存在しないのではないだろうか。
つまり、宇宙塔の出現以前と以後で、僕にとっての連続性は断たれてしまっているのでは……。
「今の僕」とは、実は生まれて数時間の意識なのではないだろうか……。
「赤月くん。私先に部室行ってるね」
そんな僕の無駄な思考を、桐川の静かな声が遮断する。
「あ、う、うん……」
彼女は、僕と同じギター部なのであった。先ほどとは違い、いまはもうその長くて綺麗な黒髪をまっすぐ、肩口まで下ろしている。
前髪もやや長く、少し目にかかっていた。
彼女は少し微笑んで、くるりと半回転すると、そのまま教室を出て行った。
「ふう……」
僕は気を取り直して追加課題に取り掛かった。
「なあ、お前って桐川と付き合ってんの?」
僕が課題を終えると同時に、前の席に座っていた男が話しかけてきた。クラスメイトの黒田。昼休みに僕を嘲笑していたグループの一人だ。
成績優秀らしく、もうすぐ始まる放課後の追加講義に参加するのだろう。
「え、い、いや、そ、そんなことないけど……」
また少しどもってしまった。
「あー、そうなのか。いやなんかほら、今日の体育の時間とか仲良さげに話してたじゃん?」
「た、ただの友達だよ」
うっかり友達なんて言ってしまったが、彼女がどう思ってるのか、わからない。
実際、二日に一回くらいは話すが、友達というほど距離は近づいていない。
「それに、結構二人きりで出かけたりしてんだろ? ほらあの、ゴシップガール平田がそんなこと言ってたぜ」
「え……?」
二人きり? 出かける? そんなことあっただろうか……。
チャイムが鳴る。それと同時に教室に留まっていて、放課後の授業に参加しない生徒はいそいそとカバンを持って退出する。
黒田もそれきり前を向いてしまったので、僕も片付けをして、後ろに置いていたギターを背負って教室を後にした。
校舎を出て、大きなサッカーグラウンドを通過してさらに奥の方まで行くと、三階建ての第二部室棟がある。ここでは、そこまで規模の大きくない部活の部室があてがわれている。建物は古いコンクリート造りで、あちらこちらにヒビが入っており、階段や通路の柵にはサビが目立つ。グランドから土が風で運ばれてくるため、床はザラザラしている。
ギターを背負って三階を登り降りするだけで、体力のない僕はとても疲れてしまう。この三階には、とりわけ人の少ない部活の部室が並んでいる。TRPG部、天文部、隣人部、古典部、SOS団……。
僕たちギター部の部室は3階のさらに一番奥。
できるだけ音の迷惑がないようにとのことだが、ほかの部活は大声で騒いだり、大きな音でゲームやアニメ鑑賞をしているので同じである。
立て付けの悪いドアを開けると、男子生徒一人と、女子生徒二人が座っていた。