土曜日の夜
その晩、ユミミにこのことを話した。
彼女は昨日と同じく僕の部屋で酒を飲んでいた。ウヰスキーをロックで。
「なるほどねー青春だねー、アヒャヒャ」
彼女は漫才番組を見ながら雑に応じた。僕はベットの上にあぐらをかいて座っており、彼女を見下ろす形になる。
「海藤が舞台に上がるのも、そのお兄さんの恋人に向けてのためらしいんだ。そしてその後思いを伝えるって……」
「おー、がんばるなー、どうせ無理だろうに、ウヒャヒャ」
テーブルに手を叩いて彼女は笑う。こうしてみると、やっていることはただのおじさんだ。ここから見える白くて細い足やサラサラの髪がなんだか勿体無い。
「うん、うまくいかないなって思う。でもだから、僕に何かできることはないかなって。友達には傷ついて欲しくないんだ。それとなく、海藤に竹下を意識するようにさせるとか……」
「まあでもしょーくんには関係ないんじゃん?」
彼女が遮る。
「そ、そうだけど……」
「結局、その海藤って子は振られるの覚悟で想いを伝えるんだろ? それで振られる。竹下って子はその子で、報われない恋だってのを覚悟してるわけだ」
彼女はテーブルに置かれたビーフジャーキーを口に加えて噛みちぎる。
「何が言いたいの……?」
「何もないよ。なるようにしかならないってことさ。海藤くんの告白がうまく行くのかもしれない。振られても、竹下ちゃんの想いに気づいてそこが両想いになってハッピーエンドかもしれない。二人とも傷ついてほろ苦い思い出として終わるだけかもしれない。きっと、どのセカイもありうるんだよ、ギャハハ!くっだらねえなこの漫才!」
「で、でも、それなら、僕が動くことで未来を変えることもできるってことじゃないか」
彼女は少し驚いたようにテレビから目を離しこちらを見た。
「おっどろいた……。しょーくんいつの間にそんなこと言うようになったの。先週までの君はむすっとした顔でイヤホンつけて他人には興味ありませんって感じだったのに……。いや、」
そういって彼女はニヤリと笑う。
「そんなことを言うようになったんじゃなくて、その機会がなかっただけなのかもしれないね」
「どういう意味……」
「そのまんまさ。しょーくんは特別だったわけでも、孤独だったわけでもない。ただ不器用で臆病なだけなのさ。本当は周りと仲良くなりたい、楽しくいたい、でも、無理して彼らに合わせていたら疲れてしまう、こちらから歩み寄って拒否されるのが怖い、だからもともと距離をとっておく。周囲には期待しない。こうすれば傷つかない」
「そ、そんなことない! ぼ、僕はくだらない噂話とか低レベルな話しかできない周りと関わっても意味はないってだけで、それで、だから、その、に、逃げてたわけじゃなくて……」
僕はそこで言葉に詰まる。彼女が言った言葉を反芻する。僕は、不器用で臆病なだけ……。傷つくことを恐れていただけ……。
「もちろん、それで一人でいられる強さも多少はあるんだろう。でも、海藤くんや竹下ちゃんがしょーくんを受け入れてくれるんだとわかったなら、彼らにさらに首を突っ込もうとする。今しょーくんがやろうとしているのは、君が散々見下していた噂話とかおせっかいだってこと、気づいてる? しょーくんにできることは指を咥えて見てることだけだよ」
「……ごめんユミミ、出て行って」
僕は思わず突き放すように言う。
「それでも、私はしょーくんの味方だよ」
彼女は最後に優しく微笑んで、僕の頭を二回ポンポンとすると角瓶を持って部屋を出た。
テレビから流れる関西弁のツッコミと笑い声が虚しく響いた。
僕は一人で考えていた。
彼女の、ユミミの言っていることは正しいのかもしれない。
他人はいつだって必要だ。10代の僕たちは他人に認められることでしか自分を確認することができない。それくらい僕らにとっての自己とは、境界の定まっていない不定形なものなのだ。毎日少しずつ、まるで出かける前に鏡で自分の姿を念入りにチェックするように、他人にとっての自分の姿も確認しなければならない。そうしないと、不安に呑み込まれてしまうのだ。
この鏡の役割を果たすのが、スマホだった。媒体としてのスマホ。友達から連絡がくるとウキウキしてしまう。彼らが、こいつに取り憑かれるのは必然であるのかもしれない。
僕はそんなものは不要だと思っていた。不要だと思い込んでいた。僕は一人でも生きていける。低俗な付き合いなんていらない。そう思っていた。
けれどそれは単なる防衛機制に過ぎなくて、必要だと思いすぎるあまりに不要だと思い込もうとしていたのだった。結局僕は、臆病なだけ、逃げていただけ……。
突然ブーブーとスマホのバイブレーションが鳴る。ポケットから取り出すと、そこには「赤月将貴」と表示されていた。
兄貴からのコールだ。
僕は恐る恐るそれを耳元にやる。
『お、翔貴か? 久しぶりだなー、元気でやってるか? 返事できなくて悪かったな』
明るい口調で耳に届く。こちらに届く通話の声は、厳密には本人の声ではなく作られた声だという話を聞いたことがある。それでも、この低くて小気味良い声は間違いなく兄貴のだ。二年ぶり。
『う、うん……久しぶり』
『おいおいどうしたんだよ、元気ないな。何か嫌なことでもあったのか?』
『い、いや、そんなことはないけど、ちょっと考え事してて……』
『そうなのか。どうだ最近は、何か変わったことはあったか?』
変わったことだらけだよ、お兄ちゃん。一体いつ生き返ったの。
そんなことを一瞬思うが、言葉には出さない。
『まあ、変わったことだらけだよな、お前も戸惑ってるだろ、急に塔とかユミミとか現れて』
!?
どういうことだ?
『お、お兄ちゃんは何か知ってるの!?』
思わず僕は食い気味に応じる。
『ああ、お前には色々迷惑をかけてすまないと思ってる。けど、俺はこれ以上何も言えないんだ』
『ど、どういうこと……?』
『いや、すまん、忘れてくれ』
『そんなことできないよ! だいたいなんで生きてるんだよ!』
僕は焦りのあまり酷い言い方をしていることにも気づかなかった。
『そうだよな……。本当にすまない。だが何も言えないんだ。俺が説明しようとするとこの電話は切れてしまうだろう。わかってくれ』
兄貴のこのしおらしい良い方も、僕の思い出と同じだ。
僕が小さい時、兄貴がギターを教えてくれるようになって僕らは毎日練習していた。当時小六の兄貴が修学旅行で一週間家を離れるとなった時、幼い僕は泣きながら反抗した。
兄貴は全く悪くないというのに、出発直前までごめんなと繰り返し僕に謝ったのだった。
『わかった……』
『ありがとう、翔貴……。それで、ギターの方はどうだ? 上達したか?』
『うん、ギター部の友達に教えられるくらいになったよ』
『そうか! 友達もできたのか! よかったなあ翔貴』
『うん……。でも今、その友達が傷つきそうで僕はどうすればいいのかわからないんだ……』
『そうなのか。詳しいことはわからないが、お前は人一倍優しいやつだからな。優しいってことは、人の気持ちに敏感であるってことだ。何がその友達にとって一番良い結果になるのか、そのために自分はどうするべきなのか、お前ならわかるよ、大丈夫』
お兄ちゃん……。
『……悪い、もう切らなきゃならないから、父さん母さんによろしくな』
『わかった』
『それから、翔貴……』
最後に真面目なトーンになって兄貴が言う。
『なに?』
『ユミミのことは、信用しすぎるな』
そう言い残して電話は切れた。
考えることが多過ぎて頭がいっぱいになった僕は、布団をかぶって眠りについた。