幼い頃の思い出と奇妙な頼みごと
小さい頃、親に連れられて姉の高校の文化祭に行ったことがあった。そこは焼きそばやらたこ焼きやら縁日の様にたくさんの屋台が並んでいて、夏祭りみたいですごく楽しかった。クラスの展示でマジックショー、中庭のウッドデッキのスペースではバンドの演奏なんかもやっていて、一日中はしゃいでいた。
昼飯を食べて若干眠くなってきたとき、両親は「もうすぐお姉ちゃんの発表があるよ」とかなんとか言って、眠そうな俺をおんぶして礼拝堂に連れて行った。
そこは白くて大きい十字架やよく分からない像が置いてあって、ちょっとだけ怖くもあった。中は薄暗く、中央のステージだけスポットライトで明るくなっていたがそんな状況を理解する暇もなく、俺はそのステージで白い修道服を着て歌っている聖歌隊の内の一人に目を奪われた。
隣で母親が「弘子、あの衣装一番似合ってるわー」とか親バカなことを言っていた気もするが、俺にとっては実の姉よりもその右隣にいる女生徒しか目に入らなかった。
彼女は美しかった。
今ではそれしか覚えていないが日本人離れした、もっと言えばこの世のものではないような美しさだった……気がする。
『主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ』
息を飲む、というのがぴったりなくらいに俺は何も言えず、また一瞬も見逃すまいと目が乾いて涙が出てくるまで瞬きをせず、ずっと見ていた。
『わが君イェスよ われをきよめて よきはたらきを なさしめたまえ』
ついにその賛美歌が終わるその直前に、堪えきれず目を閉じてしまった。目を閉じていたのは一瞬だったはずなのに、次に俺が目を開けたとき彼女はいなくなっていた。
その日の夜、家に帰ってきた姉に右隣に立っていた彼女について聞くと、
「……え?私の隣は誰もいなかったはずだけど?」
と言われてしまった。もちろん、親バカな両親が姉以外のことについて覚えているはずも無く、謎に包まれてしまった。
彼女は俺が生み出した幻想か。
あるいは、
天使か………。
『賛美歌、頌栄456番を歌います。生徒及び教職員の皆さんはお立ちください』
この数日でもう聞き慣れたシスターさんの声で分厚い賛美歌の本を手に、ぞろぞろと生徒達は立ち上がる。俺もこのクソ重い本を片手に立ち上がろうとして……
バタン!
……よろけて落としてしまった。
周りの生徒達の視線が集まる。中にはクスクスと笑っている奴らもいる。正直すごく恥ずかしい。
『静粛に!』
シスターの声が飛んだ。
ふと何か強い視線を感じて首から上だけ振り返ると、うちのクラスの担任が怒りの目で睨んでいた。
「終わったら残れ」
その目はそう語っていた。
「ったく!お前はどうしてそうなんだ神野裕人。初日は居眠りでシスターに怒られるわ、翌日は遅刻して途中から入ってくるわ、今日は今日で……ガミガミ」
うーん、こうも担任に言われると自分がこの数日でどれだけのことをやらかしたのかがよく分かる。
「お前も少しは河野先生を見習ったらどうだ?」
河野先生とは俺の歳の離れた姉の弘子のことである。十二も離れた姉は翔英学園を卒業した後、音大に入り母校であるこの高校で音楽教師として働いている。ちなみに音大時代に出会った恋人と結婚しており、それで苗字が河野になっている。
「そう毎日カリカリしてっと、結婚できませんよ。姉貴みたいに表向き猫はかぶってないと」
さらにどうでも良いことだが、俺の姉と担任の前田絵里先生は高校の同級生である。晩婚化が進んでいる今日この頃ではあるが、今年二十八になることを考えるとそろそろ本腰を入れて婚活に励むべきだろう。ルックスは良い方なのだ。それこそ、ニヤけると顔面が崩壊する俺の姉貴に比べれば。だが、担任の場合性格の表裏の無さがかえって魅力を損なっている、と俺は若輩ながら愚考する。
ある意味、挑発を挑発で返したような俺に、担任はより一層怒りを募らせあわや体罰にもなりかけた時、想像しなかった方向から鉄鎚のように重い一撃が降ってきた。
「ッぶねぇ!」
「チッ、避けんじゃないわよ」
なんとも忌々(いまいま)しそうに舌打ちをしたこの女こそが俺の姉貴、弘子だ。学生時代はショートカットで勝気そうなヘアースタイルだった姉も、結婚したことで少しはおとなしくなる…はずもなく、夫には甘々な一方で弟の俺にはその伸ばした髪の長さ以上に増長している。
「ちょっと河野先生。弟さんの教育はしっかりしていただかないと…」
前田先生があくまで『担任としての』立場で姉貴に苦言を呈すると、姉貴はあくまで同級生に対する態度で、
「ちょっと絵里、私のこと苗字で呼ぶのやめてよ。昔みたいに絵里っち♡弘子っぺ♡でいいのよ」
「そんな愛のある呼び方してないわよ。はぁ、わかったから弘子、さっさとこの不良生徒をなんとかして頂戴」
むむむ、前田先生こと通称絵里っち♡は学生時代から姉貴に手を焼かされてきたらしい。わかるぞ、よくわかる。俺は先生の良き理解者になれそうだ。え、いやさすがに十二歳差はちょっと守備範囲外だけれど。
「無理よ、むーり。このバカは死なないとわかんないんだから。聖書で殴っても改心しないわ、パウロじゃあるまいし」
失敬な!ちなみにパウロさんは当初は弾圧する側だったが、キリストさんの死後に改心して洗礼をうけた人である。断じて聖書で殴られて改心したわけではない。というか聖書を鈍器として扱う時点でこの姉貴には天罰が下っても良いはずである。
「ったく、この姉にこの弟ありね。もう神野のことは弘子に任せるわ」
最後に俺たち姉弟をジロりと睨みつけてから、絵里っち♡は去っていった。
俺も教室に戻ろうとして歩きだした途端、姉貴に首根っこを掴まれ強制的に絞められた。
「ちょっと待って」
「グエッ!ゲホッ、ガハッ!なにすんだよ!」
怒って振り向くと、さっきまでとは違ったマジな顔で俺を見ている姉貴の姿があった。
「あのさ、裕人。頼みがあんだけど」