09 過去――半年前の事件1
「触るな!」
俺は急いでそう叫んだ。
少年はびくっとして手を引っ込める。
しかし誰も俺のことを見はしない。
視線は全てソレに注がれている。
少年は後ずさりをし、しばしソレを見つめた後、こちらへ戻ってきた。
「……」
誰も何も言わなかった。
いや、言えない、と言った方が正しいだろう。
目の前で起きた、ほんの一瞬の出来事。
あまりにも簡単な事実。
しかし、あまりにも受け入れがたい事実。
「……何なの……」
女子高生が皆の思いを代弁するかのように呟く。
それはすぐに半ばヒステリックな叫びへと変わった。
「何なの!? 何が起こってるわけ!?」
「……そんなの……僕が教えて欲しいよ……」
戻ってきた少年が消え入るような声で呟く。
彼女はすぐに冷静さを取り戻し、動揺しているのは自分だけではないことを悟る。
「……そうだよね、ごめん……」
再び訪れる、沈黙。
周りの空気には、明らかに日常では感じ取れないものを含んでいた。
驚愕、困惑、不安、焦燥、恐怖。
自分が非日常の世界にいることを、ようやく実感し始める。
「……感電死、か……?」
無意識のうちに言葉が漏れる。
今度は全員が振り向いた。
まだ30にもなっていないのに俺はこの中では一番年上だ。
理系の知識はからきしだったが、頭を存分に働かせて考えを組み立てる。
非日常を俺達に突きつけたソレに一瞬だけ目をやり、言葉を続ける。
「普通に考えたら燃えたか感電したかだ。
でも、一瞬で黒焦げになるような熱を受けたのなら、俺達もただではすまなかったはずだ。
すぐ近くにいたんだからな。
それよりも、高圧電流を流し込まれたと考えたほうが自然だ。
空気は電気抵抗が大きいから、俺達が被害を受けなかったことも頷ける」
たまにニュースで、電車が止まったので調べたら電線に黒焦げの蛇が引っかかっていたというのを聞く。
それに中学の頃に理科で習った知識や常識を組み合わせただけの簡単な推測。
でもそれ以外に、この状況を説明する方法は思いつかなかった。
「え……でもそれって――」
「どういう……ことですか……?」
少年が何か言おうとしたのを遮って、女子高生が尋ねる。
その声から、一刻も早くここから出たいというのが伝わってくる。
「窓ガラスの中に……導線が通ってるだろう?」
「あ……窓が曇らないようにするためのものですよね」
「それに触れたからってこと?」
「この電車ってそんな危ないもん付いてんのかよ!」
赤い帽子をかぶったもう一人の少年が叫ぶ。
「そんなはずはない……そんなはずは……
一瞬で黒焦げになるほどの電圧なんて……電線に流れているものよりも……」
結局俺は説明を撤回することになる。
やはりよく考えればありえないのだ。
窓ガラスに発生する曇りは車内と車外の気温の差が原因で生じる。
それを取り除くために電熱線がガラスの内部に張ってある。
電車では珍しいが、自動車では当たり前だ。
冬や雨の日にそれを使うことは少なくない。
交通事故でそのガラスが割れることも多いだろう。
でも、ソンナハナシは聞いたことがない。
そう。
人間が、一瞬で、黒焦げになって、死んだなんて話は。
俺はもう一度ソレに目を向ける。
今置かれている状況が嘘であることを願って。
しかし、ソレは存在した。
この非現実的な出来事が現実だと俺に思い知らせる。
常磐正志の死体が、そこにあった。
そもそもどうしてこんなことになったのだろう。
俺はいつものように電車に乗って帰宅する途中だった。
いつものように仕事を終えて、
いつものように近くの定食屋で夕飯を済ませて。
しかしいつもと違って、電車は駅でもないところで急停止した。
人身事故が起きたと、アナウンスがあった。
日常の中に、イレギュラーな分子が紛れ込んだ。
同じ毎日の繰り返しに飽き飽きしていた俺にはいい刺激だった。
興味を覚えた。
死体が見れるなんて思わなかったが、何か違った空気を感じたかった。
最前車両には、誰もいなかった。
今から思えば、その時点で十分おかしかったのだ。
しかしそのときの俺は深くは考えなかった。
騒いでいる人間がいないことに落胆した。
慌てている人間がいないことに落胆した。
戻るのも面倒だったので、適当な席に座って寝ることにした。
それが、非日常の世界の始まりだった。
「もしもし! 起きて下さい!」
不快な振動で俺は目が覚めた。
目を開けると、男が俺の両肩を掴んで揺さぶっていた。
俺は顔をしかめてその腕を振り払った。
「……うるさいな、何なんだ」
「とにかく、こっちに来てください」
そこには4人の高校生が立っていた。
様子がおかしい。
俺はやっと気付く。
俺の求めていた空気が、立ち込めていることに気付く。
でも、俺はただの傍観者でよかったんだ。
当事者になりたいなんて、露ほども思っちゃいなかったのに。
常磐正志と名乗る男から聞かされた話は、あまりに突拍子の無いものだった。
俺が寝ている間に、そこの高校生らが怪物に襲われた。
何とか撃退しはしたが、他の客がいつの間にか消え失せた。
自分たちは電車の中に閉じ込められた。
なんだそりゃ。何のドッキリだ?
笑い飛ばしたくなったが、彼らの表情は真剣そのものだった。
俺が呆然としていると、常磐正志が一人窓ガラスに近づいた。
「……さてと。さっさと脱出しましょう」
「どうやって?」
高校生の一人が尋ねる。
「ガラスを割ります」
「……え、ええ!?」
「これ以降怖くて電車に乗れないなんてことがあっては困りますからね」
常磐正志はどうやらこの鉄道会社に勤めているらしい。
イメージダウンを恐れるのは道理だ。
「ガラス代は会社が払ってくれますよ。
そうでなくても私が払いますから、皆さんは心配しなくていいですよ」
「そんなことしなくても……」
「大丈夫。私、大学の頃ボクシングやってまして。
タオルを巻けば窓ガラスくらい……」
「そうじゃなくて――」
「危ないですよ、皆さん下がっていてください」
そういって拳を構える。
それが、俺達が見たヤツの最後の姿だった。
今までに経験したことのない轟音と閃光。
思わず目を閉じ、耳をふさぐ。
目を開けると、ソレがあった。
「……騒いだってどうにもならない。
とにかく外に出ることだけを考えよう。
……生きて」
今の状況で言えるのは、それくらいだった。
「窓ガラスを壊す以外の方法を考える。
それから……怪物がいるんだろ? 武器になるものが必要だな……」
「傘は持っているけど……こんなもの役に立つかな……」
「よし、各自探そうぜ」
そうして俺達は、自分の持ち物を確認することにした。
ポケットの中からサバイバルナイフを見つけた。
いつ、何のために買ったのかすら覚えていない。
確かなのは、これが俺のものであること。
そして、今まで使ったことが無いということ。
リーチは短いが、武器としてはなかなか威力がありそうだ。
改めて高校生らの様子を見る。
彼らは皆知り合いのようだ。
何かあったかと互いに聞きあっているのが聞こえてくる。
俺だけが、仲間外れ。
……俺だけが?
さっきまでは常磐がいた。
でも、今、死んだ。
俺はどうして死んだかにばかり気をとられていて、
誰に殺されたのかを考えていなかった。
そう、これは事故死なんかじゃない。
事故ではありえない。
何らかの悪意が介入しているのは間違いない。
なら、誰のだ?
俺以外の誰か。
彼らかもしれない。
理由なんて分からない。
でも、常磐が死んで、次に俺が殺されないという保障はどこにも無い。
そして、彼らが俺の命を狙っていないという保障も。
彼らを信じちゃいけない。
俺はそう直感した。
神林亜深:
食品加工会社社員 半年前の事件で誠たちと出会う