33 胎動――綾乃の過去5
初日から、私は最後に自己紹介した子が気になっていた。
綿原加奈は大人しい子だった。
口下手で人見知り。
話しかけられると薄く笑いながらも、どこか警戒した様子。
一人で机にポツンと座っていて、恥ずかしがり屋だけれど寂しそうで。
5月に入ったある日の英語の授業。
以降、私たちは好きな人とペアを組んで会話練習をすることになった。
先生の掛け声とともに、全員が席を立つ。
「綾乃、一緒にやろっ!」
後ろの麻衣が声を掛けてきた。
こういうのは席の近い人同士でやるのが定石だ。
1か月もすれば、普通近くの席の人とは仲良くなれる。
趣味や性格、成績その他が大体分かってくるからやりやすい。でも……
私は、教室の対角に目を向けた。
案の定、加奈はペアを誘うことができず、あたふたしていた。
隣の人は反対側の人とペアを組んだようだ。
前の人はその前の人と。
隅で孤立。
「ごめん、私ちょっとパス」
私は麻衣の誘いを断り、教室の後ろを回る。
麻衣ならいくらでも相手はいる。でも加奈は違う。
加奈はその場で立ったまま俯き、今にも泣きそうだった。
私は後ろからその肩を叩く。
ビクッと体が震えて、怯えたようにゆっくりと、加奈は首を回した。
私は右手を差し出し、笑顔で提案する。
「私でよかったら……どうかな?」
それが、私と加奈の最初の会話。
最初は英語の授業の時、教科書を読み合ったりするだけだった。
合間に私が雑談をはさんだり、質問をしたりしているうちに、
段々と加奈のほうからも話をしてくるようになってきた。
家の方向も同じだったから、毎日一緒に帰るようにもなった。
それでも、加奈の人見知りは一向に改善しなくて、
いつしか加奈はいつも私と一緒にいるようになっていた。
……金魚のフン、と揶揄されるくらいに。
「綾乃、最近よく加奈と一緒にいるよね」
部活の休憩時間、タオルを首に巻きながら、麻衣が隣に座った。
もう夏の大会が近付いていて、練習は一層厳しくなってきた。
例年より高い気温と、激しい運動量で私の体からも汗が噴き出してくる。
麻衣はただ単に、的確に事実を述べただけだった。
でも私には、その言葉の裏に「なんであんなのと一緒にいるの?」
なんて意味が含まれているように思えて、少しカチンときた。
あの女の顔が、脳裏に浮かんだ。
「……なんで……」
「え?」
「なんでそんなこと言うわけ!? 私がいなきゃあの子は駄目なの!
加奈には私が必要なの! 私は……私は……ッ!」
私は両親に助けられてきた。先生に助けられてきた。
麻衣に、誠に、みんなに助けてもらってきた。
それで、私はいったい何ができた? 誰を助けられた?
級長になっても、学年委員長になっても、生徒会長になっても、私は何もできなかった。
借りが増えていくばっかりで、全然返せちゃいない。
でも、今、加奈は私を必要としている。私が必要とされている。
これを逃したら、もう借金を返すチャンスは無いかもしれないのだ。
「ご、ごめん、そんなつもりで言ったんじゃ……」
「……ううん、私こそごめん、ちょっと感情的になっちゃった」
「……真希に言われたこと、まだ気にしてるの?」
「……」
私のグループの中で加奈の悪口が出てきたら、私がその流れを断ち切るつもりだった。
でも、私のグループからそれが生まれるとは限らなくて、
私の知らないどこかで、それはいつの間にか生まれていて、
私がそれに気づいた時には、とっくにクラスに広がり始めていた。
「……ごめんね……」
麻衣が呟いた。
「……え?」
「水樹の時みたいにはいかなかった。
多分、私がその場にいたとしても、私は加奈のことを守れなかったと思う。
私は加奈のことを何も知らないから。下手に手を出したら私が狙われてしまうから……」
それは正しい判断。誰だって、自分が一番大事。
人を助けるのだって、見てて自分がつらいから。自己満足のため。
でも、それのどこが悪いわけ?
それが人を幸せに出来るなら、何も文句なんて無い、むしろありがたいことのはずなんだ。
麻衣は言葉を続ける。
「でも、私は綾乃のことはよく知ってる。綾乃のことは守れる。
だからね、綾乃は自分の道を突っ走っていい。私が、綾乃のことを守るから。絶対」
隣に顔を向けると、麻衣は私の顔をじっと見つめていた。
頼もしさを感じさせる決意の眼差し。
「……うん、ありがと」
体育館の壁から背を離し、私は立ち上がった。
練習を再開しよう。
ほんの少しだけ、加奈は自分の話をしてくれた。
加奈は中学の時いじめられていたらしい。
小学校の時は仲の良かった子たちが突然手のひらを返すように冷たくなって、
それ以来、誰も信じられなくなって、
自分の存在価値が分からなくなって。
祥子の姿が、加奈に重なった。
いじめられた子は自信を無くして、余計いじめられやすくなる。
その悪循環を終わらせるには、周りがどうにかするしかない。
私の知らない誰か、どうか祥子を助けてあげて。
私は、加奈を助けて見せるから。絶対に助けるから。
だから、お願い。
最近、加奈の下駄箱に画鋲が入っていた。
加奈の教科書にいたずら書きがされていた。
加奈の机がカッターナイフで彫られていた。
トイレの一室の壁に藁人形が描かれていた。
K・Wと書いてあって、加奈と同じポニーテール。
真ん中に本物の釘が打ち込まれている。
強い悪意を、私は感じ始めていた。