狂気がヤバそうなんだが
数日後に文化祭があった。俺は部活の出店にこき使われて碌に祭を見て回れなかった。まあ、一年生かつ剣道部。上下関係と云う言葉がどれだけ便利で都合の良い言葉なのか身を持って教えてくれた先輩達に感謝し、二度と敬意を払わない事にした。
どのぐらいの使われ方かというと、昼飯すら買いに行けないレベル。仕方ないので、同じ様に部活の出店で働いていた猫に頼んで飯は食った。猫の部活は出前販売もしていたので助かった。
猫の部活は例のゲームを貸してくれる先輩と同じ部活なので、日頃のお礼に御布施、と。
ちなみに出店の売り上げは材料費を除いて丸々部費に充てられるらしい。
出店で客寄せ売り子として笑顔で働く猫を見るのは何故か心が暖まり、俺まで嬉しい気分になる。猫は見た目は良いので男子生徒が寄ってくるのだけが少し気に食わなかったが。
文化祭終了後は打ち上げと云う事で、猫と亀と俺の三人でファミレスに行った。
初めて蝸牛を食べたのも今では懐かしい。
文化祭中、猫と俺が楽しげに話すのを見てか、日頃俺に話し掛けもしないクラスメイトに後日質問攻めに遭った。勿論いつもの様に適当に誤魔化してその場を凌いだが。
○
それから十日程後の事だ。
「亀、お前今日暇か?」
「ん? 暇だけどどうした?」
「いや、なんでもねぇ」
その日は蠍が朝からずっと挙動不審だった。朝食を食ってる間もずっと地に足が着いていない。猫のほうを一度覗き見ては、小児が隠し事をする様に別の場所へと視線を向ける。視線を不自然に動かしているが、誰かを探しているというわけでもなさそうだ。それにしては蠍の目の焦点は食堂の入り口よりも遥かに遠い。
口に朝食を運ぶ手は止めぬまま俺は学校の俯瞰図を即座に頭に思い浮かべた。今居る場所と俯瞰図から推測するに、おそらく目線の先には体育館があるはずだ。近くには弓道場と武道場もある。
警戒して於いた方がいいかもしれない。
何かは分からないが嫌な予感がする。
しかし、何が起こるか分からない以上、一旦蠍を泳がせなくてはいけない。それに狐からの忠告もある。狐の言う暴走と云うのが何かは分かりかねるが、その暴走が理性の枷が外れる事を意味する場合、何が起こるかは二、三通りに絞られる。そのどれもが猫にとってはバッドシナリオだ。
俺は今日一日この二人を監視することにした。
でも現実はそう甘くない。俺は授業後に担任から放課後の呼び出しを喰らってしまった。多分は成績についての話。日頃の成績不振が裏目に出てしまった。日付を変えてくれる様に頼み込んでみたが変更は許されなかった。
今更自分の勉強関係の頭の悪さを嘆いてもどうしようもない。俺は四時半以降の行動を制限されてしまった形になる。部活が何らかの事情で無くなっていた事だけが不幸中の幸いだ。成績が悪くて欠席するなんて言った日には顧問からとんでもない目に遭わされる。
せめて時間ギリギリまでは粘って監視しようと、俺は授業後に狐と道の上で駄弁っていた。
このポイントは、寮と寮を繋ぐ連絡通路の様な場所で、蠍に動きがあればすぐに気付く事が出来る。
俺は狐に担任から呼び出しを喰らった事やその他日頃の恨み辛みを愚痴りながら、俺は蠍の動きを見張っていた。十分位待っただろうか。
蠍が寮から出てきた。その手には何故か大きなタオルが握られている。バスタオルくらいの大きさのタオルを握り締め、辺りを見回す姿は空き家を探す不審者の様。
「狐、俺そろそろ行くわ。担任が御指名なんでな」
「まあ精精頑張って来い。っても俺も蛇の事笑える身分じゃないんだけどよ」
まったくお互い様様だよななんて笑いあってから狐と別れ、俺は蠍の追跡を開始した。担任からの呼び出しまでは、後十五分程の猶予がある。
蠍は誰かを待っている素振りだったが、やがて小走りに寄って来た猫と二、三言話し、例の体育館の方角を指差した。それから蠍は周囲の目を気にしながら猫の手を取ってその方角へと歩き出してしまう。辺りを窺う時に俺の方へも顔を向けたが、そのまま素通りしていた。どうやら俺の隠遁技術は廃れていないらしい。
俺は気配を殺してその後を附けた。
目的地はやっぱり体育館。正確にはその近くの武道場らしい。
俺ももう少し追跡していたいが、生憎もう時間が無い。亀に続きは任せようと、俺は電話をかけた。
そうしている間にも二人は更に武道場へと近づいていき、その裏へと入っていった。不審がって近付かない猫を、蠍は武道場の裏から手だけで招く。
武道場の裏手は背の高い草木が生い茂り、後ろを通る道路からの視線は届かない。正面からは言わずもがな。よって完全なる死角。
猫と蠍、謎のタオル、死角。なにより、狐の言っていた暴走というのを考えると……。どうにも拙い事になりそうだ。
『どうした?』
漸く亀が電話に応えた。俺は少し早口で亀に用件を伝える。
「蛇だ。さっそくで悪いんだが武道場まで来てほしい」
『急に何だってんだ』
「蠍と猫が一緒に武道場の裏へと入っていきました。その手には一枚の大きなタオルが握られています。さてさて、そこで何が始まるでしょう!?」
興奮気味に亀を煽る俺の声に、亀の顔が青褪めていくのが電話越しにも分かる。
武道場の裏から物音一つ話し声一つ聞こえないのが俺の緊張を嫌でも高める。
『……おい、まさか』
「多分そのまさかだ。アイツら太陽が昇ってる内からおっ始めるつもりらしい。俺は生憎担任から呼び出し喰らっててな。亀、頼むぜい? 猫が昔の事フラッシュバックしたりして壊れちまったら笑い話にもならねえ」
俺は返事は待たずに電話を切った。
今日一日亀が暇な事は朝飯の時に既に訊ねてある。多分来てくれるだろう。
「こういうのは付き合いの長い亀のほうがいいんだろうな」
悲しい事にね。
俺は後ろ髪を引かれる思いでその場を立ち去った。
○
「うっはー。長かった……」
担任の小言は二十分程にまで及び、俺は漸く解放された。
俺の為を思って言ってくれているのは理解出来るのだが、嫌な物は嫌なのだ。
亀に現状を確認しようと電話を取り出し、数文字を画面に打ち込んだ所で後ろから狂った様に走る足音が聞こえた。その音の主は俺を避けようともせずに音を立ててぶつかる。ソイツは一度バランスを崩したものの、そのまま走り去ろうとする。背格好から推測するに犯人は女子だ。
「っ……おいおい」
手刀でも切って軽くでも謝罪してくれれば何も思う事は無いが、当て逃げされるのは腹が立つ。
俺は当て逃げ犯の左腕を掴む。ソイツは短く甲高い声で叫んで、空気の抜けた風船のように地面に座り込んだ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
その口から止め処無く溢れるのは狂った懺悔の言葉。目は完全に虚ろで、その目には何も映っていない。何より俺はこの女子を知っている。
「猫……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「……猫っ!」
「えっ……あ……な、凪?」
心臓が徐々に石に変わっていく様な冷たい感情とは逆に、俺の口からは冷静さを欠いた様な声が出る。
揺さぶりながら目を見て名前を呼ぶと、どうやら正気に戻った様だ。猫は俺の名前を呼ぶ。後ろから亀も現れた。
正気を失って走り回っていた猫を今まで追いかけていたらしい。
「亀。何があった」
「とりあえず場所を変えよう。ぶっちゃけここは人が多い」
○
俺達はいつもの石段、ではなく亀の教室へと足を運んだ。流石に授業後にまで教室に齧り付いている人間は存在せず、埃の溜まった教室の床が物悲しい。
「最初は良かったんだよ。ただ座って話してるだけだったんだ」
三人しかいない教室の中で猫は何が起きたのかを教えてくれた。
思い出すだけでも、嫌だろうに。
「段々変な雰囲気になってきて。逃げようとしたんだけど蠍が怖くて動けなかった」
窓の外の空は曇天。黒々とした雲が空を覆いつくし、今にも降り出してきそうだ。
「蠍が段々近づいてきて、私は急に彼の事を思い出した。そしたら頭が真っ白になって。次に気が付いたら目の前に凪がいた」
俺は今日の朝から蠍の動きが不自然だったを亀に教えた。亀は気が付いていなかったらしい。亀は一般人で、俺は年中人間観察しているしかないプロ中のプロだ。亀が気付かなくても不思議はない。
「そうかもな。じゃ俺用事あるから先帰るな」
亀の言葉が嘘だと云うのはすぐに分かった。用事なんて無いと言っていたのは亀本人だ。だが亀が何をしたいのかも同時に察する。好意は頂いて於くのが吉だ。
「おう、それと」
俺は教室の引き戸に右手を掛けていた亀を呼び止める。怪訝そうな顔をする亀に、ポケットに忍ばせていた物を放り投げる。それは猫から掏っておいたカッターナイフだ。腕を掴んだときに見えたのだが、猫の左手首には幾重もの紅い筋が入っていた。それが何なのかと云うのも俺は知っている。
手首自傷症候群。
刃物で自分の手首や腕などを切創する自傷行為の総称。
それを俺はアイツの手首にも見た事があった。
ピンク色の筋がアイツの柔肌に幾重にも刻まれているのを初めて見た時、俺は自分の事でもないのに何故か泣きたくなった。このままではまた同じ事を繰り返してしまう。
「今ソイツ渡したら何するか分かんねえ。時間置いてから返してやってくれ」
「分かった。じゃな」
亀は後ろ手に扉を閉めて教室から出て行った。外に据え付けられた鉄階段を降りて行く。その音が聞こえなくなると、教室は俺と猫の二人だけになった。
亀が教室を出て行ってから僅か数分後、外はバケツをひっくり返したような大雨になった。空は黒灰色一色に塗り潰され、陽の光など見える筈も無い。
猫はその雨の音を聞くと、墓場を彷徨う幽霊のようにフラフラとした足取りで教室の外へと出て行ってしまった。
慌てて追いかけたが、廊下に猫の姿は見えない。
『ははハハはハハハハ!』
愉快そうに泣き笑う声。それは土砂降りの雨の中から聞こえた。
『ハハはハハハははハははハ!!』
激しい雨の中、猫は楽しそうに。狂ったように。
愉悦此処に極まれり。されど此処には居場所など無く、庇護を求め泣き叫ぶ。
両腕を広げ。凍えそうな程冷たい雨に打たれながら。
人形の様に、いつまでもいつまでも踊り続けていた。