泣き顔がヤバそうなんだが
「お前さ、最近亀たちと一緒に居るよな」
「あー。そうかもな」
亀から猫の話を聞かされた数日後。俺は寮の同部屋と駄弁っていた。同じ部屋の奴、と云う意味で同部屋だ。
俺達寮生は大体三、四人で一つの部屋を共有して使っている。シェアハウスといえば聞こえはいいかもしれないが、プライベートな空間は確保出来ないと考えていい。実際、それで精神的な休息が取れずに退寮する奴も居ると聞いた。
今俺が話しているコイツは、実は亀のクラスメイトだったりする。
ちなみに俺と狐と亀と猫と蠍はそれぞれ別のクラスだ。その為、俺達が一堂に会する事が出来るのは、授業前と放課後から寮の門限までの数時間。実際はそこに部活を挿むので、その時間はさらに短くなる。
「で、お前誰?」
「僕は{蟻}だよ……。そろそろそのボケ止めようよ! 何か悲しくなってきたよ!?」
「安心しろ。冗談だから」
「目がマジなんですけど!?」
彼は背が小さいから蟻と名付ける。身長は160cmあるか無いかだろう。
蟻は吹奏楽部。俺は下手の横好きでピアノが弾けるので、その辺りから蟻とは仲良くなった。
後、蟻は鉄オタでもあるのだが、俺は電車にさほどの興味がない。
「しかし、こうも男ばっかりだと女に飢えるよな。彼女の一人でもつくってみたいよ」
「鏡と現実を見なさい? 君は可愛い女の子が好きでも、女の子は君を好きにはなってくれないのよ?」
「まるで男しか僕の事好きになってくれないみたいな言い草っすね! あと鏡に関してはお前に言われたくないよ!?」
「あ?」
「謝るからその竹刀から手を離してくださいお願いしますマジで」
ちなみに今現在、この部屋には俺と蟻の二人しか居ない。他の二人は連れ立って何処かへ遊びに行ってしまった。休日だし、俺と蟻みたいに寮に籠もっているのが不健全だと云うのが一般論だろう。しかし世間の一般と俺達の一般はかなり異なる。
休日に外出するなど馬鹿の所業。休日とは休む日と書く通り休む為に存在するのだ。そんな考えが一般的なのがこの学校の寮。例外を除き外出するのは食料調達員と恋人持ちだけ。
寮内に暗根の同類しか残らないからこそ、こんなバカ騒ぎが出来るのだ。
「そだ、蟻。久々に先輩の部屋で格ゲーやろうぜ。最近やってなかったし」
「テストあったからねー。蛇お前結果は?」
「惨敗」
「ごめん。もう僕何も聞かないよ……」
留年の足音が直ぐそこまで迫ってきている。
ところで、何故態々先輩の部屋までゲームをしに行くのかというと、俺達みたいな一年二年は寮内に自分用のノートパソコンを持ち込めないからだ。さらに、携帯ゲーム機の類は全学年持ち込み禁止とかいう鬼畜仕様。ちなみにだが、漫画やポスター、痛クッション等の持ち込みは可能。訳が分からない。
理由として『寮内にそのようなものを持ち込むと、友人作りの妨げとなり、健やかな寮生活を送る上での障害となりうる』というのがあるらしい。
今の時代の教師というのは”通信対戦”の言葉を御存じないと見える。
じゃあ何故三年生以上はパソコンの持ち込みが可能なのかと訊ねると、『三年生以上はレポート作成のために必要なんです』との返答を承った。
お前ら大量にノベルゲーの詰まった某先輩のパソコン見ても同じこと言えんのかよ、そう反論した俺の言葉は進級を盾に取られて封殺された。
「それはしゃーない。この寮の暗黒面というやっちゃな」
「何が、寮生の寮生による寮生のための寮生総会だよ、ふざけんな。おい、早くゲームやりに行こうぜ。ボッコボコにしてやんよ」
「そしてまさかの八つ当たりですか!? そうはさせねえ!!」
○
蟻も言っていたように、俺はなるべく亀達と、より正確には猫と一緒に居るようにしている。時たま蠍が俺の事を睨みつけてきたりするが、表面だけで微笑の仮面を被って反応してやると、ガラス一枚隔てて好物を置かれた猿の様な恨みがましい目付きで俺の事を睨みながら引っ込んでいくから面白い。
一緒に過ごす様にはしているが、無理にではない。猫から連絡が入ったらそれに応じるという、後の先を取る事を常に心掛けている。確実には支えなくてもいい。それが為に一人で前に進めなってしまっては本末転倒。その辺りの線引きは弁えているつもりだ。
しかし俺にも毎日連絡は入る。新参の筈の俺にもだ。
『凪ー。グラウンドー』
ここで言うグラウンドとは以前に俺と亀が猫の話を聞いた石段付近への呼び出しと概ね同意義。
俺は自分の顔が映る程に暗くなった窓の外を見てから、椅子に引っ掛けていた上着を羽織り、夜の運動場へと赴いた。
季節は既に十月終わり。冬とはまだ言い切れないが、少なくとも暖かくはない。そんな中意味も無く夢遊病患者の様に出歩く酔狂な輩など居る筈もない。俺は人目を憚る必要も無く、石段へと到着した。
いつもならそこには亀と猫が座り、時々蠍が湧いている。
「凪ー。こっちこっちー」
今日は石段に座っている猫の隣に誰も居なかった。これじゃあまるで猫が俺を呼び出したみたいな……。
「猫。亀は?」
「今日は居ないよ。凪だけ」
俺は人一人分の空間を空けて猫の隣に座る。 パーソナルスペースの維持の為だ。
パーソナルスペースとは、他人に近付かれると不快に感じる空間のことで、パーソナルエリアとも呼ばれる。
一般に女性よりも男性の方がこの空間は広いとされているが、文化や性格によって人それぞれ異なる。
親密な相手ほどパーソナルスペースは狭く、逆に敵視している相手に対しては広い。
更に恐ろしいのが、上手くこのパーソナルスペースを調節すれば、容易に相手の警戒を解いたり、好意を勘違いさせられてしまう所だ。それは相手が自分に対して理由の無い嫌悪を抱いている時を例外として誰にでも適応されてしまう。
俺が選んだ人一人分の距離と云うのは、近過ぎず、しかし遠過ぎない丁度良い距離として知られている。
冬特有の澄んだ空気と月の光。辺りには風の音しか聞こえない。月明かりが照らす猫の顔は、何らかの決心を含んでいるようにも見えた。
「ねえ、凪」
「ん?」
猫は俺との間を零にまで縮める。俺が止める隙もなく、俺は猫の体と密着してしまう。女の子特有の暖かさと柔らかさとが厚い服越しにも伝わってきて、無意識に体が緊張してしまう。 肩に乗った手の柔らかい感触、聞き慣れ始めた猫の声音、ほんのり香るシャンプーの匂い、そして、僅かに潤んだ目。
頑なに猫の顔のほうを向かない俺の耳へと、猫は唇を近づける。
「凪はさ……」
この距離だ。猫が唇を舌で湿らす音まではっきり聞こえてしまう。そして一文字一句確かめる様に耳元で囁かれる言葉。
「何で時々、あんなに寂しそうに、笑うの?」
猫の声から芝居が消えた。いつも亀達と一緒に居るとはとても思えないほど、孤独な声。
「寂しそうって、何がさ」
「私と亀が喋ってるときにさ、凪の顔見るとね、いつも笑ってるんだよ?寂しそうに」
俺は心中で猫の言葉を否定する。
嘘だ。そんなはずはない。確かにその様子を笑って見てはいたが、寂しそうに笑ってなんていないはずだ。昔、俺にもあんな時があったな、なんて思い出しながら見ていただけで…。
「目がね、とっても寂しそうなんだよ。目だけが別の人みたい」
猫に言われて俺は漸く自分の失態に気付いた。過去を思い出していたと云う事は、俺が自分自身に常に掛けている思い込みを意図的に解いていたという事。俺が自分の目を“自分ではない自分”と認識して隠している以上、目が元に戻ってしまうのは避けられない。
完全に油断していた。
「私の事、亀から聞いたでしょ? 私が言ってって、頼んだの。きっと凪なら逃げずに聞いてくれるって思ったから」
俺は漸く猫の方を向いた。暗がりで俺の事を見る猫の目が、少し潤んでいる事に俺は気付いてしまった。
「凪からも私を求めてよ……。必要とされてるって、思わせてよ……」
さっきまで表情のなかった猫の顔に悲壮、絶望、恐怖、あらゆる負の表情が混ざる。目には涙があふれ出し、小さな口からは嗚咽が漏れる。 いつもは悲しみなんて感情を持ち合わせていないのはないかという位明るく振舞っている猫の背中は、少し触れば壊れてしまうくらい弱々しく、赤子のように小さかった。
「ひぐっ……ぐすっ……」
泣き出してしまった猫に俺が出来る事は、 そんな猫を慰める様に、猫の頭を撫でる事だけだった。それこそいつもの亀の様に。
彼氏に裏切られ、存在理由を失ってしまった猫が求めるもの。
自分を認めてるれる存在。自分を求めてくれる存在。
自分を、愛してくれる存在。
そんな簡単なことに、俺は漸く気が付いた。
共に話をして、ご飯を食べて、一緒に笑う。
当たり前の存在を、猫は求めている。
「ごめん……」
そんな遅すぎた回答に、俺はただ謝るしかなかった。
○
その日から俺は自分から猫や亀に話しかける様になった。亀も最初は急な俺の変化を訝しんでいたが、俺と楽しそうに話す猫を見て何かを察したのだろう。特に何も言ってこなかった。
蠍にとっては殊更面白くないのだろう。無表情で飯を食べ終え、無言で猫を見ていた。
見せつける様にとは言わない程度に、僅かに体を揺すって隣に座る猫との距離を詰めると、蠍は下唇を食い千切りそうな程強く噛み締める。
「あっかわらず屑いなお前」
「全てアイツが発端。異論は認めない」
「そうだからフォローできねぇんだよなぁ」
俺は部活終了後、更衣室で狐と最近の事について話していた。勿論、猫が泣き出した場面等所々隠したりはしているが。狐も俺たちが飯を一緒に食べている所を見ていた様で、俺と猫との具合に多少驚いている様だった。
「やっぱり関わらせてよかったのかな」
「かもなー」
「でも蠍にも気を付けろよ」
狐は薄い金属製のロッカーを閉めながら言う。俺も蠍という言葉に反応して、狐に注意を向けた。
「蠍の奴、思いつめると暴走するからな。俺は蠍の友人として、蛇の友人として忠告するぜ」
「一応把握しとくよ。んじゃ、飯行きますか」