俺がヤバそうなんだが
猫の自殺未遂から、猫の態度が目に見えて変わった。尤も、それを感じられるのは俺ぐらいなものだろうけど。
猫が亀へ靡き出した。これが変化だ。
今までは俺だけが呼び出される事が多かったのだが、そこに亀が加わる様になった。俺が呼ばれて行った時には既に亀が猫の隣に居ると云う状態。俺が来てからも猫は亀から離れない。仕方が無いので猫の隣に座って音楽を聴いているだけ。
一応飯も一緒に食べてはいるのだが、どうにも疎外感を感じずにはいられない。食堂に入る前も以前は何かと俺に話しかけてくれていたのだが、今は専ら亀と話し、時々俺と二、三言会話してまた亀と談笑を再開する。
詰まる所、俺は“おまけ”へと成り下がったって事だ。
おかしいだろ? 付き合うってこう云う事なのか? 彼氏彼女って皆こう云うものなのか? あの日の告白は? それすら“嘘”だったって言うのか? 俺は特に猫を束縛していなかったが、他の男をメインに据えてくれと言った覚えも無い。俺の立場は? 俺の役目は? 告白って何だ? 好きって何だ? あの笑顔は? あの涙は? 全てが大嘘憑き。全てが“無かった事”に? 俺が悪いのか? 猫が悪いのか? 誰が悪いんだ?
頭が変になりそうで、俺は考えるのを打ち切る。暗示を掛け直して“凪”へと戻す。
この頃はずっとこんな感じだ。思考を切り替えた瞬間に激しい頭痛に襲われたりする。
「戻りたいな……」
自分で言って苦笑いする。それはドコに戻る? イツへ戻る? そもそも俺に居場所なんて何処にも無いじゃないか、いや、あった。あったんだ。それは昔のお話。過去の話。嘘吐きの法螺話。今は違う。猫の隣に居るのは俺ではないし、俺の隣には誰も居ない。
何故だろう。それでも俺は一緒に朝食を食べ、猫の隣に居続ける。
彼氏。俺には歓喜も悲哀もない。名ばかりの彼氏。こんな物ではない。俺が求めたものはこんな醜い物ではないと内心焦ってはいても、俺はただそこに存在しているだけ。
神に問う。信頼は罪なりや?
俺はそれでもまだ猫を信じていた。いつか元に戻ってきてくれるだろうと信じて表立って猫へ言ったりはしなかった。
亀の隣で楽しそうに笑う猫を見ると、俺が知らなかっただけで猫は別の男とも付き合っていて、亀は? 蠍は? いや俺の知らない相手とも? と疑惑は不審を生み、不審は疑惑を生み、だからと言ってそれを問いただす様な勇気も無く、先の様な不安と恐怖でのた打ち回る様な思いで、猫に対して卑屈に誘導尋問の様な物を試み、その結果に内心一喜一憂し、上辺は何でもないかの様に取り繕って、時々猫を人目の無い所に呼び出しては、猫の唇を好き勝手に蹂躙し、寮に戻ってから死人のように眠りに落ちる。こんな人間に俺はなってしまっていた。
それでも俺は決して手だけは出さなかった。ソレは互いに愛し合う(俺は世の中の人間にだって“愛する”事が出来るのか甚だ疑問に思い始めているが)人同士がする行為で、つまり今の俺と猫では駄目なのではないかと、俺は夜通し一人考え、その事でも頭を抱えて悩んだりしていた。
人に愛されたくても、人を愛する能力に於いては俺は致命的にまで欠けている様で、俺は“束縛してでも猫を自分の者にしたい”という心と“猫の居たい人傍へ居させてあげたい”という真逆の心に悩み、夢にさえ見て、魘されるようになった。
こんな時に、俺が昔望んだ事が、今望んでないタイミングで起きてしまう。
あの日は確か、俺が猫を拒絶する一週間前だった。
○
俺は昼飯を食い終わってから寮の自室でやる事も無く寛いでいた。今日は日曜だ。今までなら猫の呼び出しやらで何処かで駄弁ってたはずの休日。それなのにこうして暇が出来てしまう、という事が今の俺の心には少し悲しい。
そういえば最近、例の小説同好会へ提出する為の小説を書き始めた。今はその表紙絵を描いている所。
内容は、心が読める男女のお話。こう書くと平々凡々な物語だが、男には食人嗜好、女には飲血性癖がある。偶然に出逢った二人はお互いの心を読み合い、“自分の事を理解できるのはこの人だけだ”と思い、時間を共有し始める。二人は味見程度に互いを味わっていたが、暫くすると女の欲求が暴走し始める。もう離れられ無いほどに依存していた二人は命すら削り始め……。
なーんてストーリーの予定だ。
勿論、女は猫がある程度のモデルだ。命を削ってまで依存するのもあの日の自殺未遂に案を得たもの。と言いたい所だが、実際には亀へと猫が靡き始めた事への嫉妬が大きくを占めている。つまりは悲劇にする予定。いっそ猫から別れを切り出してくれればケジメも付くというものだが、猫からはまだそんな言葉を聞いていない。尤も、今の猫は俺と碌に会話してはくれないが。
「乳飲み子、か」
俺は持っていた鉛筆を机へ放り投げる。
母親の胎内に居れば問答無用で母体の栄養を奪い、そこに存在しているだけでその負担は凄まじい。出産の際には地獄のような痛みを母親へと与え、生まれ出てくれば所構わず時間も気にせずに泣き叫び、庇護を求める。
護りたいと思ったんじゃない。思わされていたのかもな、何て一人で苦笑いしてまた気分を沈め、頭の中に硝子の破片が充満しているような、そんな陰鬱な気分になる。
「いや、猫の場合は血飲み子かな」
なんて、笑うに笑えない洒落を思いついた。俺の他には誰も居ない部屋で一頻り笑ってから、何故か潤んでしまった目元を袖で拭って溜息を吐く。
手持ちのメモ帳に“血飲み子”と新たに書き加え、俺は作業を中断する。
携帯に誰かからの通知が入ったからだ。
「蠍から俺に? 珍しい事があるもんだな」
しかしもっと分からないのはその内容だった。
『猫の前で俺の話はしないでくれ』
たった一文だけ。全く意味が分からない。
詳細な説明を求めるメッセージを飛ばしてみたが、待てど暮らせど返事が無い。俺は蠍を取り敢えず無視しておく事にした。男に、まして関心も興味も無い奴に使う時間が勿体無い。
表紙絵の制作を再開しようとした所で、今度は蟻からの通知が入る。
『蛇。図書館下まで来てくれ。なるべく早くだ』
こんな風に蟻が俺を呼び出すのは珍しい。というより蟻から頼まれ事をされる事自体がまず稀だ。
つまり尋常では無いという事。嫌な予感がする。そして俺の嫌な予感というのは結構な的中率を誇る。同年代とは比べ物にならない量の不条理を、理不尽を、嘘泣きを、言い訳を、いかがわしさを、インチキを、堕落を、混雑を、偽善を、偽悪を、不幸せを、不都合を、冤罪を、流れ弾を、見苦しさを、みっともなさを、風評を、密告を、嫉妬を、格差を、裏切りを、虐待を、巻き添えを、二次被害を、吐き出す事無く全て抱え込んで押し込んだ俺の体質は、否が応でも不幸を惹き寄せて引き寄せる。
俺は上着を引っ掴み、二月の屋外へと飛び出した。
ベンチのある丘を通り過ぎ、校舎の前を横切り、図書館へと辿り着く。正しくは図書館を内蔵した建築物と言うべきだが。この建物は一階部分に多目的ホールと休憩所が、二階には図書館と新聞読者用スペースが存在している。
図書館下と言えば大体ここの休憩所の事を指す。俺は重たい硝子戸を押して中へと入った。
蟻と猫は直ぐに見つかった。長椅子に二人並んで座り、何やら話している様にも見える。いや、蟻が猫へ質問を投げかけているというほうが近いか。
「おい、蟻。一体何だってんだ?」
俺は座らないまま二人に近付き話しかけた。
「蛇。怒らないで聞けるか?」
「内容による。一応言ってみろ」
猫が慌てた様に蟻を止める。それを見て蟻は一瞬躊躇したようだったが、思い切った様に話し出した。
「蠍が猫に手ぇあげたんだ」
蠍、先のメッセージ、そして今の蟻の言葉。これを一つに繋げて考えると、少なくとも聞いていて楽しくなれるような内容では無い。
今までのストレスと思考分析で精神が限界近くに達していた俺は、蟻の言葉を聞いて、逆に冷静になった。いや、一週回って感情が消えたと言うべきかもしれない。
それこそ、猫の事を俺に話していた時の亀の様に。
「ほう。それで?」
「俺が見たのは蠍が猫と話してるとこからだ。此処で二人が会話してたから何となく見てたわけ。そしたら雰囲気が傍目に分かるぐらいに険悪になってきて、遂に蠍は猫の肩掴んで壁に叩き付けたんだ」
俺の目にはその光景がまるで手に取るようにはっきりと浮かび上がった。その映像の中の蠍は目を見開いて、神経質そうな薄い唇をわなめかせている。猫は何も言わずに蠍のされるがままだ。
「その後蠍は猫の顔を殴りつけたんだ。俺が慌てて蠍を止めに入ったら、蠍は猫を置いて逃げてった。そして今に至るってわけ」
猫はさっきからずっと左の頬のあたりを手で押さえている。壊れ物を扱う様にそっと手に触れどかしてみると、左の頬骨の辺りが赤くなっていた。
「そか、報告あんがと」
俺は再び外に出ようと扉へ振り返る。別に怒ってるわけではない。蠍とサシで話し合いをして、腕の一本ぐらい貰っても特に問題ないよな、と、妙に冷え切った頭で淡々と考えているだけ。
「蛇! 何処行くの!?」
「別に。ちょっと野暮用」
慌てた様な猫の声も今はどうとも感じない。俺の返事は自然とそっけなくなる。
「蠍を傷付けたら、別れるよ」
猫のその言葉に俺は足を止める。今何て言った?
猫を傷付けた存在すら俺には裁けない。裁く権利はお前には無いと、端的にはそんな内容であると理解するのに数秒を要した。
俺を棄ててまで加害者を守る? そんなに蠍が大事? 重要? 大切な存在?
じゃあ俺は? 俺は何でココに居る? 存在している? 居てはいけなかった? 居ては駄目だった? だめ、嘘だ。駄目、嘘だ。ダメ、嘘だ。否定、嘘だ。ヒテイ、嘘だ。ひてい、嘘だ。キョヒ、嘘だ。拒否、嘘だ。きょひ、嘘だ。拒絶、嘘だ。きょぜツ、嘘だ。キョゼツ、嘘だ。キらい、嘘だ。きらイ、嘘だ。キライ、嘘だ。きらい、嘘だ。
嫌い?
俺の手元から物を壁に叩き付けた様な鈍い音が響く。俺達の他に数名居た周囲の人間が何事かとこちらへ振り向く。猫と蟻も俺を見ている。それで漸く俺が音の原因だと気が付いた。
無意識の内に右手を壁に叩き付けたらしい。木張りの壁を殴りつけた拳を見ると、指の付け根が赤くなっている。一箇所切れて血が出ているみたいだった。
「ねぇ」
「蛇」
二人が俺を呼ぶ。これは笑えない。何より、無意識の内に壁に拳を叩き付け、切れて血の出ている自分の拳を他人事の様に眺めている自分が居る事が最高に笑えない。
「俺、帰るわ」
もう、限界なのかもしれない。
○
寮への帰り道、俺は左手だけをポケットに突っ込んで歩いていた。
履き潰した白いスニーカーの踵を引き摺り、右腕だけを揺らして進む。
右手から細く流れる血が灰色の石畳へ時々落ちる。それでも先より勢いは大分収まっている。瘡蓋が出来初めているんだろう。どうでもいい。
何処からか口笛が聞こえる。誰も聞く人居ない口笛は溶ける様に空へと消えていく。俺は知らず知らずの内に口笛を吹いていた。
子供の頃に誰もが一度は聞いた事があるであろうあの旋律。ハ長調のはずのその曲が、今の俺には自然と短調に変わる。
愛も勇気も友達では無い。正義なんて人それぞれ全くの別物だ。
「何の為に生まれて、何をして生きるのか?」
俺はその疑問に答えられなかった。




