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未練がヤバそうなんだが

 寮に戻った俺は上着を椅子に引っ掛けてベッドへと転がり込んだ。さっき鏡で見たが、泣き腫らした目は何とか元に戻っていた。

 ……さて、と。

 再び先程の醜態を思い出した所で、妙に体が震えてくる。

 誰も居ない部屋の中で奇声を上げながら家中を走り回りたい気持ちだ。そうでもしないと、この羞恥と驚愕と安心を()り潰して丸薬にした様な変な気分は治りそうにない。

 布団を頭まで被ったままベッドの中を転げ回ったり、死に掛けの芋虫の様に痙攣していると、蟻がどっかから帰ってきた。

 ベッドの上でビクビク震えている俺を見て何を思ったか、蟻が俺に声を掛ける。


「……そういうのは夜やれよな」

「ちょっと待て蟻お前は何かを誤解しているぜ」


 俺は立ち上がり、蟻へと詰め寄る。取り敢えずいつもの濁った目へと切り替え、心を安定させる。

 目を元に戻した事で急激に目付きが悪くなった俺に「冗談だってば」などと言いながら蟻は露骨に話を逸らした。有り難いので俺もそれに乗っかる。


「そういえば今日、雨の中二人で喋ってるカップル見たよ。顔よく見えなかったし気まずかったしで走って通ったけどさ」


 乗っかろうとしたが取り止めた。十中八九それは俺と猫だ。確かに雨の中を駆けて行く人影を見たが、まさか蟻だとは思っていなかった。

 額に手を当て大袈裟に溜息を吐く。そのまま首をゆっくりと左右に振り、指の隙間から蟻を睨み付けると、蟻は大体の事情を察した様だった。


「……っは!? まさか」


 この後蟻は固く口止めした。



 猫は以前みたいに俺に甘えてくる様になった。

 一緒に朝飯を食べて、部活が終わったら逢って話す。人が居なかったらキスしたり。ベンチの上で押し倒されて唇を奪われたなんて事もあった。

 確かこの辺りで猫がクッキーとカップケーキを作ってくれた。

 黒のカップケーキには白のシュガーパウダーが掛けてあって、フワフワで美味しかった。緑と茶色のクッキーはちょっと固めの一口サイズで俺好み。適当な菓子から脱酸素剤を引き抜いて一緒に袋に入れて、三日位ずっと間食代わりに食べていた。

 お礼と云う事でクッキーとカップケーキの絵を本気で描いた。その紙をプレゼントとして猫にあげたら凄く喜んでた。部屋に飾るんだ! とか言っていた。今となってはもう棄てられてしまっているだろうけれども。

 猫の精神面は冬休みの間に、結構悪化していた。手首自傷症候群(リストカット)は相変わらず直っていなかった。口に舌入れたときに妙な味がしたから聞いてみたら「血を飲むと落ち着くんだ」とか言っていた。流石にその発言には悪寒がした。まず行動が普通に頭おかしい。それに貧血になれば免疫も落ちてくるだろうし、ホルモンバランスが乱れてますます精神は安定しなくなる。

 猫の内面に関してはゆっくり直していこうと思う。妨害が入らなければ半年ぐらいで直ると思っていた。

 そう、思っていただけ。現実と云うのはそう簡単にはいかなかった。

 

 妨害が、入ってしまった。



 二月になった。下界(寮の外の世界の事。ここでは一般の男女共学校を指す)は何処も彼処もバレンタインムード一色に染まり、健全な工業系高校生には冬の寒さより辛い季節が到来した。

 吐き出す息は筋雲の様に白く染まり、一月の時よりも冷たい風が吹く。それに合わせて枯れ切った茶色の木の葉が巻き上がるのは、二月特有の哀愁を感じさせる。

 俺はこの時既に猫へと俺の過去を話していた。最初は驚いていたが、俺が話し終わってから「教えてくれてありがと」と言ってくれた。俺が“そのうち話すよ”と言った事を覚えていたらしい。

 そんな事があってから二月二日になった。

 俺は猫と、今日は亀も一緒に売店へ来ていた。

 俺達の学校には売店がある。教務や事務が働いている建物の二階にあって、そこまで大きくはない。コンビニ一つ分と言ったところか。売店の近くには買い食い用の長椅子があって、俺達はそこへ腰掛けている。

 この日は休日で、売店は開いていない。休日に売店が開いていない事は寮生なら既に誰もが知っている。開いていない売店に来る人は居ない。黒い革張りの椅子には俺達三人しか座っていなかった。

 俺は猫に肩を貸して、適当な音楽を聴いている。猫は俺に頭を預けて、携帯でゲームをしている。亀はそんな俺と雑談。内容を忘れてる事から考えて、どうでもいい内容だったんだろう。

 だらだらと過ごすだけ。永遠に変化の起こらない空間。そんなものが存在するはずはない。悲劇は一つの電子音と共に現れた。


 猫の携帯へとメッセージが届く。差出人のアイコンを見た猫は慌てた様にゲームを消して、メッセージを読み始めた。

 俺はそんな猫の急激な変化が気になって、聴いていた音楽を止める。猫の頭が邪魔でメッセージの内容までは覗けない。

 ちょっとして読み終えたらしい猫から



『イカナキャ』



 という()が聞こえた。あの日、雨の中踊り狂った猫の笑いと同じ音。

 俺が猫の狂気が再燃するのを感じたその時には、既に猫は階段目掛けて走り出していた。

 俺は慌てて立ち上がって追おうとする。隣で亀も動く気配を感じ、俺は亀へと言葉を叩きつける。


「亀は荷物の見張りと猫のメッセージの確認! 俺が行くから!!」


 それだけを短く言って俺は猫を追いかけた。


 拙い マズイ まずい。

 走りながらも俺は考える。

 幸いにも今は夜だ。周りが静かなお陰で猫の足音が良く聞こえる。音の方角から察するに、おそらく目的地は学校の校舎。

 豹変したようにメッセージを読み出した猫。その後の“イカナキャ”という言葉。

 その通知は俺の知らないアイコンからの物だった。

 “行かなきゃ”なら何かしらの荷物は持っていくだろう。最低でも携帯ぐらいは持っていくはずだ。しかし猫はそれすらも置いてきている。

 となると……。


 俺は猫へと追いついた。半ば無意識なのか少し覚束無(おぼつかな)いとした足取りで、それでも走って何処かへ向かっている。

 一つ目の校舎を素通りし、二つ目も同じ。三つ目の校舎が近づいた所で猫は左へと折れた。

 俺は一旦猫を泳がせることにした。今捕まえてしまってもいいが、口が固くなってしまう。「ただ散歩したくなっただけだよ」なんて言い逃れされたらどうしようもない。証拠が何も無いからだ。

 でも何か決定的な行動を起こした後ならば。


 猫はどうやら亀の教室へと向かうらしい。猫が進む校舎には亀達の使う教室がある。猫はそこへ続く剥き出しの鉄階段を音を立てて上がって行く。

 この校舎の二階に亀の教室はあるのだが、猫は二階には脇目も振らずに三階へと登る。俺は予想が外れた事にちょっと吃驚しながら猫を追跡を継続する。猫が一直線に辿り着いたのは最上階の三階だ。ここまで来て俺は漸く猫の目的が分かってしまった。何をするのか分かって、何でするのか分からなかった。


 そこで俺が何を見たと思う?


 俺が三階に辿り着いた時、猫は落下防止用のコンクリ製の塀を乗り越えようと()じ登っていた。人の胸位まである塀を、猫の柔肌を擦過傷(さっかしょう)だらけにしながらを攀じ登って、流石に散歩で済ますのは無理がありすぎる。そして、それを乗り越えた先に床があるはずも無い。ここは仮にも三階だ。打ち所が悪ければ最悪猫は死ぬ。虫を踏み殺すよりも呆気無く猫の命は事切れる。

 あまりにも現実離れした光景に目を疑う。頭が真っ白になりかけるが、それでも体は半自動的に動いてくれていた。


「猫!!」


 俺は猫の左腕を掴んで手前へ引き寄せた。猫は意識が無いのか、泥の詰まった袋のように引き摺られながら引っ張られる。八割ぐらいを手繰り寄せた所で、猫に力が入り始める。まるで男みたいに強烈な力に、俺は一瞬手を離しそうになる。そこまでして死にたいのかと憤怒と憐憫(れんびん)が胸中に業火の如く沸き起こる。それでも手だけは決して離さない。ここで俺が手を離してしまったら、文字通りに猫の命は【終了】だ。いつでもやり直しの効くゲームとは訳が違う。

 俺はこの間もずっと猫の名前を呼び続けている。それでも猫は俺の声が聞こえていないかの様に、ただひたすら塀を乗り越えその向こう側へ行こうとする。


「……ったくよぉ!!」


 俺は掴んでいた腕を半ば無理矢理猫の背中へ回し、腕を固めて関節を()める。女に暴力で対応したのはこの時が最初かもしれない。それ程に俺は必死だった。

 腕に走る痛みに我に返ったのか、猫は(ようや)く大人しくなった。糸の切れた操り人形のようにだらりと俺の胸へ倒れこむ。

 俺は取り敢えず猫を壁に預けるようにして座らせた。俺もその隣へ腰掛ける。

 猫の腕を掴んだ左手は離せなかった。


「猫、話してくれ。何なんだ?」


 猫は答えない。カメラの様に無機質な瞳が、瞬きをしながら俺の顔を見る。


「私、何でこんな場所に居るの?」


 本当に猫は分かっていないらしい。少なくとも俺の目から見て今の猫は嘘を吐いている様には見えなかった。


「言ったら話せ」


 俺は断定口調で前置きしてから、先ほほ程の猫のありのままを話した。首を振り信じてないような猫の袖を捲らせると、猫の左腕には赤くなった俺の手形が残っていた。

 ここまでして猫は俺の話を信じたらしい。自分の記憶をゆっくりと辿っていき、突如悲鳴を上げた。

 猫は俺へと跳び付いた。俺の肩の辺りを千切れそうな程強く握ってガタガタと震えている。歯の根も合っていない。カチカチと歯と歯がぶつかる音が、耳元に寄せられた猫の口から止まる事なく響いている。

 俺は猫の背中へと手を回して、猫を落ち着かせる為に優しく撫でる。


「彼が、彼が」


 その“彼”が俺を指す言葉でないことは直ぐに分かった。昔、猫の体と心を傷付けて逃げた。そんな男の事だろう。

 氷の様に冷たい風が吹く。凍える木枯らしが(ほとん)ど葉を失った落葉樹を通り抜け、僅かに残っていた木の葉を完全に吹き飛ばす。

 猫は俺の服をぎゅっと握り直して言った。


「彼が、自殺したって」

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