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翌日、メガネ女は俺の前に一度も姿を見せなかった。
あれだけひどいことを言ったのだから当然か。
それにどうせ俺は、来週にはアメリカだ。これで良かったのだと自分に言い聞かせた。
だけどその日は一日、なんだかずっと落ち着かなかった。
あの何かと騒がしいメガネ女がいないのだから、本当なら気楽なはずなのに。
なにより頭痛が治らない。
「――高宮テメエ、昨日はよくもやってくれたな」
学校の帰り道、十人ほどの男子生徒に囲まれた。
もしかして昨日の仕返しってやつか? 不良漫画の読み過ぎなんだよ。
「痛い目に遭いたくなきゃ土下座しろや氷の王子様」
「なんで俺がお前らに謝らなきゃいけねえんだよ」
「俺の女に手ェ出しただろーが!」
「出してねーよ。大方お前の女が勝手に俺に惚れただけだろ」
「……なんだとッ! ぶっ殺してやる!」
俺もむしゃくしゃしてんだちょうどいい。
とりあえず一番近くにいる男子の腹に蹴りをぶち込んだその時、
「――ここは私に任せて下さい!」
後ろを振り返ってみれば、メガネ女が立っていた。
「……お前、なにやって……」
「高宮家の従者がパワーアップして戻ってきましたよ! さあお逃げ下さい王子!」
「いやいや、お前の方が危な……」
「高宮の女が来たぞ! 好都合だ女を捕まえろ!」
男の一人がメガネ女の腕をつかんだ。メガネ女はギロリと男を睨みつけて、
「無礼者手を離せい! この紋所が目に入らぬか!」
小さな黒い物を男子に大量に投げつけた。無数の黒い物体が男子生徒達の髪や制服に付着する。よく見てみるとそれは……
「――ぎゃああああああああああッ!!」
男子全員が悲鳴を上げて、一目散に逃げて行った。
どんな屈強な男性でもおそらくこうなるだろう。
メガネ女が投げつけたのは、夏の風物詩の、黒い、油ギッシュな、虫の、つまりアレだ。
「――王子、お怪我はありませんか?」
転がるようにして逃げて行く男子どもの後ろ姿を見送っていたら、メガネ女がにこりと微笑みかけてきた。
「服に砂がついてますよ王子。掃って差し上げますね」
「……今のアレだよな、オモチャか何かだよな?」
「やだなあ王子、そんな心配そうな顔しなくても大丈夫です。アレは標本ですよ」
「ひょう……」
「あれ、どうしたんですか王子、なぜそんなに距離を取るんですか?」
「ちょ、あんま近づくな」
「えーなんでですか」
ひどいなーと言ってメガネ女が口を尖らせる。
あまりにもいつも通り過ぎるノリに、俺はぼんやりとメガネ女の顔を見つめた。
「どうしました王子、私の顔に何かついてますか?」
「いや……だって、今日一日ずっと見なかったし……」
「王子をお守りするために必殺技の特訓をしてたんですよ。早速実践することが出来て良かったです」
「ああそう……」
「ところで王子、今日はお別れを言いに来たんです」
メガネ女が俺を見つめて柔らかく微笑む。
心臓がドキリと鳴った。
「――お別れ?」
「はい。実は私は、現世の人間ではないのです」
「はあ?」
「私は、今から百年ほど前の高宮家にお仕えする従者でした。しかし主を守るという使命を果たせず、志半ばで生涯を終えました。その使命を今こそ全うするため、こうして女子高生の姿を借りて恭一様にお仕えしたのです」
メガネの奥の澄んだ瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。
「王子をお守りすることが出来て良かった。使命を果たせたので、これでお別れです……」
そう言ってメガネ女は静かに目を閉じた。
「……という設定の主従本を今度のコミケで出す予定なんですよ」
「全部お前の妄想かいッ!! 今ちょっと信じかけたじゃねえかッ!!」
「え、マジですか。王子って案外騙されやすいタイプなんですねあはははは」
腹が立ったのでメガネ女の脳天に思い切り手刀を喰らわせてやった。
痛いですひどいです暴力反対! と喚くメガネ女の顔が滑稽で、俺は思わず噴き出して笑った。
「――あ、いいですね。王子は笑った方が素敵です」
笑顔の方がお友達もたくさん出来ますよ、と言ってメガネ女は去って行った。
気づけば俺の頭の痛みは消えていた。
次の日から、メガネ女はいなくなった。
教室にも、廊下にも、校庭にも、食堂にもどこにもいない。
よく考えてみれば俺は、メガネ女の名前を知らない。クラスも知らない。
〝実は私は、現世の人間ではないのです〟
胸の奥がざわりとした。
落ち着け俺、あれはあいつの冗談だったんだ。
きっと風邪でもひいて欠席してるんだ。いつか会えるだろう。
しかし次の日も、その次の日も、メガネ女は見つからなかった。
意味もなく、他の教室を覗いて探してみたりもした。
朝の始業ギリギリまで校門前で待ち伏せてもみた。
それでも、メガネ女には会えなかった。
そうこうしているうちに、俺がアメリカに経つ日がやってきてしまった。
「――ちょっと聞きたいんだけど!」
俺が必死で腕をつかんだものだから相手がドン引きしていた。
今日が最後の登校日。食堂で偶然見つけたのは、アリサがどうのと言って俺にイチャモンつけてきた、あの女三人組だ。
「あの時の、お前らにアバズレとか、紙吹雪とかやった、あのメガネ女、あいつどこのクラスか知ってる?!」
「し、知らない、です……」
やっぱりそうか。
俺はがっくりと項垂れた。
誰に聞いても、みんなそう答える。
色んな生徒に聞いて回ったが、メガネ女の名前とクラスを知ってる奴は一人もいなかった。教師に聞いても首を傾げるばかりだった。
「……もしかしたら、あの子かも」
三人のうちの一人が、おずおずと口を開いた。
「D組の、立花真知子じゃないかな。あんまり登校してこないから顔覚えてなかったけど……」
立花真知子。
初めて名前が分かった。
俺の中から、何かが強くこみ上げてきた。
「――ありがとう!」
お礼を言うと、女三人は驚いた顔をした。
それも、頬を真っ赤に染めて。
俺は何か変なことを言ったのだろうか。
午後七時。本当なら飛行機に乗っているはずの時間だ。
繁華街の人気のない路地裏で、ケータイでオヤジに電話をかけた。
「――もしもし。俺だけど。アメリカ行くのやめるわ」
受話器の向こうでオヤジはしばらく黙った後、「やりたいことでも見つけたか?」と静かに訊ねてきた。
「うん。どうしても観たい芝居があるんだ」
それだけ告げると、俺は電話を切った。
パイプ椅子で百席未満の、小さな劇場。
その座席の一つに俺も座った。小規模ながらも客の入りは上々のようだ。
――ここで今から始まる舞台の主演女優の名は、立花真知子。
ネットで調べてみると、立花真知子は有名女優と映画監督の娘。そんな奴がなぜこんな小さな劇団で活動しているのだろうか。
しかしその謎は芝居が始まってすぐに解けた。
物語の設定は十世紀のイギリス。自分が女であることを隠し、最強の騎士として活躍するヒロインを演じるのが立花真知子だ。
舞台の上でスポットライトを浴びる立花真知子は当然メガネでもおさげ髪でもなかった。
それどころか全身から光のオーラを放ち、声が、動きが、観客の心を瞬く間に虜にしていった。
実在する人物ではないのに、彼女が笑う度、怒る度に、確かにそこに「生きている」と感じさせた。あっという間にここは日本の東京ではなく千年前の英国となった。
こんなこと、一朝一夕で出来るはずがない。光り輝く立花真知子から、芝居に対する情熱と執念がメラメラと湧き上がっているように見えた。
よく分かったよ。
試したいんだな。
自分の力でつかみ取りたいんだな。
親の七光りではなく、自分の力で自分の世界を作り上げたいんだな。
俺とはまるで大違いだ。
全てをあきらめてしまっている俺とは、大違いだ。
こいつには到底、敵いそうもない。
とんでもないヤツだ、こいつは。
「――はは、ははは……」
舞台を観ながら、俺は笑っていた。
王子を守るため、ヒロイン自らが盾となり命尽きて行くシーンで俺は笑っていた。
――全部これのためだったんだ。
この舞台の役作りのために、メガネ女は俺に近づいたんだ。
王子に仕える従者の練習をしていたんだ。
俺は踏み台にされていたんだ。
俺は練習台だったんだ。
だけど何だろう、どうしたというのだろう。
今まで味わったことのない、この愉快な気分は何だろう。
こんなすがすがしい気持ちになったのは生まれて初めてだ。
「――赤いバラを百本ください」
舞台が終わった後、劇場のすぐ近くの花屋でバラの花束を購入した。
どでかい花束を抱えて、あいつが劇場から出てくるのを待ち伏せる。
もうすぐ、あの扉からメガネ女が出てくる。
この花束を見てお前はどんなマヌケ面をするだろうか。
想像するだけでワクワクした。
言いたいことがたくさんある。
一体どれから話そうか。
「――やあ、千秋楽おめでとう看板女優殿」
劇場から出てきたメガネ女は驚くなんてものじゃなかった。
俺の姿を見るなり、「あ、王子、え、嘘、なんでバラ、いや、あのこれは……」と口をぱくぱくさせている。おまけに耳まで真っ赤にさせて。つい今しがた舞台の上で大立ち回りをしていた女騎士と同一人物とは思えない。
俺はな、こう見えて負けず嫌いなんだよ。
他人を踏み台にすることはあっても、されたことはないんだよ。
やられた分はキッチリやり返す主義なんだよ。
お前は俺のそういうとこ全然知らないだろう。
これから嫌と言うほど思い知らせてやる。
大体なんだよあの王子役の俳優は。
俺より身長低いし足短いし。
絶対俺の方が王子様だろーがよく見てみろ。
俺はプロポーズよろしくバラの花束抱えてメガネ女の前に跪いた。
ますます耳を赤くするメガネ女を見て、さらに愉快な気分になった。
だけどこの気持ちを何て呼ぶのか、今の俺は、まだ知らない。
第1話「突然の出会い」end