9. 翌日
目を覚まし、柚希は高く純白な天井を見上げる。
前日、連れて来られたまま周囲をぼんやりと確認するだけで眠りに落ちてしまった。そのため見慣れぬ部屋に一瞬驚くが、すぐに自分の置かれた状況を思い出す。保護後に事務手続きが済まぬまま、関係者のリリによって連れだされ彼女の自室で休むことになったのだ。
だがこの瞬間、部屋の主の姿はそこにない。柚希に関わる何らかの話し合いの最中か、あるいはまだ揉めているのかは不明だが、どちらにせよそちらに呼ばれているののに違いない。
すぐの説明は無理にせよ、いずれ柚希に何らかの話をしてくれるはずだ。それまでこの部屋で時間をつぶすのが、今の彼女のするべきことなのだろう。
目覚めたばかりの少し濁った意識の中で、とりあえず部屋の様子を観察する。
ありきたりな表現だけれど目に入るのは柚希にとっては馴染みのない異国の光景だ。辺りに置かれるインテリアは高価そうなアンティークな家具がほとんどである。一般的な日本家屋や、学生向けのアパートではありえない。
海外で管理費の嵩んだ昔の豪邸を買い取りホテルに転用する話を聞くが、そういう話題で登場するような建物を思わせる間取りである。前日に入室した時の記憶では、入口側が仕事用の書き物机と本棚が置かれ書斎となっており、奥は生活スペースでベッドルームとバスルーム。その気になれば部屋から一歩も出ずに仕事と休息を繰り返す生活も出来るかもしれない。
しかし設備が一通り揃っているとはいえ、部屋自体は小さい。置かれている調度はそれなりに高級そうであるが、無駄なものはなく官舎という印象だ。廊下を歩いていた時に同じような扉がいくつか並んでいたのを覚えていたため、おそらくこの部屋と同じ間取りのものが並んでいるのだと推測した。
異世界だが部屋の様子から、生活そのものに戸惑うようなことは無さそうである。電化製品はないらしいけれど、文明レベルは低くない。
もう少し観察をと周囲を見渡す。ベッド脇の椅子の上にには紺色の服が置かれている。確かめてみると、前日何人かの人物が着ていた制服と同じものだと気づいた。
置かれている位置から自分の着替えのために用意されているものと判断し、柚希は紺色の制服を手に取る。袖を通すと昨日の間に合わせの服と違い、丈の長さはぴったりであった。制服だけに多分サイズが何種類も用意してあったのだろう。その中から彼女に合いそうな物を選んできたに違いない。
その事実から制服を大量に用意する必要のある社会なのだと判断した。
よくあるヨーロッパ風の世界なのだろうが、時代は中世というよりは近世といった感じだろうか。制服を必要とする組織があるのだから特権階級のうちの能力のある人材が適材適所を埋めるというよりは、何らかの形で適当な人材を選抜し官僚として雇っている政治形態なのだと思う。
無闇に書類という言葉を耳にするのもそのためだろう。置き換えの利く官僚が入れ替わっても途中の命令が抜けてしまわぬように書類という実体を伴うものを置いておく。官僚の数が多ければつなぐための間隙も多い。必然的に書類の数は爆発的に増えていく。
そうであれば柚希の事で事務手続きが途中なのは、保護の関係者にとって非常事態なのではなかろうか。書類が出来ていないせいでその後の仕事が全て止まってしまうのだから。
思い起こせば、昨日済ませたことは自分の名前を紙に書いて読み仮名をつけただけである。途中どころの騒ぎではない、何もしてないのと同様だ。
少しずつ思考の材料を集めてゆく。
ベッドサイドテーブルに紙の覆いがかかった何か。
覆いを取り除けると茶器とビスケットのような焼き菓子が数枚。軽食なのだろう。食べ物が置いてあるのを見て急に空腹を感じる。遠慮無く口にすることにする。
疲れていて味覚が鈍くなっているのかほとんど味が分からなかった。茶の方はすっかり冷めていたが、ハーブティー的なしっかりとした香りを感じる。紅茶や緑茶と同じ植物の茶葉ではないが、十分に美味しいと感じた。
そうやって空腹を満たし、茶を飲むうちに頭がすっきりとしてくる。
頭が働き出すと同時に考えるのは、やはり今の状況とこれから先のことであった。
昨日の会話から分かっていることは柚希が違法召喚の被害者だということ。そのためにここへと連れて来られたが、保護をしている組織の実体はよく分からない。事務手続きの途中で関係者の意見が割れて、その後の諸々が中途になってしまったからだ。
だが事務手続きにルールがあるらしいことは読み取れた。ルールが存在するのは、それを業務とする組織が何らかの大義名分を掲げる必要が有ることを示している。この場合には人権や動物愛護といったところであろうか。
また、この組織が法律に基づいて召喚生物を保護・管理するということは、法律が必要になるぐらいは事例が多いということだろう。高額当選の宝くじを自分が手にする確立は非常に低くても毎回当たる人間がどこか自分のあずかり知らぬ所に必ず存在するのと同じで、自分にとっては青天の霹靂であろうと彼らにとっては日常なのだ。
柚希以前にもやはり召喚されて帰還が困難という事例は何度も起こったに違いない。その度毎に被害者たちに説明し、保護の際に怒らせたり泣かせたりを繰り返してきたのだ。だからこそああも対応に気を遣い、一方で結論を急ぐような選択をしてみたりとチグハグなことになったのだろう。
そうした推論を組み立ててしまうと、柚希は非常に申し訳ない気持ちがした。確かにあの一時にはひどく動揺し我を忘れて泣いたりもしたのだけれど、落ち着いて考えれば保護されているのはきちんとした組織のようである。今のところ最低限の衣食住は保証されると考えても良い。
もしも保護されず、違法召喚を行ったという組織に身柄を押さえられていたら、説明も何も無いのではないか。召喚の目的が何にせよ、扱いは過酷なものであった可能性が高い。その点では幸運だったのだろう。
だからこそ、ここでの保護を最大限利用すべきだと結論付ける。
昨日の口論の原因は柚希が何も知らないからという前提があったからである。そのために説明の仕方を手間取りすぎて問題の二人が争うにいたったのだ。ならば彼女がある程度の考える頭を持っていて、少しぐらい難しい説明でも何とか理解できるということを示せばいいのではないか。
質問したいことを今のうちに用意しておけばいい。訳も分からぬままただ泣くよりはずっと建設的だろうし、事務手続きとやらもスムーズに進行するはずだ。自分の今後の行動をそう決めると少しだけ気持ちが楽になる。
なので目下の疑問をリストアップする。
例えば帰るための努力、リリは新しく魔法陣を作りなおせば可能性があると言っていたが、それを作るための期間がどの程度必要かは訊きたいことの一つだ。時間の目鼻がつけば待たされるにしても耐えることは出来るだろう。
出来れば考えたくはないが、帰れないと決定した後のこと。そこで自分の扱いはどう変化するのかあらかじめ知っておけば心の準備をしておける。
ともあれ見知らぬ場所に連れ去られたという状況は好ましくないものだったが、できることは意外と多そうだ。何をどうしていいのか分からないという最悪の状況よりはマシである。
まずは得られる限りの情報を集めること。そして自分の存在が危険や問題のないものであると印象付け、出来る限りのケアを獲得する。知的生物への配慮があるようだから、こちらに悪用する意志がなければそれらの望みは叶えられそうである。
できる限り物分りの良い態度を貫くこと。そうやって、この組織からどれだけのものを引き出せるのかは未知数だが、争うよりは平和的に希望が叶えられる方が心理的負担は少ないだろう。
基本方針は決まった。後は説明の際にそれを提案するばかりである。そう思い、来るべきものを待った。
時間が過ぎてゆく。
頃合いが来たら誰か来て昨日の続きをするんだと思っていたけれど、いくら待てども誰もやってこない。予想以上に揉めているのだろうか。
心配になって部屋の扉を開け、廊下の様子を伺った。長い廊下には誰もいない。
誰かを呼ぶべきか。しかし人の気配がまるで感じられず、彼女一人が忘れ去られてしまっているようだった。