5. 発見
レリスは倒れている人物の上に覆いかぶさるように様子を確認した。かすかだが呼吸に合わせて口元が動き、生きているのだと知れる。濡れた黒髪が目元を覆い、容貌は確認できない。あまり角張っていない骨格から女性だろうと感じた。一見すると普通の人間に見え、たまたまこの場所に紛れ込んで巻き込まれただけの人間にも思える。
下着のようなシャツに、青色のズボン。傍に落ちている濡れた布は羽織っていた上着を脱いだものか。風変わりな衣装にその人物が召喚魔法で呼ばれた存在であることが推測できた。簡単に全身の魔力を探ってみると、発動の気配のない静かな水面のような気配を感じる。
少し迷い、濡れた髪を額から払いのける。固く閉じられた瞼を長い睫毛が縁取っているのが見えた。反応するかと軽く頬を叩いてみると、目元でピクピクと筋肉の動き。ゆっくりと目を開く。濃い色の瞳が焦点が合わぬままレリスを見上げた。
唇が小さく動く。漏れ出るのは意味のわからぬ言語。語尾の音が上がっているのは疑問形なのか。
こういう時の魔法。
すぐに職業意識を取り戻し、レリスは新たな魔法を構築する。防御魔法に加えて、この隊に出向することになった理由の一つにもなった魔法。
それを目前の人物へと投げかける。淡い光が一瞬だけ光り、すぐに消えた。
「大丈夫?」
かけるべき言葉が思いつかず、とりあえずそう聞いてみた。
「雨は止んだの? どうして私は」
そう言って体を起こしかける。翻訳のための魔法が効いた。口元の動きと耳に感じる音の差異。間違いない、召喚に巻き込まれた人間だ。
「すぐに隊長を呼んでこないと。ここで待てる?」
「ああ、はい。大丈夫だと思います──」
言いかけたところで、小さなくしゃみの音。そういえばズブ濡れになっていたかと人物を見下ろすと、薄手の布は体に張り付き、体の線が透けて──。
レリスの視線に気づいたのか、相手の顔が赤面する。胸元をかばうように腕を体に巻き付けて、後退った。
「ごめん」
すぐに上着を脱いで投げるように渡し、急いで責任者であるベルクトの下へと走った。
渡された上着をはおり、言われたままに柚希はその場で待っていた。さすがに泥の上に直接座るのは憚られ、散らばる木片の中からあまり濡れていないものを引っ張りだし、その上に座る。
間近に雷が落ち、その衝撃で気を失ったらしいことまでは思い出せる。なのに今いる場所は屋内で、それなのに床一面に土砂が広がっている。天井は風で吹き飛ばされたように大穴が開き、日没を迎えたのかすでに空は暗くなっていた。
もっとよく周りを観察したかったが、辺りは薄暗い。つい今までその場にいた男が気を利かせて置いていったのか、仄白い光を放つ小石のような小さな光源があった。しかし光量は十分ではなく、ごくわずかな周囲は確認できるが少し離れると物品のシルエットしか確認できない。
それでも目をこらして観察すると、雨宿りしていた祠の前の小さな赤い鳥居や、周囲に咲いていたヒマワリの黄色い残骸が確認できた。それらは原型を留めぬほどに混ぜ合わされ、柚希のいる部屋の中央に小山になって積み上げられている。
何をどのようにすればこんな状況になるのか、気を失っていた間に起きたことを想像するが、どれもこれも常識の埒外だ。ようやく導き出した答えは「強風で地面ごと吹き飛ばされた」というものだが、その理由も柚希自身が無傷なのは常識的に考えづらい。
考えているうちに、身に纏う上着がだいぶ水分を吸い取っていた。素材が毛織物なのだろう、濡れたウールのセーターのような臭気がある。厚手のオリーブグリーンのコートはまるでどこかの軍隊の制服のようだ。所々に目立つ白いラインが入り、肩と襟にエンブレム。それを寄越した男が着ている時には膝丈だったが、柚希が着ると踝までの長さになった。
それにしてもさっきの男は何なのだろう。気がつくと目前に金髪に青い目の日本人らしからぬ容貌の男がいて、彼女の顔をのぞき込んでいたのだ。制服っぽい衣装を着ていたので反射的に警察や自衛隊のようなものを連想し、待てとの指示に迷うことなく「はい」と応じてしまったが、よく考えればこんなデザインの制服は柚希の記憶の中には存在しない。
寝ぼけていたからか最初何を言われたのか分からなかったが、すぐに「ごめん」と謝られた。思い出して恥ずかしさに再び一人赤面する。なぜ今日に限ってTシャツが白なのか。絶対に透けていたのだ、あれは。
無理矢理に衣服のことから意識を逸らす。だが今は例の男を待つ他にすることはない。
開いている扉の方から薄暗い廊下を見つめていると、似たようなコートの人影が何度か通り過ぎた。戻ってきたかと期待するが、通りすぎてしまいガッカリする。そんなことを何度か繰り返すうちに心細さが募ってゆく。
季節は夏のはずなのに周囲の気温はおどろくほど低い。まるで意識がない間に、勝手にどこか遠い地へと運び去られたみたいだった。濡れた身体は冷えきり、重怠く感じる。体を丸めて膝を抱えた。
泥の中にいるのだから、もしかしたら土砂崩れにでも巻き込まれたのかもしれない。見たことのない制服を着た軍人みたいな人たちがうろついているのも、海外からの支援が始まっているせいなのか。だが外国からの支援が即日送り込まれることは考えにくい。実は柚希が気づいていないだけで、意識がない期間が数日続いていたのか。
考えるにつれて混乱してくる。説明が必要だ。
待ちくたびれ、ついウトウトしてしまう。だから待っていた相手がやってきたのにも気づかなかった。
「レリス、この嬢ちゃんがそうなのか?」
頭の上から男の声がする。見上げれば上着を渡してくれた人が別の男を連れてきていた。
がっしりした体つきで年齢は四、五十歳ぐらいの男性。他の人達と同じ制服を着ている。
背の高い人間が多い中およそ170センチぐらいだろうか、あまり威圧感はない。髪の色は濃茶色で黒に近く、見慣れた色合いである。しかし顔つきは彫りの深い日本人離れしたものだ。
「こっちの喋ってる言葉わかるか?」
その人が視線の高さを合わせるように柚希の前にひざまずき、表情を窺うように顔を覗き込む。
「喋ってること?」
意味がわからない。どう答えるべきか迷っていると、レリスと呼ばれた上着の男が横から言葉を挟む。
「言語魔法はかけました。半日程度は持続するはずです」
「魔法か。最初は言葉通じなかったんだな」
偉いと思しき人はレリスへと確認する。そういえば「隊長を呼ぶ」と言っていたが、この人だろうか。
「はい」
「そうか。なら、アリオール呼んでこい。急いで報告書を書いてもらわなきゃならん」
また別の人を呼ぶらしい。しかし、何が起こっているのかわからない。
「魔法? 報告書?」
疑問が口をついて出ていたらしい。レリスを見送っていた隊長という人が振り返る。
「あー、そうか。説明しなきゃならんか。でも苦手なんだよなあ」
困り切った顔になって、頭をぽりぽりと掻いた。
「話せば長いことになるんだが」
「なに部下に書類押し付けようとしてるんですかっ!」
隊長が言いかけた瞬間、さらに別の人が現れる。金色だかオレンジ色だか判別に迷うような派手な髪色の人である。
いきなり怒鳴り、隊長の方へとずかずかと歩み寄ってくる。かなり身長が高く体格も良いため、怒りの表情と相まって柚希は緊張を感じた。
「おい、嬢ちゃんを怯えさせるな」
身を縮める柚希の様子に隊長が派手頭の人をたしなめる。そのとき初めて派手な人は彼女の存在に気づいたらしい。
「保護対象発見ですか」
「そういうこと。支局長あての報告書が必要だ」
ここに柚希がいることで何やら事務手続きが必要だということか。全体の事情を把握しきれないなりに彼女は自分の立場を類推する。だが保護とは──。
「彼女に説明は?」
「いいや、まだだ。ついでにお前がこの子に説明してくれると助かる」
どちらでもいい。早く説明をしてほしい。
だが派手な人は隊長を一喝する。
「誰かさんが書類仕事を途中で放り出したので私はとても忙しいんです。面倒ならその仕事、支局長にでも押し付けてしまえばいいでしょう?」
「ああ、そりゃ良い考えだ」
事も無げに言う隊長。
「本当にあっちに押し付けるんですか? 私は責任持ちませんけど」
呆れたように言い放ち、派手な人はどこかへ歩いて行った。
「あの、隊長」
入れ替わるようにレリスが戻ってきた。気づいた隊長は手招きで彼を呼び寄せる。
「いいところに来た。お前、説明できるか?」
「何をです?」
先程までここで交わさていた会話を知らないレリスは小首を傾げた。
「例のアレ。何だ、保護だとか管理だとかっていうアレだ」
「ええとアレですか。保護する前に説明責任というアレ」
二人して肝心なことを度忘れしたかのようにアレを連呼する。アレでは分からない、柚希は声に出さずに心の中で薄く毒を吐く。
「いざという時に使えないな、お前」
自分を棚に上げての使えない発言である。しかし相手を本気で非難している様子ではない。ただ単に困ったという表情を浮かべて腕組みをする。
その思案の様子に、説明とはそんなに難しいことなのかと訝しく思った。
しかしその瞬間、我慢できずにくしゃみが出る。冷えた身体が震える。そしてくしゃみは止まらずに二度、三度。
「忘れてた。濡れてるから風邪引くかも」
「そりゃマズい。もう、説明は後だ。この子を本部に連れてって着替えさせろ」
結局、十分な説明はここでは与えられない見通しのようである。
「ええと、書類が必要──」
「後回しだ。来賓用の部屋で風呂借りて、着替をどこかで調達しろ。その間に書類は間に合うだろ」
言いながら立ち上がる。同時に上着ごと柚希の身体を抱き上げてレリスの方へと押し付けた。
「引き継ぎを済ませたら合流する。先に支局長たちに話を通しておいてくれ」
手早く命令すると、柚希の身体を抱いたレリスの背中を押し出した。