40. 友情
彼との関係の最初の第一歩が始められない理由は柚希の経験が不足しているからというだけではない。周囲からそうなることを期待されている、そのプレッシャーが彼女の心を萎縮させるためだ。
そもそも異世界での男女交際の作法すら分からないではないか。ノヴァが『デート』という言葉をすんなり翻訳できなかったように、男女交際にまつわる諸々のルールが違っている可能性もある。携帯電話も電子メールもない世界ではアドレスの交換をして連絡を取り合うことはできない。そこは昔懐かしのラブレターというやつなのだろうか? 手書きの文章では言葉を習得する途中の彼女では想いを伝える以前に綴り間違いを量産してしまいそうだけれど。そんな誤字だらけのラブレターなんてもらう方も困るだろう。
けれど本当に必要ということになり、いざラブレターの交換ということになったのならば。自分は命じられた通りにそれを書くのだろうか? ほんの少し迷うが、今の保護下に置かれた状況を考えるに、必要だと指示されたならば結局は書いてしまうのだろうと。
だがそれも、あくまでも仮定であり、想像するのも馬鹿馬鹿しい話ではある。
とはいえ、そんな羽目に陥ったら、いっそのこと草稿段階のラブレターをメレディスにでも見せて誤字の確認でもしてもらったらどうだろう。もちろんそんな予定はさらさら無いが、もしも実行したら彼はどんな顔をして内容を添削するのだろう。依頼の図々しさに呆れるのか、渋い顔をするのか。そうした考えが浮かぶとは自分も底意地が悪いと彼女は心の中で自嘲する。
ただしラブレターなどというデリケートな代物でも、恋愛を支援者を捕らえる手段だと言い切る彼の前では一種の試験のようなものなのかもしれない。ついつい受験の頃に『記述問題はラブレターを書くみたいに丁寧な記述を』と言われていたのを思い出す。伝えたい気持ちがある、その熱意が言語の習得に有効となれば、意外と平気な顔をして誤字だらけの文章に罰点をつけて突き返してくるのかも。
声を出して話をすることを切っ掛けに精神感応的に意思疎通を果たす言語魔法と違い、文字による伝達は純粋に彼女自身の学習と経験の積み重ねが物を言う。『これはペンです』程度の文章ならば問題はない。しかし、もっと込み入ったことを伝えようとなれば、伝えたい内容に適した単語を選択し、誤解を与えないようにその並びを考えなければならないのだ。伝える中身が恋心であれ、文章作成能力を計るのに手紙以上に適切な題材はなかろう。
メレディスが彼女のことを観察の必要な珍獣と見做しているのであれば有り得る話である。彼は恋愛という人間らしい感情すらも道具だと考えているだろうから。そこから推測するに、ラブレターの添削をすることだろうと彼にとっては試験のようなものだろう。観察が必要な生物であるからこそ、彼女の内情が知れるようなものを見逃す気はないに違いない。
だが落ち着いて考え直せば、そのための語学授業じゃないかとも思う。ラブレターに限らず文字で表現する技術は必要であろう。支局周辺で大量の書類が遣り取りされているのを見る限り、大事な報告は書面を通すのが普通らしいからだ。
けれどメレディスが添削したラブレターなんて、間違ってもレリスには渡せそうにもない。何が書かれているのか、別の男がチェックした後の文章を別のもう一人に読ませる。そんな成り行きを予想しつつ、我ながら想像力が暴走気味だと自嘲していると。
「だから困ったことがあったら何でも相談……」
レリスが言いかけた声に気付いて視線を上げる。どうも自分は難しい顔をしていたらしい。眉間に皺でも寄っていたのか、首の向きが変わったと同時に顔の筋肉が強張っていることに気付いた。それを解そうと二、三度ほど瞬きをする。そして彼に返事をしようと口を開きかけた途端。
「いや、あの人に注意されたばかりだった。軽々しく言うことじゃないね。君の事情も──」
止めた言葉の先を予想した。親切ではあっても彼は気持ちばかりが先走る。おそらくはそのことを反省して口を噤んだのであろう。一度に多くを押し付けられても対処しきれない、彼女なりのペースを無視したらそうなるのが当前だ。
良かれと思って手を貸したはずなのに、行った資料探しは散々だったのだから。隠されていた猥褻雑誌を発見、驚いて積み上がった資料の山を倒壊させる羽目になった。そんなドタバタした事件は何度も起きるようなことはないと思うが、その場の思いつきだけで何かを提案されるのもかえって迷惑なことである。
「お気遣いはありがたいですけれど、私は大丈夫ですから。充分に良くしてもらっていますし」
考え込んでいる表情が相手を不安にさせるのだろうか? そう思い、無理矢理にだが口角を持ち上げる。出来上がったのは歪んだ微笑み、自分では分かっているものの嫌な表情だ。けれど周囲を心配させ続けてはいつまで経っても保護の網からは解放されない。気持ちを割り切って見上げれば慌てたような表情の彼と目が合った。
しかし、レリスは狼狽えるように後退りする。
「あの、なにか変なことでも?」
「ごめん、ちょっと驚いただけ。ようやく笑ってくれたから」
誤魔化すための作り笑いがバレてしまったのかと思ったが、そういうわけではないらしい。笑みを見せて空気が変わる、これが何を意味するのかは鈍い彼女でもさすがに気がついた。親切以上の気持ちがそこにある。分かりやす過ぎる感情表現のせいでこの瞬間、彼の気持ちは手に取るように知ることができる。恋愛経験は皆無でも、その方面の知識は若干ながらも持ち合わせているのだから。
これを手応えと言っていいのか。自分を餌に男を釣る、興味を惹かせるため魅力的な微笑みを付け加える。それこそ本気でレリスを捕らえる気になれば簡単に籠絡することは出来るだろう。だからこそ、こんな偽物の笑顔一つで惑わされる彼に対して、かえって頼りなく感じるのも確かなのだ。
都合が良い相手を捕まえるための枷、男女仲とはそんな風なものではないだろうに。だがそういうものとして割り切ることができれば、もっと楽に色恋へと気持ちを向けることが出来るのかもしれない。そして恋に溺れて馬鹿になり、ためらう気持ちすら無く元の世界への執着を捨て去る日が来るのだろうか。
胸に抜けない刺が刺さっているような小さな痛みを感じる。帰りたい望みが強すぎて、こちらで一生を終えることへの覚悟が芽生えることはない。頭では帰還不能の可能性を分かっているはずなのに、心がついていけないのだ。
しかし、それも当たり前だろう。柚希にはすでに向こうで積み上げた十九年の人生がある。それをたかだか数日の生活でひっくり返すことなど出来るはずがない。
もしもこの世界に住む誰かを好きになったとしても、たった一人の人間とあちらの世界そのものを取り替えられるほどの価値だとは思えなかった。たとえ帰還が叶わず、この世界に暮らすことが決定的になったとしたら。その時はその時で、きっと失った向こうの世界と特別な誰かとの価値の重さを比較し続けるだろうから。
そんな風に心を他所に残したまま恋などしてもいいものか。本当に好きなわけではない、ただ必要なだけ、縋り尽くのに都合の良い手だからと彼を相手に決める。そうした打算で関係を深めようとしても相手に迷惑なだけだろう。
もちろん相手の迷惑を顧みることなく、一時の感情に身を任せてしまうことはできる。属する世界が異なっていようと、持っている常識が通用しなかろうと、所詮は男と女の仲なのだから。
細かいことには目を瞑る、貴重な生物として保護されることが彼女自身の役割だと割り切ることができれば。それこそ物語の中での話のように、危機に陥ったところを騎士に救われる姫を演じられるのであれば。か弱き乙女という柄ではないが、そうすることで彼女はこの世界へと受け入れられていくことが出来るのだろう。
しかしそれでは自分の本質が変わってしまいそうだ。これまで目的のために勉強だけしてきたのは、自立する能力を高めるためだ。決して甘やかされ、守られることが当然のマスコットのような女を目指していたわけではないのだ。
それが分かっているからこそ、最初の一歩目を慎重に踏み出さなくてはいけない。そのための一言を自分の中から見つけ出そうとするが、未熟な彼女にとっては非常に難しい。迷ったまま、声にならない微かな息が抜けるばかり。
その様子をレリスは黙って静かに見つめてくる。向けられるのは人柄の良さが表に現れているかのような澄んだ青色。
──彼とは違う。
同じ系統の色だからなのか、目前の鮮やかな青い色と記憶の中の薄青い色とを無意識に比較している自分に気づく。口うるさい監視役だとは感じていたが、この場に存在せずとも柚希の行動を支配しているかのようだ。あの色によってどれだけ自分が強烈な印象を刻み込まれているのか、そのことを自覚させられて落ち着かない。
とは言うものの、彼女の勝手な行動を制御するという点においては、彼の目論見(計算の上かどうかは分からないが)は成功していると言える。この分では超えるべきではない一線を踏み越えるどころか、単に歩み寄ることすらできそうにもない。一応、こそこそ隠れていなければいいとは言われたものの、大っぴらに交際を宣言すれば逆に今度は進展具合を細かく調査されることになりそうだ。
そうなれば彼女にいくらか残されたプライバシーも目減りするし、巻き込んだ相手も保護生物である彼女の事情へと巻き込むことになる。それでは親切へと何かを返すどころか、より大きな負担を相手に背負わせることにしかならない。
結局、口をついて出た一言は謝罪であった。
「ごめんなさい。迷惑ばかり」
「迷惑だとか、気にしてほしくない。だからそんな顔をしないで」
無理に作った笑顔が消えてしまっている。溜息の一つでも吐きたいところだが、さらなる心配の種にしかならないと分かっていたので何とか我慢した。
考え始めると言葉数が少なくなるのは悪い癖だと思う。そのために悩みが深刻であるかのように誤解されてしまい、本当なら要りもしない過保護が次から次へと彼女の前に積み上げられていく。親切そのものには感謝すべきだが、甘やかされることで彼女の気持ちが絡め取られ自由を失っていくことに事に彼は気づいているのだろうか。
確かに彼女自身は今のところ頼りなく見えるのだろう。この世界の常識も儘ならない状態では外へと飛び出しても長くは保たないことは目に見えている。だからこそ羽ばたく力が充分に付くまで巣から落ちた雛鳥を世話するように、翼を鍛えるための安全な場所が必要だ。
けれど飛び立とうという素振りを見せるたびに、翼を広げる動作に先んじて持ち運ばれてしまうとすれば。移動は安楽になるが、いつまで経っても彼女は飛ぶ力を得ることはできない。彼の親切はそうした性質のものなのだ。
鳥を籠に押し込めて、必要な分だけ餌を与える甘やかす手。安全であっても決して外へ出ることが許されない防壁。彼女の欲しいものがそんなものではないことは分かっている。今、本当に必要な物は──。
「僕じゃ力になれないのかな。えっと、あの……、誤解しないで欲しいんだ。君と特別な関係になりたいとか、そんなんじゃなくて……」
重くなりかかった空気の中、レリスの口をついて出たのはさんざん釘を差されてきた例の話。やはり彼もその点を気にしている様子である。言いづらそうに歯切れ悪く、言葉を選びながらの発言らしい。柚希は急かすのも悪いと思い、黙って話の続きを待つ。
「いろいろ言われてるのは知ってるけど……。でも、親切の見返りに君の気持ちをどうにかするような下心はないと信じて欲しいんだ」
つっかえながら、訥々と口にする。青い瞳が不安げに柚希の表情を窺った。そこに見える臆病がこちらにも伝染ってきそうな気分になり、しかし元から自分も同じように小心なのだと思い直す。状況に怯えすぎて、一歩先の足下を確かめながらでないと踏み出せない臆病者。
そして同じ心細さを感じているからこそ、彼も自分と同じことに戸惑っているのだと気が付いた。禁止はされてはいないものの『お付き合い』なるものをどうやって始めていいのかが分からないのだと。でも単なる日課の魔法のためだけに言葉を交わす仲というのも寂しいし、男と女であるからといって恋だの愛だのと浮かれるのも何かが違う。交際の段階に至る前、個人として互いを理解することが必要なのだ。
しかし迷いながらもいつかは答えらしきものを引き出すことは出来る。
「だから友達に。困っているのを助けるのは友人として当然だから」
常識的に考えて、自分たちに求められているのはそれだろう。親密ではあっても決して一線を越えることのない睦まじさ、おそらく恋愛というよりは友情と称するのが相応しい関係だ。
「駄目かな?」
念を押すような問いかけに、自分が再び無言を押し通していることに気づく。それではいけない、最良ではなくともそれなりに好ましいと思われる答えを返しておかなくては。
「──そうですね。友達なら」
慌てながらも口から出たのはそんな一言だった。少なくとも友情であれば理解できる。離れがたいほどの強くて固い絆ではなく、ふらついて倒れそうになった時にほんの一瞬だけ体を支え合う、そんな距離感を保った結びつき。
まずは友達として彼を知る。多分、今選べる中では最良の方策であろう。力のない自分が一人で立てるようになるまで力を蓄える、そのための時間を過ごす仲間として彼の厚意を受け入れよう。
部屋で一人きり、隠れて「帰りたい」と泣いているよりはずっと良い。帰れるかどうか不明、帰れない可能性のほうが高いぐらい。そんな不安を友情によって拭い去ることができるかは分からないが、とにかく考えたくない事実から目を逸らすことはできる。
そこまで考えたところで柚希は自分の気持に嫌気が差した。
結局、自分はただの卑怯者だ。状況に流されるだけ、周囲の親切心に依存して安直な方向に流されているだけではないか。
自分自身の未来のはずなのに、好きになる相手一人も決められない。それにこの関係を受入れたとして、得をするのは自分ばかりである。
欲しいものを相手が持っているからと繋がりを求める、そんな欲得尽くな考えを『友情』と呼ぶべきか。もちろん、そんなことは正しくはない。けれど他のもっと正しい方法を今の柚希は見い出せずにいた。
しかし彼女のそんな想いをレリスは気付いてはいないだろう。小さな声で「よかった」と呟くのを聞き、自分の推測がそれほど外れていないことに確信を持つ。もっとも、それをここで指摘する気はない。良くないと分かってはいるが、今はまだ強請らなくとも彼から一方的に与えられる厚意に甘えるほうが楽なのだから。
疚しい気持ちを感じながら、顔に取って付けたような笑顔を貼り付けて見せた。表情一つで相手を安心させられるのであれば容易いこと。そう心の中で言い訳をしながら胸を刺す嫌悪感を封じ込め、出発の合図とともに歩き出したレリスの後を追った。




