39. 日課
もやもやした物を振り払うには平常通りの日課に集中するのが手っ取り早い。相も変わらぬルーティン・ワークに没頭して、悲しみも悩みも棚上げしてしまえば良い。そのための最初のステップとして先ずは現れた人物に朝の挨拶をしよう。騎士の制服を着た金髪の人物を確認し、一日の始まりを告げる言葉を自分のボキャブラリーの中から引っ張りだした。
「おはようございます」
頭を日本語からこちらの言葉へと切り替えながら、開けた扉の向こうに立つレリスへと言葉を掛ける。スムーズな日常会話というには覚束ないけれど、確実に学習の成果は出ている。そうしたほんの小さなことに満足感を感じていた。
ところが挨拶のために頭を下げたことでレリスの指が複雑な動きを形作っているのが目に入る。そして至近距離で見るそれを魔法であるのに気付くまで数秒を要した。その予告なしの行動を訝しみ、顔を上げかけた所で眉間に熱の感触。
「おはよう、魔法は効いてる? 話していることは分かるよね」
すぐに口の動きと聞こえる音に違いがあることに気付いた。間違いない、言語魔法だ。
本来ならば授業に不要のはずの魔法だ。それを突然かけるということは、もしかして簡単な言葉一つすら通じなかったのか。どういう意図なのかと質問すべきタイミングだとは思うが、せっかく切り替えた頭をすぐには日本語へと戻すことが出来ない。無言で視線を向けていると、こちらの物問いたげな様子に気がついたのか真面目な表情で切り出した。
「いきなりで、ごめん。君に呼び出しがかかってて、そのことを説明するのに言葉が通じたほうが都合がいいから魔法をかけたんだけど」
そう言ってリリが柚希へと話があるのだということを告げる。
「くわしい内容までは聞いていないけれど、調査で見つかった物について話がしたいって」
リリが騎士たちと共に例の魔法陣の調査をしていることは情報として知っている。そのことから考えるに、話とは帰還についてのことだろうか。良い見通しであれば良いが、最悪のことを告げられる可能性もある。ただし聞かされていた予定ではもう少し時間がかかりそうとの話だったので肩透かしかも知れないが、いささかの覚悟はしておくべきか。
ともあれ呼び出しの話を聞かされて確実なのは、今日の授業が無くなったという事実だ。すなわち今からメレディスに顔を合わせないで済むということ。少なくとも泣いた痕跡を彼に気付かれぬようにと神経質になる必要はなくなった。おかしなことだが自分の行く末よりも、すぐ目前の人間関係をやり過ごしたことに対してホッとした気持ちのほうが強い。
それにレリスは、昨夜の涙どころか今この瞬間の彼女の気持ちが沈んでいることにすら気付いていないのだろう。細々と気配りをする割に感度が低いのは彼の欠点だと思われるが、そんな弱みも今この瞬間は彼女の粗をさらけ出さずに済むという意味では有利に働いているといって良いだろう。その証拠にレリスはただ穏やかな表情で心配する素振りもない。
「そうですか」
戸惑いと不安、そして安堵。諸々が綯交ぜの気持ちのまま、話を理解したことを示すため短く返事をする。いずれにせよスケジュール変更について、彼に責任はないのだから。
「じゃあ、もう一つの方も。手を出して」
声をかけられ、常の習いとなっているように両手を手首の筋が上になるように差し出した。その上で複雑な手の動きを繰り返し、数回指で触れてくる男。視線を下に向けているため、柚希の目に入ってくるのは金髪の後頭部だ。
おこなっているのは魔力の暴発を抑えるための魔法である。身体の何箇所かにある魔力が溜まりやすい結節はいくつかあるが、すべての場所に魔法を掛けるのは非効率だとのことで、最も他人の魔力と接触するだろうと思われる手首に重点的に魔法をかけることとなっている。
触れた時に感じる微かな熱は魔法が使われた結果なのか、あるいは相手の体温なのか。致し方ないこととはいえ近すぎる距離である。わずかな接触であっても、ほとんど手を握りあわんばかりの位置と姿勢。指の動きを目で追いながら、昨日のメレディスの言葉を思い出していた。縋りつく手を選んで掴んでしまえ、おおまかに言えばそんな内容だ。
言葉の綾ですらなく、この瞬間に彼女がそうしようと望めばここでレリスの手を握りしめることは可能である。けれど彼の手を取った後、どうしたらいいのだろう。気持ちも覚悟も出来上がっていない今、彼との関係を始めたとしてもその後が続くはずがない。その上、関係を推し進めるにしても健全な男女交際の範囲で収めなくてはいけないのだと。
「これで良し。終わったよ」
考え事に気持ちを奪われているうちにレリスの作業は終わっていた。必要最小限以上の接触はなく、両手は解放される。それと同時に相手が立ち上がった。自分の視線の高さは相手の胸元ぐらい、毎度のごとく思うがこちらの人間の平均身長は高い。見下ろされると、自分がいかに小さい生き物なのかが思い知らされる。弱いと言われても仕方がなかろう。だからこそ守ってもらう必要がある。悔しいけれどそれが現実だ。
しかし、いつまでも子供扱いでもいられない。さすがに身長を伸ばすことは出来ないが、体型以外では改善の余地はあるはずだ。具体的に何を出来るというわけでもないが、少なくとも言葉についてもう少し上達すれば魔法や授業の世話を受けずに済むだろう。そうなれば周囲が彼女へと与える手間も減り、彼女自身の感じる申し訳ない気持ちも軽減されるのではないか。かといって暴発よけ魔法に関して手間を減らせるわけではないのだが。
さて彼女の罪悪感はともかく、感謝の言葉ぐらいは相手の目を見て言うべきだろう。視線を上げ、相手の顔を見る。
「毎日ありがとうございます」
そうは言っても、何に礼を言っているのかも正直なところわからない状態だ。それでも気持ちのいくらかは伝わったようで、彼は照れた様子で頬のあたりを指で掻いている。
「気にしないで。一応、毎日君の様子を見るというのも仕事のうちだから。困ったことがあったら何でも話して、ね?」
「でも魔法で色々出来るんですね。暴発よけ、仕組はよく分かりませんが」
彼女の困り事については置いておくとして、素直に異世界の技術力へと感心した。そうした彼女の様子にレリスが小さく息を漏らすような笑い声を漏らす。
「単なる応急処置なんだ。手首の結節に別の魔法を被せて君の魔力と直に触れないようにしてる。君には魔法に対しての免疫がないみたいだから、威力より効果時間の長さを優先してる」
出来るだけ専門用語を使わないように説明をしてくれたが、それによると防御魔法の中には別の魔力と中和して無力化する術があるのだという。柚希に毎日かけている魔法はそれの応用で、漏れだす魔力に働きかけて弱い力場のようなものに変換するのだそうだ。威力を弱めているために痛みや痺れのような実害が起きることはないものの、魔力に対しての感度が鋭ければ彼女の周囲に何らかの魔法の痕跡を見い出すことはできるのだとのこと。
その説明にある考えが心に浮かび、ついさっきまでレリスの触れていた部分へと意識を向けた。使うことは無理かもしれないが少しでも魔法に対する感覚が呼び覚まされるかもしれない、そう思って手首を探る。しかし当然のことながら何も感じることはなく、落胆しながら小さく溜息を吐く。
「すみません。魔法は分からないので。現象としては理解できるのですが」
「ごめん、分かりづらかったかな。こういう説明はあの人のほうが得意なんだけど」
『あの人』というのは、言うまでもなくメレディスのことだろう。異世界の言葉を理解できる彼は、柚希の母語である日本語が魔法に関わる専門用語をほとんど持っていないことを心得ている。必要がある時に限られるが、その不足を補い彼女が納得できるような言葉に言い換えて説明することもある。
しかし、真の意味での理解は難しい。けれど理解できないのは彼の説明が拙いわけではない、要するに魔法の有無による文化の差の問題だ。結局は説明半ばで諦めることになった。
それでも理解できたことを総合的にまとめて考えると、暴発除けの魔法というのは柚希自信がコントロールできずに撒き散らしている魔力を無害な魔法で消費しているだけだということか。技術があればもう少し使いようのあるところ、現在のところは単なる無駄遣いである。
「言葉は悪いのですが、一時しのぎということでしょうか」
相手の努力は分かるが、定期的に魔法をかけ直す必要がある今のままでは暴発こそ無くとも不便を強いられるのは間違いない。
「根本的に解決しようというのなら暴発しない程度にまで魔力を抜いてしまうほうがいい。簡単な方法は魔法として使ってしまうことだけど、君の場合は……」
「使えなければ自分一人では減らしようがない、そういうことなのですね」
不完全な説明であっても言わんとすることは分かる。暴発が起きるのは魔力の濃さに差があるときだから、多い方を減らすほうが簡単だ。しかし彼女に魔法に関する根本的な能力が存在しないために、多すぎる魔力を効率よく安全に捨て去る方法がないのだと。
「少しでも能力があれば教えてあげられたのに。そうすればきっと良い魔術師になれたんじゃないかな。技術や知識は後から身に付けることはできるけど、魔力量はそういうわけにいかないから」
そして続く言葉で教えてもらったのは生まれつきの魔力の量が、個人の魔法能力の限界であるという事実。複雑で高度な魔法には踏まねばいけない手順が多く、その都度ごとにより多くの魔力が必要になる。その理屈で言えば、費やせる魔力を多く持つ人間こそが優秀な魔術師の条件ということだ。
「僕も魔力量そのものは多いけれど暴発するほどの量じゃないし、使って減らすことも出来る。でも使える魔法の種類が地味だから、雑用みたいな仕事が多くなってしまうんだけれどね」
説明しながら、やや自嘲気味にレリスは自らの魔法能力について語る。だが能力ゼロとは違う。たとえ地味であれ、必要とされる場面で自分の役割を果たすことは出来るのだから。それに引き換え、彼女といったら魔力はあれど危険にしか繋がらない。かえって多すぎるせいで面倒の種にしかならないのだ。
理解するに従い、切実に魔法の能力が欲しいと彼女は思った。レリスが言う優秀な魔術師の条件を聞いたからではない。むしろ彼が、彼女と同じように魔力過多気味の体質であっても暴発の危険を感じずに生活できることを羨ましいと感じたせいである。
ただし、こんなことを話して相手が納得するかどうか。いっそ魔力が無ければ、魔法そのものについて考えずに済むのだけれど。
喩えるのならば翼はあっても空を飛べない鳥のようなものだろうか。天敵がいない環境に置かれて飛ぶ必要がなくなれば、やがて鳥類は地面を歩く生物として適応するようになるという。翼を動かす胸筋は不要、飛ぶためにエネルギーを使わなくなれば余剰は体の各所に蓄えられたカロリーとなる。
濃すぎる魔力というのも、そうやって体に溜まった脂肪のようなものなのかもしれない。濃厚になることで魔力は重くなり、さらに動きづらくなる。魔力が動かなければ魔法が発動することはない。そして魔法の発動することのない世界では魔法に適応する生物の進化もなければ魔法技術の発展も無かったから、柚希自身も傍からは無駄な魔力の重みでよろけながら地面を走り回る太った雌鶏みたいなものに見えるのだろう。
むしろ卵を産むだけ雌鶏のほうがマシだとも言える。なまじ状況を考える知恵がある分だけ、自分が役に立たない不格好な生物である事実が情けなくなってくる。それ以上に気に病むのは、暴発の危機を避けるためには毎日の魔法が不可欠という事実。このままでは一生の間、レリスの魔法に頼らねばならないのか。
平均寿命まで生きるとした場合、現在十九歳の彼女に残された人生は長い。もしも帰れずにこちらで余生を過ごすということになれば、無駄な魔力を抱えたま毎日の魔法が欠かせない状況は心理的な負担が重い。
「でも、いつまでも御手数かけられませんよね」
大袈裟にならぬよう、控えめに不安を吐露する。その言葉へとレリスは薄っすらと微笑みを浮かべ、安心させるかのように答えを返した。
「今のところ試作段階だからもう少し改良の余地はある。今は忙しくて手直しする時間がないけど、余裕ができたら何とかするつもりだから。ごめんね、君がまるで実験台のようになってしまって」
口にされた『実験台』の言葉へわずかに心が騒いだ。レリスには悪意も、特別な意図があるわけでもないことは分かっている。しかし規則通りの保護であれば、彼女は本当の意味での実験動物扱いであったろう。そもそもの違法召喚の本来も目的が異世界の生物を家畜として捕らえる方法なのであり、実験動物への流用については規則の抜け穴を突いたかのように半ば黙認という現状である。
人間扱いされているのが特別なことで、この世界の常識としては彼女は家畜の扱いがふさわしい。彼女がその境遇を逃れているのは、外見がこちらの人間とほとんど変わらないこと、そしてある程度の知性を示したことにここの責任者が意味を見出したからに他ならない。
人の姿形というものはどちらの世界でも心理的に訴えかける力が強いようで、彼女のような存在が切々と不遇な境遇を嘆くことで、その意見へと耳を傾けるものが増えてゆくのだと思われているらしい。それほどまでに彼女の姿形は重要な意味を持っている。たとえ命のない物であっても、マネキンやフィギュアのような人間の姿を模した人形を粗雑に扱うことが出来ないようなもので。
二つの世界の人類の姿が似通っていることが、彼女にとって幸か不幸かは分からない。明らかに異なった形状をしていれば、政治云々の提案を持ちだされることもなかったろうに。人間扱いをされない可能性はあるが、それでも自分が周囲の期待に応えられないと悩むことはなかったはずだ。
代わりに求められるのは濃い魔力を持つ体質である。魔力の不足が常に問題となる世界だ、彼女は価値の高い生物種とされたことだろう。なんとか暴発の危険さえ回避してしまえば、次に待っているのは魔力を搾り取る研究だ。なんのことはない、レリスのしていることを何段階か苛烈にしたものである。
配慮はされていてもそこには長く生かすか、使い捨てのように扱うかだけの違いしかない。帰れないことが確定して、その不幸から逃れる方法が人生の終了しかないのであれば、一刻も早くその瞬間が訪れた方がいいのかもしれない。ただし彼女に対して、既にいくらか情の移っているこちらの人々はそのことを良とはしないだろうけれど。
そう考えながら、ここで一つの疑問が浮かぶ。もしも彼女が知性のない生き物だったら、ここの人たちも彼女を心置きなく実験台にしていたのだろうか。皆が欲しがる貴重な体質を彼女は持っている一方で、それを利用するための能力そのものが彼女からは欠落している。魔力不足で苦心をしている人間にとっては口惜しかろう。
意識の端に浮かぶのは、『使える魔法に対して持っている魔力が不足気味』といった趣旨の言葉だ。これを口にしたのはメレディスだったか。だからこそ彼は一層厳しい目を彼女に対して向けてくるのかもしれない。
記憶を探ると同時に、薄青い瞳の色がこちらに向けられた時に感じる言いようもない心のざわつきを覚える。常にこちらを推し測るかのような視線、さらに色合いと相まって感じる刺すような冷たさである。好かれているとは思っていないが、それ以上に無視することも出来ないような否定的な感情がそこに含まれているように思えてならないのだ。
すっきりとしない気持ちを抱えながら、柚希は決して感じることの出来ない自分の魔力へと意識を向ける。
手首や額。その他にも結節と呼ばれる部位はあるようだが──。
そうした部分、特に額をやたらと彼に触られるのは、多い魔力を羨望の気持ちで確かめているのかもしれない。暴発の起きやすいのは激しく動揺した時だと一応の説明を受けた。しかし、それだけではない何かをあの接触で感じるのも確かなのだ。
どうしても彼とは歩み寄れない、その原因が妬みなのだとしたら様々なことに説明がつく気もする。恵まれた体質、甘やかされた待遇。距離を置き彼女を見ないようにすれば悪意も呼び起こされないはずなのに、教育に付き合わなければならないがために彼の気持ちが逆なでされているのだとしたら。
その状況に至った原因には彼の上司が抱える権利云々という目的がある。大義名分が明らかだけに逃げ出すわけにもいかず、無理矢理に妥協しているのだろう。
だからと言って、彼女自身がまるで感じられない魔力のせいで妬まれるというのも腹立たしいことであるけれども。
「何か心配?」
そうやって考え事にふけっているところをレリスに見咎められてしまう。慌てて何でもないと否定をしたが、彼の心配は振り払われただろうか。
今ここにいない男のことを考えて、真正面にいる人物を無視していては失礼だ。そう思って目前の男へと意識を戻せば、鮮やかな青い瞳にやはり鮮やかな金髪が目に入る。はっきりした色合いと同様、彼の考えていることは手に取るように分かる場合が多い。
その外見だけ見れば、彼はモヤモヤとした悩みとは無関係そうに見える。自分も髪を脱色して重たい黒色でなければもう少し快活な印象を与えることができていただろうか。あるいは下にも置かれないような美人であったのなら男のあしらいの手管などに悩まずに済んでいたのだろうか。
これまで受験勉強のために色々と切り捨てていた彼女は、美容や服飾は周囲に不快感を与えない程度の最低限で済ませてきた。正直なところ研究所内を歩き回るのに無難な制服を充てがわれたおかげで余計なことに気を回さずに済むと思っていたほどだったから。
それを考えれば、その方面にはそもそも柚希は向いていない。彼女の様子を気遣わしげに見つめるレリスの表情を眺めながら、こんな面倒な女など相手にしなくてもモテるだろうととりとめもなく考えた。それ以上に彼女は言葉が不自由で、問題のある体質を持ち、なによりも同種の人類であるかどうかも不明な異世界の生物でもある。
だとしても結局、魔法による補助を継続するためにはレリスとは付き合っていかなくてはいけない。恋愛は関係なく、見捨てられないように彼の気持ちを繋ぎ止める、そんな関係を作り上げないといけないのだ。
けれどその方法、どうすれば良いのだろう?




