38. 泣跡
目を覚まして柚希がすぐに確認したのは、自分の瞼が腫れ上がっていないかどうかだった。
メレディスの姿が目に入るうちは我慢出来たのだが、部屋に戻って一人になった瞬間に堪えていたものが堰を切って溢れ出してしまった。そのまま泣き疲れて眠り込み、起きた頃には目元周辺の熱っぽさと頭痛で最悪な気分になっていた。もちろん鏡に映った顔つきはこの上なく酷いものである。
すぐさまやるべきことに思い至り、彼女は洗面所で顔を洗い始めた。頬に残る乾いた涙のざらつきを丹念にこすり落としていく。清潔な水と石鹸を使いながら、向こうの世界とそれほど変わりのない衛生観念がつくづくありがたい。水の充分な冷たさのお陰で、さほどの時間をかけなくとも目元の痛みはいくらか引いた。
だが完全に元通りというわけではない。本当は具合が悪いとでも言って痛みが落ち着くまで時間をかけたいところだが、ただでさえ資料室の騒動で授業が中断されているのである。これ以上授業を先送りするするわけにはいかないことは彼女もよく分かっていた。
鏡をもう一度眺め、溜息を吐きながら顔の水分を拭う。
処置の結果か一応は涙の痕跡を見咎められないぐらいには赤みは引いていた。だがじっと見つめれば分かるし、いつもの視線を思えば彼女の様子がおかしいことぐらい気付くのであろう。それでも『泣けば頭が冷える』などと言い放つ相手である、気づいたとしても言葉には出さないのではないかと根拠の無い期待をする。
それに彼女の精神状態のことなど彼は一々気にするだろうか。それよりはおそらく、彼の関心事は遅れを取り戻すことだと思う。だったら今の気分は最悪だが、彼女一人が堪えれば済むことだ。なので、すでに惰性となっているまま自分の気持を封じ込めた。けれど抑えこんだとしても、惨めな気分は心の隙間からいくらでも滲み出してくる。
客観的に見ると衣食住の心配の要らない今の状況は悲惨と言えない。それどころか事情の分かっている人々に囲まれて、いくらかの精神的なケアも与えられているほどである。悲惨どころかむしろ恵まれていると言って良い。
なのに気分が晴れないのは、与えられる気遣いに対して自分が対価を期待されていることを分かっているからだろう。周囲の評価は『知的生物』なのだから、それに見合う能力を自分は証明する必要がある。
そのための方法としてまずは言葉を覚える。目的は自分の立場について切々と訴えることなのだから、政治システムについての知識も必要になってくるのだろう。人脈が大事だということになれば無礼にならないような立ち振舞いも必須である。その他にも度量やカリスマ、判断力や責任感など、求められるものは非常に多い。
しかし考えてみれば、只の学生として暮らしてきた自分に政治に関わる者としての資質が備わっているとは思えない。そもそも体格の小さい子供のような見かけからして彼女は不利な点を持っている。それを覆すだけの存在感を、たとえ付け焼き刃だとしてもこの後に要求されることになることは痛いほど理解はしているのだ。
自分の能力を超えた要求を思い、気持ちが挫けそうだ。油断をすると再び涙が流れ出しそうに感じ、強く力を込めて目をつむる。
ともかく自分が駄目な生物であるのだと指摘されたくないのだ。どれほど外見が小さかろうと彼女にもプライドはある。特別扱いされている自覚はあるだけに、自分の評価をこれ以上に引き下げるような弱みを見せてはいけないし、被害者だからと甘えることも憚られる。
だからこそ、すぐに泣いて弱い印象を決定づけるわけにはいかない。そもそも最初の日から泣き喚いて、まともな会話を中断させているのだから。魔法の使えないことも含めて初めて顔を合わせた段階での失点を取り戻すためには、今後のプラス評価を積み重ねるほかはないではないか。子供みたいな見かけの弱々しい女だからと、いつまでも甘やかされてばかりではいられないのだ。
もちろん今現在、自分の能力が高く買われていることは理解をしているし、そのために彼女に付けられている点数も甘いのも知っている。けれどその評価も勘違いにすぎないかもしれない。魔法頼みであるとはいえ言葉によるコミュニケーションが取れるという、ただそれだけの事実を拡大解釈しての位置づけの可能性だ。それを取っ払ってしまえば多少勉強のできる普通の人間にすぎない。要求に答える努力と言っても、その事実が露見するのを恐れて必死に足掻いているだけなのだ。
彼女のその無様さを身近で観察するあの男はどれほど見抜いているのだろうか。厳しい言葉をかけてくるのだから彼女の実体、期待されている外面と実際の中身が釣り合わないことぐらいは把握しているはずだ。能力の見極めを誤れば彼らの目指す結末に辿りつけないどころか遠ざかる危険もあるだけに、柚希に対する監視の目が執拗になるのも仕方がない。
ともあれ彼らが求めるのは目的を果たすのに最適な道具である。少なくとも泣き喚く態度が最悪なのは理解していた。だからこそ問題無いと平静を装い、彼らの求める役割へと自分を押しこむべきだろう。そのためにしばらくの間、彼女自身の感情は封印すべきだ。
けれど、あんな話をした後に平気な様子で顔を突き合わせることなど出来るだろうか。授業のような当り障りのない活動の最中ならばおそらく問題はないだろうと思う。しかし今後の見通しの話になると途端にこちらの踏み込まれたくない領域までズカズカと言葉を挟んでくる。
今の時点で自分の能力が頼りないのは認めよう。こちらの世界での常識をわきまえていない柚希では一人で外に飛び出すことはとうてい無理な話だ。だからこその縋りつくべき手を見つけろとの助言である。だが数日の間にようやく数人の為人を把握したばかりで誰を選べるというのか。そんなに素早く異性を信用するほど彼女は軽率なわけではない。
挙句の果てに言うに事欠いて、『警戒心が薄い』だ。責任感からの発言だろうが、恋愛自体は禁止していなくとも一線を越えるのは駄目だとの忠告は煩わしいほど繰り返されている。これでは彼女に誰かを押し付けたいのか、あるいは彼女へと特別な期待をする人間を引き離したいのか、どちらを彼が望んでいるのか分からない。
もちろん考えなしに見知らぬ男について行くようなことはしないつもりだが、どうも信用が足らないらしい。確かに見た目は子供だし恋愛経験には乏しい。だが、そんな個人的で扱いづらい話題を持ち出して気後れさせ、こちらを束縛でもしようというのか。
相手の真意が読めないだけに気持ちが落ち着かない。彼自身は表情も薄く、普段は何を考えているのか感情の欠片一つも気取らせないくせに、こちらが狼狽えることについては敏感に察知する。昨日の話の最中に柚希が泣きそうになったことだって気付いていただろうに。
思い出しながら彼の態度に釈然としないものを感じる。顔を見合わせる時間こそ長いが、どれほど言葉を交わそうともほんの少しの距離すら歩み寄れる感触がないのだ。いくら知識を与えられ、この世界へと馴染んでいったとしても、それを与えてくれる一人の人間すら分かり合うことも出来ない。
疑いようもなく、壁がそこに存在する。その壁を乗り越えることが出来なければメレディスを理解することはできない。しかし彼の方は、そのための手掛かりを柚希に与えるつもりは一切ない様子である。
口では彼女のためと言いながら、彼自身の本心はまるで仮面で覆い隠したかのように窺い知ることは出来ない。彼女が苦手とする薄青い色で見下ろしてくるばかりである。
氷のような冷たい視線を思い出して心まで冷えるように感じ、柚希は大きく息を吐く。
たとえ相手を苦手としていても、日常的に顔を合わすのであれば付き合いを円滑にしたいと願うのは自然なことのはずだ。しかし、そのために彼自身のことを知ろうとしても、表面的なことは教えてくれこそすれ肝心のことについては躱されてしまうだろう。思えば彼の『メレディス』という名前すら『そう呼ばれている』と聞かされただけで、それが姓か名かすらも分からない始末。極論すれば、それすらも本名かどうか怪しいと言えよう。
いったい彼の何を知っているといえるのか。この国の出身ではないことぐらいしか知らないが、おそらく出身地を聞いたとしても彼女にはそこがどんな土地であるかすら認識できないのに違いない。知ることを求める彼女のまだ知らぬことが、彼女の知識の範囲の外側にあることがもどかしい。新たに知識が与えられたとしても、それを受け入れ咀嚼するには彼女自身の知識は不十分なのである。
どこか満たされないまま、彼女の気持ちは巡る。一つの知識を自分の血肉とするためには、別の関連する知識を連鎖的に吸収し続けなければいけない。帰りたいと強く望む一方、他でもない『知りたい』というわけの分からない衝動に囚われていることに彼女は気付く。
本来ならば帰還と知識欲は矛盾する望みのはずだ。帰ることができれば、この世界の事情など彼女には何の関係も無くなってしまう。いくらこちらでの知識の幅を広げようと、あちらではほとんど夢物語としか扱われない事柄ばかりなのに違いない。
それでも知りたくなってしまうのは何故なのだろう。自分がこれまで勉強しかしてこなかった学生で、それしか能がないからなのだろうか。変化した環境の中で少しでも以前へと近づきたいからと、最も馴染みの深い勉強にかじりついているだけなのではないか。何を学ぶのかではなく、彼女にとって居心地に我慢できるという理由で学ぶ行為そのものへと逃げ込んでいるだけで。
傍から見れば真面目な態度に見えるに違いない。まさに周囲が望む『知的生物』だ。求められるがままに与えられる教育を受け入れる、そうするうちにやがてこの世界についての知識が自分の一部へとなっていく。
しかし、そこで抱く不満は教育が自分を変えてしまうことだろうか。この生活を長く続けるうちにいずれ気持ちは絆される。今はまだ元の世界を恋しがる気持ちのほうが強いけれど、滞在が長引けば帰還に対する期待そのものが枯れ果ててしまうのかもしれない。そうなった時に自分はこの世界をどう感じるのだろうか。愛するのか憎むのか、あるいは自分の心に蓋して感情などに振り回されていないふりをするのか。
この世界へと愛着を感じ始めるようになる前に、彼女へと与えられている教育を拒絶することは出来る。ただしそれはこの世界で突きつけられている権利云々を無視することでもあり、それら全てから切り離されて自由になれる元の世界への帰還を信じなければ出来ない選択肢でもある。どのみち帰還の保証がない今は、黙って自分の力を証明し続けるほかはない。
そこまで考えて、どうして彼に不満を感じるのか、その気持の正体がわかったような気がした。メレディスは、彼女が必要としているものをすでに所有しているのだ。
彼自身は立場の危うい非正規職員だと自称するけれど、すぐにその職を失う心配をしている様子はない。つまりきちんと自分の能力を示し、その結果として彼自身の所属する居場所も勝ち取っている。
いざという場合に彼女の手本となるのは彼なのではないか。それを分かっているからこそ、先人としてあの厳しさなのだろう。だが、どうやら彼女の力は彼の御眼鏡には適わないとみえる。
そこまで考えた所で、彼女の心は無力感に支配される。この世界ではまさに余所者、自分の居場所すら確保できない自分がこの世界を変えるための切り札なんかになれるはずはない。グズグズと泣いている弱い存在に周囲は何を背負わせようというのか。
けれど求められていることの大義名分は明らかであるだけに、彼女自身は拒絶することも難しい。だからこそ与えられる教育を受け取り、自分が求められる物へと変わっていかなくてはいけない。その過程で指示を受ければ、必要とされることを淡々こなしていくのだ。支援者を捕らえるためと言われたなら、女であることの価値を差し出すことすら。
彼女が望むか否かに関わらず諾々と、まるで家畜であるかのように。しかし後に自由を勝ち取るためと言いながら、その道中が不自由この上ないこと極まりないのは皮肉なことである。
胸の潰れるような想いを払い落とそうと、意識して彼女は大きく空気を吸った。溜息ではない、外面だけでも胸を張り、この状況に踏みとどまる決意を新たにしようと深呼吸をする。
彼があの時たいした言葉も掛けずに彼女を帰したのは、時間が経てば収まるのだと思ったのか、あるいは慰めるのが面倒だったからなのか。どちらにせよ冷たい対応だ。
ただし、その冷淡さが今はありがたい。
身近にいれば情が移る、それは彼についても例外ではない。毎日顔を合わせる必要があるのに苦手意識がある、相手を深く知れば今以上に拗れてしまう予感がする。だからこそ管理下の生物として見張りこそすれ、深く立ち入らないことこそが彼の責任の果たし方なのだと思う。
ならば自分もそれに倣おう。怖くて毛羽を逆立てる小動物の相手をするよりは、たとえ懐かなくても暴れ出さない聞き分けの良い生物の方が管理する側にとって楽だろうから。結果として有り様が家畜と変わらない物に成り下がるにしても、そうすることが彼女自身の決断の末ならば、それは全て彼女が負うべき人生なのである。
身支度をしながら気分を静めていく。今彼女が集中するべきは言葉の習得、もしも元の世界に戻れないと決定してしまった時には今ここにある世界に適応してゆく他はない。元より生物として人間かどうかの曖昧な境界線の上にある存在だ。いざという時に少しでも人間扱いされるように知識を蓄え、こちらの常識に馴染むように努力をしよう。たとえ単なる道具にされるとしても、軽んじられない程度の能力があることを示していこう。
だが、その決意は彼女自身が心から望んでいるのではなく、単にそのほうが後で自分の有利になるという打算に過ぎない。けれど向こうの都合で彼女を道具へと変えてゆくのであれば、彼女の方も相手を利用できるように彼女の武器を磨くだけである。
そのように心を固めた瞬間、ドアがノックされる音が響く。
時間だ。すでに涙の気配は消えているからと動じることもなく扉を開いた。毎日のことである、相手が誰なのか疑うこともない。事実、思っていた通りの人物がそこに立っていた。




