37. 夕景
何故こうも自分の力が頼りなく感じるのだろう。
受験勉強をくぐり抜けてきた経験から知識を詰め込むことは得意なのだと柚希は思っていた。出来ることはそれだけ、そう信じて教師役のメレディスを相手に、そこから与えられるものを蓄える。
けれども与えられる知識をどれほど呑み込んでも、それで分かることといえば手強いこの世界の仕組みばかりである。丸暗記ばかりで手にした知識も活かせない、何より魔法も使えない。
結局、誰かの補助なしでは生きられないのだと。告げられたのはそういうこと、心細さに感情が限界を迎えそうだった。
だが弱さを悟られたくはない。涙が溢れそうな表情を誤魔化そうと直接顔を見ないようにわずかに首をひねれば、馴染みとなった苦手な色合いが視界の端をかすめる。沈黙を保ちつつも薄青い色が消えるわけでもない。いつものように今もまた彼は観察を続けているのだと分かった。
だからこそ、こちらの惨めな気分をも見逃しはしなかったらしい。しかし気付いて彼が口を開くにしても、優しい言葉など降ってくるはずもない。
「泣きたければ、そうすればいい。強がっていても君が弱いことぐらい私は知っている」
かけられた言葉にかえって頭に血が上り、こぼれかけていた涙がさっと引く。
「泣けと言われて素直に泣けるものでもないでしょう? そんなに面白いんですか、私が狼狽えて取り乱すのが」
「そういう意味ではないが……。言いたいのは、泣いて気持ちを発散して、時間も経てば、頭も冷えるだろうということだ。そうすれば明日からまた、これまで通りの日程を送れる」
穏やかというよりは、漏れる感情を塗りこめて隠すような冷たい口調。容貌が美しい分だけ心の冷ややかさが一層際立つ、そんな冷淡な物言いだ。
「そうやって難しいことを考えるのを止めるのですか。毎日授業をして雑談をして、だんだんこちらに馴染んでいくうちに日数が過ぎ去っていくのでしょう。気がついた頃には向こうに帰ろうという気持ちも薄れていって」
「悩みを切り捨てるというのも一つの手だろう。この支局内であれば一人や二人、余分な人員を抱え込むことは難しくないはずだ。気付いているだろうが、支局長は君に対して特別の配慮をしている。このまま厚意に甘えてしまえばいい」
それは楽な道を選ぶことへの誘惑でもある。命の危険からも衣食住に対しての不安からも遠ざけられたまま、籠の鳥の境遇を受け入れる。世話をされ可愛がられるけれど自由な生き方とは程遠い人生。そうした扱いの愛玩動物と、目的のために使役される家畜と何が違うのか?
どちらの境遇だろうと、きっと大した違いはない。しかし、安易にそうした選択肢を受け入れることのできない理由もある。
「だからと言って、私をここに留め続けることが出来るのですか? あの報告書だって提出期限をいつまでも延ばすわけにはいかないはずです」
本来であれば彼女の身柄は本部へと送られていなくてはならない。そこでは実験動物の扱いであると聞かされているけれど、規則に従えばそれが本来の段取りである。異世界での仕事の道筋がどのようなものかは分からないが、しかし書類の遣り取りで物事が進むお役所仕事状態を見ていれば、現在が非常に好ましくない状況であることは分かる。
職務怠慢と受け取られても仕方がない。そこから、さらには責任問題にまで発展する可能性も考えられる。いくら本部から見れば僻地と見做されていても、一旦悪印象がつけば現場のことを勝手に裁量する自由は制限されるだろう。いつまでも今のままを続けられるとは思わない。
「いずれはきちんとしたした説明を求められる時が来ます。そうした時にどうするつもりなんですか」
以前のリリの話から、あえて本部と距離を置くことで支局での自由を手に入れているのだと聞いている。展開如何ではその自由も失われてしまうだろう。そうなれば厚意に甘えるも何も、支局の人間もろとも研究所の監視下に置かれてしまうのではないか。
「その時は我々が君の存在を失ったということにでもして、君を外部へ逃すのだろう。大量に始末書を書かされてしばらくは謹慎ということになるだろうが、書類ならば慣れている、何の問題もない」
事も無げに言い捨てる。だが、そうやって書類を含めた面倒を増やすことが彼女の悩みの一つであるのに。
「私一人のためにこれ以上の迷惑は──」
「生活の補助をされ、書類を誤魔化し、更には教育。挙句の果てに資料の山を倒壊させた。今さら『迷惑』もないだろう? 支局の我々にはそれを煩わしいと思わないだけの大義がある。だが、それを負担だと感じるのならば、その手間を『迷惑』だと思わない相手を掴まえればいい。前にも言ったはずだ、恋愛について特に禁止はしていない」
何を言い出すのかと不審に思い相手の顔を見上げるが、そこにあるのは氷のような薄青い色だけだ。苦手な色合いが近い位置にあることに冷静さを失いかけるが、こうして揺さぶりをかけるのも相手の手だと思って何とか堪えた。けれど直接に視線を合わせるのはやはり嫌で、少し後退ろうとしたのだが。
「今だって言葉はこうやって魔法で補っている」
ぽつりと一言もらす。と、同時にメレディスは指を伸ばし、柚希の額へと軽く触れた。魔力の溜まる結節と説明された場所だが、授業を行わない今日はそこに言語魔法が存在している。魔力の暴発はないが、いきなりの行動に驚きすぎて身動きする隙もなかった。
「何を──」
怒りを表したくても声が震えていた。呑み込むように言葉を途切らせた。
「相変わらず、警戒心が薄い。しかし多少の隙はかえって周囲の気を惹くものだろう」
固まる柚希の様子を無視し、囁くように小声で続ける。値踏みをするように見つめられ、嫌な気分が胸へと広がった。
「間違いが起こるのは困るが、だからと言って止められるわけでもない。男女が結びつこうという気持ちは自然なものだ。身近にいて毎日言葉を交わせば心を動かされる。困っていることが分かれば手を差し出したくもなる。その手に縋りつこうとするのも不思議ではない」
レリスのことを言っているのだと気付く。確かに柚希が困っているだろう瞬間に手助けを申し出る親切な人ではある。けれどその親切は彼の基準でのもので、必ずしも彼女を助けるわけではない。そんな彼の手であっても感謝の念をもって掴んでしまえば特別な感情が生まれるのだと。
けれどその結論は違うのではないか。恋愛経験は皆無であっても、感謝と好意が別物であることぐらいは理解している。
「近くに似たような年頃の男と女がいるからって、かならず交際が始まるとは限らないでしょう? それに男女関係に気をつけろとしつこく言った後に、あの人なら構わないなんて例外扱いにして」
「悪くはない選択肢だと思っている。経験は物足りないが彼は能力も確かだし、私と違って身許もしっかりしている。性格も穏やかで正直で、魔法も言葉も──」
「勝手に相手まで決めないでください」
いざ帰れぬ時の覚悟を決めようとただでさえ必死なのに、より濃密な人間関係としての恋愛まで伸し掛かってきてはたまらない。馬鹿げたことだと彼の言葉を切り捨てる。
「なぜ? 適任だと思うが」
「確かに言葉や、暴発除けの魔法は便利だと思いますけど」
「彼ならば君に不足しているものを補える。きっと守ってくれるだろう。我々のような嘘や誤魔化しに慣れた身からすれば眩しすぎるほどだ」
適当な誰かに責任を押し付ければ、自分の負担が減ると言わんばかりに。
「役立つとなれば男女の仲も道具の一つなんですか」
「目的のためには私的な感情を犠牲にすることもある」
男女の結びつきがまるで枷であるかのような物言いだ。
「そのために誰かを籠絡しろと。勝手なんですね、女であることを大事にしろと言ったり、女を武器にしろと言ったり」
「利用できるものは無駄にせず役立てればいい。食べられもしない人参であろうと馬を走らせる役には立つ」
愛玩動物扱いの後には人参呼ばわり。自分を餌に他人を操れとは質が悪い言い種である。こちらの咎めるような表情に気付いたのか、取り繕うように眼鏡の位置を直す。
「あくまでも選択肢の一つだ。一応はわずかながら帰還の可能性もあるのだから、すぐにこの方法を選ばなければいけないわけではない。だが心の端にでも留めておきなさい、我々は君を保護するための努力を惜しむことはない。君が弱くて心配であれば、君を守れるような人材を見繕う。それだけのことだ」
けれど、守るだけだったら別にレリスでなくとも構わぬはずだ。例えば目前の男、その彼に面と向かって「ならば、あなたが守ってくれるのか」と尋ねてみたら、いったいどんな顔をするのだろう。そこまで考えて、でも結局は想像だけで終わらせる。自分は本当にそんなことを望んでいるのだろうか。
考えることを放棄し、会話を拒否するかのように視線を逸らす。どれほど話し合ってもメレディスは理解しようのない相手である。何を考えているかすら分からない、この人の気持ちが分かるのは大抵は不機嫌な時だ。怒りも不満も収まってしまった今は、読み取りづらい表情へと戻ってしまっている。
長い話の結末はいつもこうだ。この世界を理解しようとしても、一人の男すら読み解くことができない。いずれ彼らの協力者になることを了承することになれば、人の心が分からないことは大きな欠落となるだろう。それが予想出来るだけに歯痒い思いを抱えたまま日々を過ごしているというのに。
知識を蓄える努力をしていれば何時かその不安を塗り潰し、迷いなく課題に専念することができるようになるのか? 報われるかどうか分からない努力であっても彼女にはそれしか出来ることはない。なのに努力を放棄して守護者にできそうな男一人をつかまえろとは──。
結論の出ないまま、柚希は首を横に振る。
口を閉ざし海の方へと目を遣れば、太陽が半分ほど水平線の向こうへと沈んでいるのが見える。この世界でも日没の方向を『西』と呼ぶのだろうか? 波打つ海はオレンジ色に染まり、元の世界とほとんど変わらぬ夕景を見せていた。響き渡る日の入りの鐘に気付き、そちらを向けば街の中心部へと向かう坂の上、ひときわ高い場所に夕日に照らされ外壁を赤く染める建物が見えた。あれが時計塔に違いない。
一日の終り。忙しく動き回ろうが、あるいは眠っていようが、何をしていても時間はゆるやかに流れ去っていく。沈む夕日は明日の朝には反対側の方向、つまり『東』から朝日となって日の出の鐘とともに昇るはず。そして自分たち二人は疑問や不満を封じ込め、何食わぬ顔をしていつもと変わらず語学授業を始めるのだろう。
依然として柚希とメレディスの間にある緊張感は改善されてはいない。しかし、それでも為すべきことがある場合には、大人しく従順なふりをして不愉快な感情を無視することもできる。だが皮肉にもその態度こそがついさっきメレディスに対して口答えした、目的のために感情を犠牲にすることそのものなのに。そのことに気付いて、自嘲で自分の口元が歪むのが分かった。
海から城壁へと吹き上げる風、上着は着ているものの気温はいささか肌寒い。猛暑の日本からこちらに呼ばれ、ようやく温度差に馴染んだ頃なのだ。春先なのか、あるいは秋の深まる頃なのか。目にする植物は初めて見るものばかり。そして石造りの街はどこもかしこも灰色で、季節の変化を感じにくかった。
そもそも季節と言ったって、この世界に日本と同じような季節の変化はあるのだろうか。ここがどんな所かを知るために街を眺めているのに、そんな基本的ことさえやはり分からない。結局、何も──。
慣れ親しんだ日本の景色がひどく懐かしい。派手な色合いの看板や統一性のない建築デザイン、都市機能を優先させて破壊された乱雑な風景を、こんな事態になるまでは好きになれずにいた。それでもああした世界こそが柚希の属する本来のもの、そこで小動物のように細々と一生を過ごす事こそが彼女の身の丈そのものなのだ。
考えるうちに、太陽は完全に沈みきる。あとは暗くなるばかり、眼下の景色もゆっくりと影へと飲み込まれてゆく。街の様子を見るために連れては来られたが、もうこれ以上は目で見て知識を得ることはできないだろう。
所在なくメレディスの方を見れば、いつものようにこちらを窺うように見つめているのが分かった。しかし幸いにも、もう相手の瞳の色も確認できないぐらいに暗くなっている。残り日の中でわずかに見える相手の顔の輪郭、整った綺麗な線。あの薄青い色さえなければ真正面から相対することは平気なのだと思い知る。
しかし目を見て動揺しないからといっても、メレディスと再び言葉を交わす気にはなれなかった。今、口を開けば出てくるのはきっと『帰りたい』の一言だろうから。
彼女が抱える唯一の願い。それさえ叶ってしまえば、言葉も魔法も、差別も権利もありとあらゆる物、世界そのものさえこれ以上彼女を苦しめることはできなくなる。ただの大学生に戻り、何事も無かったかのように平凡な日常生活へと戻っていくのだ。
いくら賢い珍獣であると持て囃されようと、所詮中身はそんな生き物なのである。慣れぬ環境で怯えながら、与えられる世話の意味を一々吟味する猜疑心の強い生き物。世話をしても一向に懐かぬ生き物は扱いづらいのであろう。しかし心を開く覚悟もなく、いまさらそうするのも遅い気がした。
つんとした鼻の奥の痛み。涙の気配を感じたが、泣く泣かないで言い合った後である。表情を見られぬように後ろを向き、海の方を見つめて滴が零れないように必死にこらえた。
露を含んだ夜気を感じる。湿っぽくて重い空気、それに似た気持ちを彼女は心の奥底へと静かにひっそりと沈め込む。
「戻ろう。風が冷えてくる」
肩を震わせた柚希の様子に気づいたのだろう。建物内部へ入るよう、メレディスは促した。




