36. 眺望
フィリーハ、──つい忘れがちになるがこの街の名である──、は港街だ。大陸を横切る大河の河口付近にあり、海を渡って取引される品々が集積する、この国の貿易の中心地の一つである。港で水揚げをされた品物はより小さな船へと移し替えられ、河川を利用して上流の大都市へと運ばれていく。
そうした運輸の中継地は当然のことながら防衛の必要がある。そのため港を囲うように城壁が造られ、街の歴史の初期にはその城壁の内側へと政経の主要施設が集中していたのだという。王都でこそないものの高さと厚みを備えた堅牢な城壁は王都以上の威容を街の外観に与え、それ故にまた安全な寄港地を求める貿易船を呼び寄せることとなった。その結果、堂々とした外観にふさわしい更なる富を、増えゆく商取引から吸い上げることに成功をする。
ただし経済的に発展した街は成長するのも早い。やがて収まりきらなくなった住民が、城壁の外側へと移住するようになり、徐々に都市機能の中心もそちらへと移動していった。すでに人の住んでいる場所よりも開いた広い土地のほうが都市計画を立てやすいため、官庁街や住宅街が一通り建て替えられた頃には港付近はすっかりと街外れ扱いである。
当然、街を囲む城壁も新たに作り直され、港付近の旧城壁は重要性が失われてしまったのだが、かといって撤去をするにも費用と日数を必要とする。その手間を惜しむと同時に、丈夫な建築物だったことを利用して魔法研究所が拠点を移してきたのだ。
「大規模魔法の実験は、常に暴発の危険と隣り合わせだ。城壁の分厚い壁は衝撃を防ぐには非常に優れていたと考えられての転居だったが、しかし研究所向けには造られていない。改装と増築は繰り返したもののすぐに手狭になって、最終的に新しい研究所が新市街の方へと建造された。その時にこの研究所の全てを引き払っても良かったのだが、今度は騎士団がこちらに召喚魔法対策課を設置したせいで何らかの部署が必要だとして、この支局が設立された」
あとは知っての通り、毎日のように支局と騎士団で大量の書類をやりとりし、召喚魔法関連の事件が起これば関連機関として意見をする部署となったのである。
「しかし書類仕事だけならこの支局がなくても構わないのだが、そこが支局長の思惑ということだろう。色々と理由はあるが、ともかくここは本部とは距離がある。あちらで折り合いの悪い人材を隔離するには丁度良い部署だと思われている」
相変わらず教師としては優秀で、事実を淡々と述べるだけの説明は分かりやすい。彼の従事する書類作成という仕事がそうした性質のものなのだろう。ただしあまりに無駄が無さすぎてそこから話題を広げることもできないのも確かだ。そのため柚希は大人しく彼の話を聞き、適当に受け流してなどいないのだと主張する目的のために相槌を打っていた。
空間に声は響いているものの、印象としては静まり返っている奇妙な時間。歩幅を合わせてくれているのか、息は上がることはない代わりに歩みの進みは緩い。ある種の気遣いなのだろうが、それがそのまま親切ゆえの行動だと限らない。観察なのか監視なのか、挙動を見張るためには傍にいるのが一番だ。距離が離れてその隙に逃げ出さないように、そんな注意を払っているがゆえの歩みの速度。
現に、彼女が遅れていないかを確認するかのように時折ちらちらと視線が向けられる。物理的な拘束はないものの、薄青いそれのせいで心理的に捕らえられ逃れることも叶わない。結局はかなりの距離を歩き、階段を登り切った場所まで到達をした。
そこにあったのは頑丈そうな木の扉である。当然のことながらこちらの人々の体格に合わせたサイズで、柚希にとっては大きすぎると感じられる代物だ。鍵などは掛かっていないらしく、特別な操作もなしにメレディスはその扉へと手を掛けた。
「この外が──」
隙間から入り込む風の音に、わずかだけ言葉の語尾が掻き消される。けれど言わんとする事は分かっているというべきか。この街を見渡せる高い場所、物見塔の屋上である。
当然のことながら、そこにあるのは屋根のない空間だった。転落防止のためだろう、柚希の肩ほどの高さに手摺壁が巡らしてある。そのために建物の足元近くは見ることはできないが、遠景は確認できた。自分たちのいる塔は海付近、そこからなだらかな丘を駆け上がっていくように建てられた多くの石造りの建築群、それがこの街の全貌のようである。
見える自然物は夕日の色が混じる空と、波頭を金色に染めた海だ。遠くに存在している野山を遮るのは石を積み上げた防壁で、それが陸地ばかりでなく海へも張り出し、ぐるりと街全体を覆っている。強固に守りを固めたその様子は、この地域にとって戦乱がそれほど縁遠いものではないことを物語っているようだった。
「他に新規の設備ができたせいでこの見張り塔自体は戦闘施設としての役割は失われているが、昔はここで海からの敵襲を警戒していた。だから見てみると良い、港の様子は遮るもの無く見ることができるはずだ」
言われるままに外壁へと近寄る。いざ戦闘となればこの場所から弓矢などで攻撃ができるようにとの設計だったのだろう、外壁の所々には狭間として細長い穴や凹みが設けられている。その内の一つへと歩み寄れば厚い壁の向こうの景色の中、やはり守られるように壁に囲まれた入江にかなりの数の大型船が停泊しているのが見える。
「大きな街なのですね」
港を見、そこから真っ直ぐに伸びるメインストリートを見下ろしながら柚希は感想を口にした。
日暮れ間近の時間帯、仕事を今日中に片付けようとしているのだろう、多くの荷があちらこちらへと石畳の道を行き交うのが見える。当然のことながら荷を積むのはエンジンで動く車両ではなく、馬に牽かれる荷車である。遠目のため『馬』と見えた動物が本当に文字通りのものかの判別はつかなかったが、頭部が面長なところや鬣がふさふさした様子は元の世界にいる生き物と酷似していた。もちろん牽引用の品種のためか、柚希の記憶にあるサラブレッドのような速度を求めて品種改良されたすらりとした馬とは異なり、骨格も四肢も太くがっしりとしている。
そして荷車の動きを目で追えば、大通りを外れて細々とした路地へと入り込んでいく。向かう先は巨大な建物がいくつも建つ街区だった。大きいけれど飾り気を廃した特徴のない建築物、実用一点張りのそれらは荷を一時保管するための倉庫なのだろう。その周辺がメインストリートの直線と較べて不規則に狭く曲がりくねっているのは、都市計画以前に出来た区画だからかもしれない。再開発の際に交通の大動脈だけを最優先に貫通させた、そんな雰囲気の対比である。
わずかに残る隙間を埋めるように成長してきた街、上から見ればその無秩序さがよく分かる。この規模にまで建築物を増やすにはどれほどの年月を必要としてきたのか。そしてこれほどの広さの街区がありながら、なおも新たな街を外側へと広げるというのだから、この街の経済水準は破格のものだろう。
柚希は自分の経験に引き寄せて考えるために、進学の際に下宿して一人暮らしを始めた頃のことを思い出していた。最寄りのコンビニですら三十分レベルの田舎娘にとっては都市生活の動きの早さは目を見張るべきものであったが、この街の様子も似たようなものだ。多くの人が暮らし働く忙しなさ、街と外との境界線が城壁という目に見える形で提示されているだけに、より濃密に凝縮されているかのようで目も眩む。
「貿易により豊かになり、富を蓄えたからこそ他にない珍しいものを求め、様々な手段を駆使する」
ここでどれほどの経済活動が行われているのかの予想に圧倒され、無言で凝視している彼女にかけられる声。振り返れば、メレディスが少し離れた位置に立つ。倉庫街へと視線を巡らせる彼女が何を考えていたのかを察したのか、そこで扱われる品々について言及をする。
「召喚生物もそうした商品の例だ。表向きには禁止され、摘発を継続してはいるが、魔法で召喚した生物を秘密裏に取引する組織は少なからず存在している。君を召喚したのもおそらくはそうした組織の一つだろう」
まるで元の世界での違法物品の密輸入のように。
「豊かな街であるからこそだな。おまけにここには巨大な港がある。この街で買い手がつかなくとも他所へと運び出すことも容易だ」
何が起こっているかも知らされぬまま物のように取引され、いつの間にか港を出入りする船の中にでも転がされていた可能性もあったのだと。胃の腑に重いものを感じる。
召喚魔法に言及すれば柚希がどんな感情を引き起こされるのか、彼が予測していないはずは無いのだが。しかし語る声は冷然としたものだった。批難の気持ちを示そうと視線に力を込めれば、それを躱すかのようにメレディスは外壁へと身をもたせかける。
説明は終わったとでもいうような態度、召喚生物の取引の話は故意に持ちだしたわけではなかろう。そう思い、彼女は肩の力を抜こうとするが、すぐに相手が事問いたげな表情に変化しているのに気付き、つい問いが口をついて出ていた。
「あの、何か?」
「どこまで君の知識欲が満たせたのかと考えていた」
遠慮がちな問い掛けに対して、珍しく穏やかな調子での返事。教師の役割を果たす上でのアフターケアについて考えていたということか。
様子をうかがっていると、彼は考え込んで眼鏡を避けるように自らの額をさすっている。教師と生徒、保護者と被害者。何だって構わないが、私情を挟まないで役割を演じているうちは自分たち二人の間には平和な空気が流れるのだ。
──いつもこうならば良いのに。
貴重な雰囲気に心のうちでこっそりと願いつつ、続く言葉をうながすように小首を傾げてみる。
「この街のこと、そこからさらに広げて社会や政治、歴史。どれだけのことを君に教えなければならないのか。そうしたことを教育すれば、それほど苦労することなく理解するだけの知性が君にあることは分かっている。だが与えられる知識を貪欲に吸収したとして、結果的に君はどうするつもりだ?」
会話とも独り言ともつかぬ言葉の終わりに質問が付け足され、柚希は逸れかけた思考の中から慌てて答えを探す。が、出てきたのは単なるオウム返しの単語に過ぎなかった。
「どうする、って──」
「君自身が言ったことだ。帰れないのであればこの世界に腰を据える、そのための知識がほしいのだと。今こうして見ている物は『この世界の全て』というには到底及ぶはずもない。だが、ほんのわずかであろうと君が知りたいと望んだものだ」
確か、そのようなことを言って無理難題を押し付けたような気がする。けれどそんな大きすぎる望みは不可能だと分かっていて、彼は今の瞬間に出来る範囲を果たすためにこの場所へと彼女を連れてきたのだ。
「ここで得た知識で君が今後どうするつもりか、何を望むのか」
「私のこれから、人生設計ですか」
少しばかりを知ったからといって何が決められるだろう。だが、それは元の世界に戻ってからの人生であっても同様のことである。大学を卒業してから就職し、結婚して家庭を持って──。より多くを知っているはずなのに、自分が属する世界での未来ですらその程度の計画しか持ってこなかったのだから。
こうした自分の甘さも見透かされているのかもしれない。答えあぐねていると、返答も必要ないと言わんばかりの様子でメレディスが口を開いた。
「今までもずっとそのことを君に訊いてきたつもりだが。君がここにいることを望めばもちろん許される。出て行きたいと思うのならばそうすれば良い。我々としては、留まっていて欲しいと思っている」
「それは珍しい生物を身近で観察するためですか?」
あくまでも彼女はこの世界にとっては異物なのである。見た目の違いは人種程度しかないといっても、厳密には同じ人類といえるのかどうかすら不明だ。
抱えている文化や文明の隔たり、似ているようでどこかが決定的に違う、その差異に興味を惹かれているのに違いない。常に目を離さず、注意深く見つめ続けなければ見逃してしまうようなそんな小さな点。それを捉えるために傍においておきたい、そんな冷徹な観察者の目──。
「自分の飼育している家畜に他から余計な世話を与えられたくないみたいに。死なない程度に世話をして、芸を教えこんで。役に立てば良し、そうじゃなくても珍しいから手元にいるだけで満足して」
「『家畜』などと、自分を貶めるような言葉を使うのは止めないか。一応、我々はそうした社会を改善しようと思っているのだから」
冷たいくせに、肝心なところでの声音だけは和らかい。けれどそんな優しさは今の彼女にとって慰めになるわけでもない。彼には柚希を気遣うだけの理由があるためだ。
「でもこちらの人間と完全に同じにはなれないのでしょう。だからこそ、私を協力者としてあなた方の計画に誘っている」
違法な召喚で呼び寄せられ、元いた場所に戻れぬ被害者たちの待遇を改善するための切り札。知性や意思があり、非道な方法に対しての怒りを訴える。彼女はそのための代表なのだと。
「あなたは私のことをどう考えているのですか? もちろん好き嫌いという意味ではありません。あなたたちの目的にとって私の能力は利用できるのかどうかです」
いくら知性を備えていようとも、政治の分野では彼女は素人だ。そんな素人が付け焼き刃で難しい役割を担わなければいけない。鳥籠のそばで笛を吹けば小鳥がそのメロディを囀りだすかのように、耳元で囁かれ教え込まれる政治的な言葉を公の場所で彼女は叫ぶことになる。
「あなたたちの望む役割を果たせなかったら私は何者なのですか。私をここに留めるだけの価値がないのだとしたら」
「だとしても我々には責任がある」
答は彼自身の立場を強調するものである。だが聞きたい答えはそんなものではないのだ。
「すぐにここから放り出されるとは思っていません。でも魔法も使えない女なんて家畜以下でしょう? 役に立つどころか厄介者かもしれない」
「そうだな、少なくとも魔法に関しては君に魔力を感じる能力そのものがない。それを補う何らかの方策を考える必要はある」
魔力を使って魔法の作用を引き起こす手振りをしたり、魔法の仕組みを図にした物に魔力を流し込めば魔法が発動する。その程度の仕組であれば、たとえ魔法に縁のない世界の住人である柚希であっても理解は可能である。ただし頭では理解できても身体がそれを感じるようにはできていないという時点で魔法に関しては絶望的なのは間違いない。
──そう、やはり。
乗り越えられない壁を確認させられ、もう何度目かの不甲斐なさを噛みしめる。だが話がそこで終わるわけではなかった。
「たった今、『家畜』というのは止めろと言ったはずだ。できないことを挙げたらキリがない。けれどそうしたことを一つ一つ乗り越える覚悟が君にはできている、知識を得ることはその取っ掛かり、そう考えているのだと思っていたが」
落とされる言葉に失望や軽蔑を思わせるような色合いはほとんど感じられない。しかし期待されるほど彼女が優秀でない可能性を突きつけられて、厳しい言葉を紡ぎだす程度には不愉快だと思ったのか。
「あるいは覚悟もなく『知識』などと言い出したのか。そう答えておけば、君が真剣に現実に向き合っているのだと私が受け取るのだと期待して」
柚希の示した知識欲は、その場しのぎの間に合わせだと断じられる。その結論が悔しい。
だが語られる事実は全て正論だ。そして正しいゆえに反論を口にする隙も無い。柚希は敗北感に黙りこくり、視線を逸らすように俯いた。




