31. 雑誌
中へと入ると、そこは図書室のような雰囲気の部屋であった。規則正しく置かれた書棚と、辺りに漂う時間を経た紙の匂い。見渡せば、棚の中には前にも見たことのある冊子状に綴じられた資料が隙間なく収められている。
背表紙に記されているのは数字といくつかの単語。分類番号なのか日付なのか、字面をなぞって発音することはできるようになったが、一目で意味を解読するほどの言語能力は今の柚希には無い。たとえ文字が読めようとも、ここまで大量の文書の中から彼女が必要とする一文を見つけ出すことなどできるのだろうか。
そもそも、ここに来る以前に最も大事なことを忘れている。
「それで、何を調べるんでしょう?」
棚に並ぶ読めない文字を見つめながらレリスに尋ねてみた。連れて来られたはいいけれど、何をする予定だとも決めていない。調べ物とは言っても、その調べる事そのものも分からない状態なのだ。
途端に彼の表情が途方に暮れたようになる。そして辺りの棚をぐるりと見回し、一言つぶやいた。
「えっと、これだけあると大変だね……」
消え入りそうな語尾に、まさかのノープランだったことを知る。
彼が親切なのは認めるが、その親切が本当に彼女を助けるかどうかについては一度考えなおしたほうが良さそうだ。こうして特別な場所に連れて来られても目的がないというのでは、かえって迷惑と捉えられても仕方ない。
気持ちが先走り後先を考えず行動に移して、ということなのだろう。幻滅とまでは行かないけれど、レリスが途方に暮れているのと同様に柚希も戸惑った。
嫌な沈黙。それを打ち消したくて、慌てて口を開く。
「どんな資料が置いてあるんでしょうか?」
せっかくの気遣いを無駄にして、相手の面目を潰してしまうのも申し訳ない。それに今は役に立たなくても、ここにあるものが何なのかぐらいは知っておいて損はないのではないか。
ノープランなだけに相手の返答にあまり期待はしていなかったものの、質問されたことでレリスは戸惑いから立ち直ったらしい。すぐに答えを返してくれた。
「ああ、うん。魔法に関係するものが多いんだ。技術的な研究についてのものもあれば、魔法を悪用した犯罪についての調査記録。もちろん召喚魔法に関連したものも」
「とりあえず、今の私に一番関係のありそうなのは召喚魔法について、でしょうか」
羅列された項目の中から気になるものを選択した。
「私の世界から何かを呼んだことがあったのなら、その記録が知りたいです。前にも門が開いた例があるなら参考になることが分かるかもしれませんし」
どこから呼ばれたか、どんなものがやって来たのか、そして帰った前例はあるのか。ここは召喚魔法全般を扱う施設なのだから当然それに関わる資料もあるはずだ。特に帰還の前例は、どこまでの難易度であれば魔法が可能かを知る手がかりとなる。帰れる可能性は低いと言われ続けていても、望みを捨ててはいけないのだと思っている。
話しているうちに相手の表情が変化するのが分かった。何かを思いついたかのようである。
「なら、丁度いい場所がある。奥の方の部屋なんだけど」
方針がはっきりして張り切ったのか、柚希の答えを待たずに歩き出した。当然彼女は追いかける他はない。やはり彼は先走り過ぎである。
早足で追いかけ、ある扉の前で彼に追いついた。そこが今度の目的地のようである。
「僕も二、三度しか入ったことはないんだけど、古い資料の部屋だよ。ここは研究所だから一般人が善意で珍しいと思った物を持ち込んでくることがある。その中に時々は貴重品もあるけど、大部分はそれほどでもない品なんだ。だけど、どんなものでも『資料』として持ち込まれたら捨てるってわけにいかない。だからこんなことになってる」
言いながら開いた扉の先に広がるのは混沌。これまで通ってきたエリアとは様子が異なっている、雑然と物が積み上げられている小部屋だった。
「引っ掻き回した後みたいですね」
「そうだね。資料室というよりは掃き溜めだと思う」
思わず飛び出た感想に、レリスが苦笑交じりに答えた。
「重要度の低い資料をとりあえず置いておくんだけど、そういうのって整理が後回しになってしまうから……」
乱雑な様子には馴染みがある。大掃除で部屋の整理をするときのこと、限りある収納スペースを有効活用すべく、収められた全ての品を分別のために部屋へと広げたのに似ているのだ。収納ばかりではない、部屋だってそれほど広くはないから置ける場所は多くない。必然的に狭いエリアに大量の品を上へと積上げることになる。結果、部屋中に何だか分からない物品で出来た塔が何本もにょきにょきと伸びていくのだ。
それと同じような状況が、資料室の片隅で起きている。ただし場違いな生活臭を感じつつ積み上がる物品を眺めれば、やはりというべきか中の物は馴染みのないものが多い。破損しそうな品は予め壊れないようにと箱に収められているようだが、段ボールが存在しない世界だからか木製の箱である。けれど高く積み上げた時点で崩れたときのことを考慮していないのだから、破損防止の用心は意味が無い気がした。
そしてこれらを収納場所の外へと放り出した時点で一仕事終わった気分にでもなったのか、積まれたままの形で長いこと放置されているようでもある。行儀が悪いのは分かっていたが、柚希は山の天辺を指でなぞり、薄っすらと溜まった埃の量を確認する。よく分からないが年単位での放置かもしれない。
他が整然としているだけに、この整頓の放棄は奇妙な感じがした。雑多な品の量が多くて見るたびにうんざりし、結局手付かずで打ち捨てられたというところなのだろうか。
それに下手に触れば崩落の危険もある。
事実、いくつかの山は柚希の身長をはるかに超えた高さとなっている。こちらの人々の身長ならばようやく手の届きそうな高さでも、彼女には足場が必要な位置に箱やら冊子やらが載っている。そんなところから物が落ちてくれば打ち所が悪ければ大怪我だ。
結局、この部屋を整理すること自体が大掃除の意味合いを帯びてくる。しかも収められている物品が資料とゴミの中間あたりを行き来している程度の価値しかないのであれば、特別に手をかけるような暇はない。この混沌は成る可くしてここに存在しているということだ。
しかし呆れ果てる量である。溜息を吐きつつ柚希は疑問を口にしてみる。
「こんなに集めて捨てられないものって何でしょう?」
「見れば分かるよ。大体は変わった生物の標本。召喚された生物もいるけれど、こちらの生き物だけど単に見たことがなくて一般人が知らない程度の生物が持ち込まれることもあるよ」
説明されて置かれた箱の一つを見てみれば、ガラス製の蓋がされた中に小動物の剥製が収められている。その姿は羽の生えた蜥蜴のようで後頭部には小さな二本の角まで備わっていた。元の世界では想像上の存在にしかすぎないが、魔法の世界でならばいてもおかしくはない生物だ。
「竜の子供ですか?」
思わず質問してみると、レリスは箱を覗きこんで小さな笑い声を立てた。
「いいや、違うよ。似てるから間違えられやすいけれど、見た目だけ似た生物なんだ。竜はもっと大きくて魔法を使う生き物、それはその大きさでもう成獣だよ」
そう言ってその生き物の名前を教えてくれたのだが、当然のことながら固有名詞なのでよく分からない。覚えるのが面倒になり、柚希はそれを『ドラゴンモドキ』と呼ぶことに決めた。雁擬みたいな呼び名だが、この生物であると識別できればいいのだから適当でも構わないだろう。
「見た目が竜に似ているから、まだ召喚魔法の規制がない時期に大量に召喚されたんだ。もちろん研究用になんだけど、全然魔法を使わないからすぐに研究者は見向きもしなくなった。でも頭は良いみたいで芸をよく覚えるから、いまでは愛玩用として普通に街での飼育が普及しているよ」
わざわざ標本を残す必要もない、今では生きているものがいくらでも見られるのだからと説明が続く。そのために古い標本を保存する場所を惜しみ、こんな物置のような場所に押し込まれているということだ。
なんとなく彼女自身の未来を暗示していると思えなくもない。最初は物珍しかったために資料として収蔵された生物が、価値観が変化したせいで見捨てられてしまった前例である。碌でもない予想だが、体一つで外の世界に放り出されるのと比べてどちらが幸せなのか判別はつかない。たとえ管理下にいようとも今の状態が続くのならば生活の心配はない、くちばしを開けば餌を押し込んでもらえる程度の保護は約束されているのだから。
ともあれ、ここに来た目的を果たさねば。しかし問題もある。
「でも、これ全部を調べるのも時間がかかりますよね?」
山の高さが気になって、そう尋ねた。
「違う、床の上の良く分からないものを調べるんじゃないよ。目的は資料の分類を記録した目録なんだ。それを見れば君の世界に関連するものがあるかどうか記録されているかもしれない。ここへ収蔵された時期も分かるから、召喚魔法が行われた時期もだいたい推測できるだろうし」
レリスは言いながら、部屋をぐるりと囲むように並ぶ棚を指差す。そこには小部屋に入る前に見てきたのと同じような冊子が、やはり似たような整然とした様子で詰め込まれていた。床の混沌とは大違いである。
「ちょっとだけ待っててくれる? まずは何年か分だけ調べるから」
そして棚の冊子を引っ張り出し、彼は中身を確認し始めた。邪魔になっては悪い、しかし他にすることもない彼女は未整理の資料の山をぼんやりと眺める。
調べ物の手伝いはできないが、ここに置いてある物そのものには興味をそそられた。いくら社会問題化するほど召喚魔法が行われると言っても、自分以外の召喚生物も、こちらで珍しいとされる生物もほとんど目にする機会はなかったのだ。見せられたのは中庭の植物ぐらい、研究者にとっては珍しいものかもしれないが、専門家ではない柚希にとっては何がどう貴重なのか今ひとつ実感できない。それに比べれば、初めて目にするような奇怪な姿の生物のほうが珍奇さが実感される。
そう思って、積まれた標本の中身を幾つか確認をする。不安定な山を崩さないように、覗きこむのは手に届く範囲の安全そうな物だけではあるが、その僅かな範囲ですら彼女が知らない生物の標本ばかりが収められている。今は解説を求めることはできそうにないが、待つ時間の退屈を忘れて標本に見入っていた。
その時、山のうちの一つで視界の端に思いもよらなかったものが過ぎる。積まれた箱の間に挟まった紙の束。中綴じになった本が数冊、その表面には彼女が長年馴染み親しんだ物の姿が。
初めは目の錯覚かと思い、もう一度目を凝らしてその辺りを見た。そして上に重なった箱を慎重に取り除き、やっぱり間違いないと確認しそれを手に取った。
「これ」
「なに? どうしたの」
柚希の思わず上げた声に反応して、別の冊子を探っていたレリスが振り返る。そして彼女が手にした本へと目を留める。
「なんだか派手な色合いだけど……」
「私の世界のものなんです。発行年数は古いんですけど、間違いなく日本の物なので」
表紙に印刷されていたのは『特集・話題の都内デートコース50選』の文字。彼女が生まれた頃の年号が入ったそれは、人気の飲食店やファッション関連の事物を紹介するタウン情報誌だった。
表面の埃をはたきページをめくる。文字よりも写真の割合が多い雑誌である。
「君の世界? 本、だよね?」
一旦引き出した資料を元の棚へと戻してからレリスは柚希の下へと歩み寄り、彼女の手にする雑誌を興味深げに眺めた。
「僕はこの文字を読めないけど、なんて書いてあるのかな。大事な物だったら……」
「あの、大した内容ではないんです。流行っているものを紹介する本で、時期が過ぎれば時代遅れになってしまうような記事ばかりなので」
事実、雑誌の内容はあまりに古すぎて、今の柚希にとっては滑稽に思えるファッションばかりが載っている。メイク方法は唇を強調したものが主流の頃で、口紅の色は鮮やかすぎて派手だった。けれど写真に映るのは紛れも無く日本の日常風景だ。
考えてみれば、召喚されるものは生物だけに限らない。中庭に異世界の植物を集めていたぐらいだ、動物や植物ではない無生物だってこうして呼び寄せられることもあるのだろう。その中で珍しいと感じたものがこうして研究所へと集められているということは。
「前にも向こうの世界と繋がったことがあったんですね」
どんな状況でこの雑誌がこの世界へと呼び寄せられたのかは知らない。しかし発行された時からこの小部屋へと収蔵されるどこかのタイミングで召喚魔法が行われたことは分かる。元の世界へ門が開いた確かな証拠だ。
「これは絵なのかな。本物そっくりに描くのってすごいと思うけれど」
開いたままのページに載った写真を見つめ、レリスが尋ねてくる。その発言に、こちらではカメラが存在しないことを知る。
「絵じゃなくて写真なんです。見えているとおりに風景を写しとる技術があって、えっと……」
仕組みが説明できず、もどかしい思いが募る。一旦まとめようと口を閉じて適切な言葉を考え始めるが、それを途切れさせるようにレリスが微笑みかける。
「大丈夫だよ、言おうとしていることは分かったから。じゃあ君はこのままの景色を見ていたんだ」
そう言われ、無言でうなずいた。
「こういうところに暮らしていて……。誰も武器は持っていないんだね」
尋ねられる言葉に武器という単語が入っていて、どれほど馴染もうとこの世界は自分の属する場所とは別なのだと思い知らされた。決して治安が良いとはいえない危険な世界だと聞かされている。大学生になり親元から離れて暮らすようになっていたから、知らぬ場所での生活もなんとかなるのだと思っていた。けれど剣と魔法の国は、そのどちらの技術も持たない彼女にとっては一人では生き抜くことの難しい世界だ。
失ったものは大きいのだと思う。空気のように当たり前にある安全と、慣れ親しみ意識することもなく使いこなせる科学技術。それら欠けたものを補うために誰かに縋る、一人で生きられぬのであれば支えてくれる誰かを見つければ良いのではないか──。
ページを繰る手が止まった。親密そうな男女が互いに身を預け、繁華街を並んで歩く写真。視線は雑誌の上に留まっているが、心は出口のない思索を彷徨う。
雑誌の内容はありふれたもの、それだけに二つの世界の違いが際立つような気がした。町並みの写真に他愛のないキャプション、夜景が素敵、散策にうってつけ、おしゃれな店が並ぶ、など。相手もいなくてデートなんて縁もなかったけれど。
少しランクが高めの大学を目指していたから、勉強ばかりで恋なんてする暇もない。そのことに後悔は無いけれど、気がつけば二十歳を目前にして彼氏いない歴がイコール年齢の女だ。受験が終わり心や時間にも余裕はできたはずなのに、十代も後半になってしまえば恋愛という未経験の事柄に目を向けるのが恐ろしいし、自信も無い。ましてや環境の違う剣と魔法の世界で恋をする覚悟なんて当然あるはずもなく。
止まった手元へと遠慮無く向けられる視線をひしひしと感じる。
周囲にからかわれつつも肝心な一言をレリス本人は口にしていない。けれども、こうやって彼女に関わろうとする意図はぼんやりと理解できる。だが好ましい相手ではあっても、自分の気持はそこまで高まっていないことは自覚している。好意が向けられるからといって、こちらも同じように相手を好きになれるわけではないのだ。
彼は気付いているのだろうか、彼の好意を受け入れるかどうか以前に彼女には帰還の問題が立ちふさがっている。言葉通りの意味で、彼女は住む世界が違う人間だ。彼女が帰ってしまえば二度と会えぬ相手に彼は未練を残す必要など無い。きっと麻疹の熱から冷めたかのように、すべては忘却の彼方へと向かう。
だから未来の定まらない今は、向けられる感情をどう扱うべきかを決めかねていた。差のある歩幅と同じように、彼の気持ちは何処へとわからぬ方向へと何歩も先を突き進んでいる。けれど柚希にはそれへと付いていくための覚悟はできていない。彼のその気持は、それこそ近くにいる女性が少ないための興味にすぎないかもしれないから。
黙りこむ柚希の姿に何を彼が感じたのかは分からない。しかし一冊の本が彼女の心を揺すぶったのだということは分かったらしい。読み捨てものの雑誌、それ自体の価値は重くなくとも彼女と元の世界とを結ぶ確実な糸だ。
「この本について調べてみようか?」
穏やかに宥めるような声でレリスが言う。




