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30. 真綿

気が()いて小走りになっていた。


考えなければならないのは今日の分の復習のこと。自分の勉強が遅れれば、それだけ他人の時間を奪うことになる。今の(ゆる)やかな生活すら特別扱いだ、さらに周りの迷惑を(かえり)みず素知らぬ顔で居座り続けられるほど柚希の心は図太くはない。


それに勉強なら受験で慣れている。むこうとこちらの常識の違いなど関係なく、机に向かい覚えるべきことを頭に叩き込めばいいだけなのだ。楽しくはないが、集中すれば今の自分の置かれた状況を忘れることもできる。立ち向かうのは初めて対面する文字であっても、元の世界だって馴染みが薄く読めない言語はいくらでも存在しているのだから。


「待って」


急ぐ背中へと声がかけられる。レリスだ。


その声を無視して足を速めるが、いくらも行かないうちに追いつかれて腕を掴まれてしまった。身長差のあるぶん、歩幅も違うのだ。


振り返れば鮮やかな色の青い目が彼女を心配そうに見下ろしている。何を心配することなどあるのか、彼女には今日の分の復習をするという予定が待っている。


時間が惜しい。返事もせずに視線を逸らす。


「悩みがあるんだよね? 僕で良ければ話してくれないかな」

「別に話すことなんてありませんから」

「だって、あんなふうに慌てて出て行ってしまうから……」


退室を願い出たときの様子を誤解されてしまったようである。しかし悩みなどというものではない。ただ、いたたまれずにその場を飛び出してきてしまっただけだ。


「いいから、放してください」


会話を打ち切ろうと素っ気なく聞こえるように言葉を選ぶが、その態度すらレリスの心配を払拭(ふっしょく)することはできない。かえって心配を増してしまったかのように、腕を掴まれたまま間合いを詰められ顔を覗き込まれた。反射的に身を(よじ)るが、逃れられないように身体を壁へと押し付けられる。


体に触れば暴発の可能性もあり、その事実を彼も知っているというのに。しかし暴発除けの魔法は彼担当だから、安全な触り方を知っているのかもしれない。原理については一応の説明をされたが、例のごとく魔法に関しては理解できなかったので「そういうもの」という認識に過ぎない。


とにかく強引な行動に驚く他はない。


「前にも言ったことを覚えてる? 困った事があるんだったら何でも相談に乗るから、ね?」


至近距離で顔を突き合わせ、念を押される。


「君は被害者なんだ。こっちに連れ去られたことで無くした物は大きいはずだよね? だからその埋め合わせになるぐらいの要求はしてもいいと思うけど」

「別に、何も」


こんなのがまともな相談といえるのか。冷静さを装いながら、何とか声を出した。


「心配は要りませんから」

「遠慮しないで正直に言って。悩みは何?」


困っているのは言葉の学習進度だけだ。だがレリスは、彼女がもっと個人的なことで悩んでいるのだと信じている。確かに色恋に絡めてからかわれることは困るけれど、所詮その場で済む単なる冗談だ。経験がないから対処には困りはするものの、実体がないのだから時間が過ぎれば収まることなのだと思っている。


けれどこんな風に引き止められ、悩みの相談と称して話している様子を人に見られれば、メレディスの言葉ではないが仲を疑われるのも仕方がない。壁に押し付けられ、顔を覗きこまれて、今の二人がどんな姿に見えるかレリスには想像力が至らないのだろうか。


あくまで彼女を引き止めるためで他意は無いかもしれないが、異性とこんな状況になった時にどういう表情でいれば良いのかもわからない。怒るべきか、それとも振り払うほうが先か、ともあれ今のこの姿を通りかかる誰かに見られれば、誤解を解くのは大仕事になるに決まっている。


だが逃れようとも、力の差があるのだろう。押しのけるように肩を動かすが、相手の腕はびくともしない。武器は使えなくとも騎士であることには変わりなく、それなりに腕力はあるのだと思い知らされた。これまで荒々しいことに巻き込まれた経験がないだけに、どう対処していいのか分からない。しかもその相手がレリスだというのが怖い。


もちろん彼の親切に対しては感謝している。この環境にすんなりと馴染めたのも恐らくは彼の気遣いによるところが大きいだろう。しかし彼はこの世界における過保護の筆頭でもある。だからこそ、ああした冗談の標的にされてしまう。


本人に悪気はないのは分かっている。けれど親切心が発揮されるときに一々誤解を招くような行動を取るのも確かなのだ。年頃の男女が至近距離にいることで起きる『間違い』について、何度も注意を受けるのも当然であろう。壁際で身体を拘束されているのが適切な距離だとは思えない。


「部屋に戻るだけです。だから──」

「だって君、このまま部屋に戻って閉じこもるつもりだろうから。外は不安で仕方ない?」


押し付ける腕をどうにかしようと、哀れっぽく訴えるが彼は聞く耳を持たない様子。『閉じこもる』の単語に、自分がそんなふうに見做(みな)されているのかと愕然とする。まるで巣穴に籠って敵をうかがう小動物のようだ。しかし客観的に考えれば小動物という評価も的外れではない。保護が必要な弱い生き物だ。


今のところ命の危険からも、この世界にあるという召喚生物への偏見や差別からも柚希は遠ざけられている。だが、もしも彼女が帰れないことが確定したら、彼女はそうした害意と向き合うことを要求されるはずだ。ぬくぬくと真綿に包まれ守られているだけでは分からないことだらけ。さりとて抜けだして外の世界を垣間見ようにも、真綿(まわた)の繊維はその優しげな見た目に反して強情だ。平気だ、大丈夫だと訴えても、彼は納得はしないだろう。


半ば諦めの心地となりながら相手の顔を見上げた。こちらの世界に住む人たちは全体として身長が高い。そのためにレリスと並ぶと、背の低い柚希の頭は彼の肩よりも少し低い位置に来る。いくら年齢がこちらでの成人年齢を過ぎているのが分かっていても、ここまで体格差があるとやはり未熟に見えてしまうのだろうか。


そのためか基本的に彼女の扱いは子供に対するようなもの。それがとても歯がゆくて、語学の習得にすがりついている。もっと年長者が使うような言葉遣いを覚えて、しっかりとした発言をできるようになれば多少は子供扱いも改善されるかもしれない。しかし外面(そとづら)を変えれば、周囲の扱いが変化するという期待自体は子供っぽい発想なのかもしれないけれど。


何にしろ一度きちんと向き合う必要がある。意を決して自らの表情を引き締めた。


「身体を放してくれませんか。この姿勢は嫌です」

「あっ、ごめん」


ようやく自分がとっている行動の意味に気づいたのか、慌てた声を上げて手を放した。そして何かを意識したのか二、三歩ほど大きめの歩幅で後退る。わずかだが真綿を緩めることには成功したようだ。


「私、そんなに頼りなく見えるんですか?」


言葉を選び問い(ただ)す。自分の声音が固く、無愛想であるようにと願う。少なくとも(こび)を売っているようには聞こえませんように。強くはなくても、すぐに(しお)れるような軟弱な生物ではない。


「だって女の子だし、小さいのに」


やはり子供扱いである。性別や体格は努力では何ともならないが、だからといって過保護の押し売りをいつまでも続けられるのも困る。


「一応、歳相応に物を考えているつもりです。でも見た目は仰るとおり子供みたいかもしれませんけど、心配ばかりもしていられませんから」


確かに漠然とした不安はある。しかし不安だからと立ち止まる暇などは無いはずだ。


目前の問題に解決のための優先順位を付ける。できれば元の世界に帰ること、言葉を覚えること、この世界を知ること。このうち帰ることについては柚希自身には手が出せない事柄の上、話を聞く限りは絶望的と言わざるを得ない。かすかな希望は持ってはいるものの、駄目だと結論づけられた時に諦めがつく程度には覚悟はできているつもりだ。


そのために残りの二つに注力しなければならない。そして言葉の問題へと力を注げば、自ずからこの世界への理解が深まる。だからこそしばらくは語学の授業というわけだが、しかし。


彼女は深く、大きく溜息をつく。


意識に上るのは、時々探るように向けられる薄青い色の視線のこと。彼女のために、最も重い負担を背負っているのはおそらくメレディスだ。


見ていれば彼が忙しいことはすぐに分かる。パソコンやコピー機のような文章を書く補助となる機械がない世界のこと、すべての書類は手書きで作成しなくてはいけない。慣れているせいか時間が足りないと焦ることはないが、そうやって彼の仕事をする姿を見るたびに自分の価値というものを強く意識させられる。


手元に置いて観察する必要のある異世界の生物。外見は人種の違い程度でこちらの人間とほぼ変わらない。せいぜい極端に身長が低い程度だが、しかし背負っている常識はまるで異なっている異世界の生き物。ただし、なまじ似たような姿をしているだけに、かえって言動の細かい差異が際立って見えるのではなかろうか。


語学の授業というのもおそらくは彼女を身近に置くため方便ではないかと薄っすら疑っていた。それでも大義名分だけははっきりしているだけに拒絶することもできないし、また言葉が今後大きな力になることも予想がついたから。けれど常時観察してくる視線はいつまで経っても彼女の精神状態を掻き乱す。


好き嫌いという感情以前に、どう振る舞えばいいのか。表情の薄い彼の気持ちは読み取れなくて、自分の努力が及第点に達しているのかどうかも分からない。かろうじて子供ではない、分別のつく年齢の人間として扱ってもらえていることがありがたいというだけで。


悔しいことに教師としては優秀だ。だからこそ求められていることに応えようと努力はしているものの、能力が至らずに仕事時間を奪うような迷惑をかけることになる。そのことが不甲斐ない。


未だに残る十五個の罰点(ばってん)をゼロにする。しかし明日には別のミスが立ちはだかるだろう。毎日それらを克服しながらも、次々と新しい困難が立ち現れる。それに対応することだけに必死なのに、その上に負わされる妙な期待。


知性だなんだと言っても(たか)が知れている。期待されてはいても、それは今まで勉強漬けにされることに慣れているだけで、彼女個人の能力としては現代人の普通レベルだ。やがて学習の段階が進んでいった時におそらく手に負えないような高度な知識に接することになる。だから彼女の『知的生物』の化けの皮が剥がされる日も遠くない。


特別に見えるのは立ち居振る舞いがいまだに元の世界を基準にしているからだ。魔法の世界での生き方なんて知らない。どうやら魔力だけは人より余分にあるらしいが、それだって自分では使うことも他人に与えることもできないの無駄なもの。たとえ特殊で珍しくはあっても、魔法の能力が無いことはこの世界ではどうやっても克服することのできない巨大な弱点だ。


今後、周囲の自分への評価がどうなってしまうのか。外の世界で生きていくための基礎知識はここでの厚意で与えられる。見返りとしての協力にも同意した。しかし事が成就するには時間がかかるし、その間にも異世界の生物としての彼女の特殊性は目減りする。やがて召喚生物の権利が保証され、彼女がこの世界で自由になれた時、そこにいるのは少しだけ毛色が違うだけの普通の人間だ。


権利に関わる活動はそこで終了したとしても、彼女にはその後の人生がまるごと残されている。魔法の使えない、小さい体格の貧弱な女。そのような存在でも自由に生きる権利をもぎ取ることができたのなら、それなりの人生を送るための努力をする責任が発生する。


「もしも帰れなかったら、私はここで生きていかなくてはいけないんです。そのためにこの世界のことをもっと知らなければ駄目でしょう? ずっとこの研究所にいて良いわけじゃないんですから」


甘やかされてぬるま湯を享受し、自分が特別であることに疑問を持たない。生憎(あいにく)と彼女はそんな風にはできていない。


「でも君は魔法が使えないし、被害者なんだから。それに一人で生きていく自信がないんだったら僕が──」

「それだと閉じ込められているのと同じです。被害者だからっていつまでもゴネていられないんです」


いざという時の身の振り方を考えるのはもう少し先のこと。しかし、まだまだと思っていても時間などあっという間に過ぎるのだ。それまでに手遅れとならぬよう、何らかの決意をしなくてはいけない。


しかし、この世界の住民ではないことや、魔法が使えないことを理由にしたくはない。駄目ならば、それなりに自分の身を立てるだけの何かを守られている今のうちに掴みとっておく必要がある。けれど、どんなことができるのか。この世界を知らない彼女にとっては、そんなことを想像することすら困難なのだ。


結局は生き抜くための力をつける他はない。そのための言葉、そのための知識、ここにとどまれる間に吸収できるものを自分のものにしてしまうのが得策であろう。


考え始めればキリがない。悩みはずっと存在しているが、それをレリスに相談してどうなるというのだろう。せいぜいガス抜き程度、不安という名の魔を撃ち抜く銀の弾丸を彼が持っているとは思えない。


「この世界について、分からないことが多すぎるんです。それを学ぶための時間を少しでも確保することはいけないことですか? 言葉ができなければ文字から学ぶこともできないんです」


たとえ(なま)の知識に及ばなくとも、文献から学ぶことに意味が無いとは思えない。言葉は最初の手がかり、しかしその第一段階にしてかなりの段差があり、彼女は手間取っている。つまりはそれだけのことなのだ。


だがレリスはそうは思わなかったようだ。なおも柚希に向かって言葉を投げかける。


「分からないことが困るんだったら、分かるようにすればいいんじゃないかな?」

「──そうですが」


事も無げにレリスは言うが、その『分かる』に手間取っている。だからといって魔法では根本的な解決にならない。話している言葉を何とかしても、文字には効き目がないのだから。


「そんな都合の良い魔法なんて無いんでしょう?」

「魔法じゃないよ。知りたいことがある時には、それと似たことを調べれば良い」


やけに自信のある台詞に何をするつもりかと訝しく思っていると、レリスが付いて来いと身振りで示す。了承の意味で頷くと、彼はいきなり何処かへと早足で歩き始めた。


突然のことに行き先を訊くことを忘れた。その間にも距離を離され、置いて行かれないように必死で付いて行く。


つくづく身長差と、それに伴う歩幅の差が恨めしい。親切心から声をかけてくれるのはいいけれど、むしろこういうところに気を(つか)ってほしいものだと内心で不満を募らせる。しかし相手の厚意を(むな)しくするような言葉を口に出すわけにはいかない。


それに口に出そうとも歩幅の広いレリスの早足に合わせれば、柚希では走る必要があった。これまでの人生であまり運動に熱心でなかった彼女には走りながらの会話は無理である。上の階へ階段を登り、長い廊下を建物の奥の方まで進んでいく。今まで行ったことのない場所へ向かっているということだけは分かる。


幸いにも移動のコースはほぼ直線だ。きっと付いて行けずに立ち止まり、このまま彼を見失っても元来た道を戻れば部屋には帰れる。自嘲気味にそう思っていたが、体力を使いきる前に目的地へと到達したらしく、レリスの足が止まった。


軽く息が上がっていたが、手を胸に当てて抑えこみ見た目だけでも平気なように柚希は呼吸を整える。体力に恵まれていない様子を見せれば、再び相手が自分への過保護を開始するかもしれないからだ。


「この部屋は?」


わけも分からぬまま連れて来られたのは大きな観音開きの扉の前。取っ手の金具は普通のデザインなので偉い人の部屋というのではないようだが。


「資料室だよ。調べ物をする時にここで資料を探すんだ。研究所だからね、参考になる物があるはずだよ」


尋ねられたことに即答すると、レリスは柚希の方を振り返ることもなく扉を開き、中へと入ろうとする。


つまりは文献から彼女の疑問を解決するヒントを得ようというのだろう。


しかし研究所の資料となれば色々と貴重なものが収められているはず。それらに無断で触れる許しは彼女には無い。断りのない調査に問題はないのか、心配して柚希は言葉を零す。


「勝手に入ったら──」

「僕はここに所属しているんだ。一般向けの資料を閲覧するだけだったら許可はあるよ」


レリスは言葉を遮って彼女の手を掴まえると、否応もなしに部屋の中へと引っ張りこんだ。


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別ページに番外短篇集を投稿しています
『I've been summoned.』 番外短篇集
都合により本編に入れられなかったエピソードなど収納しています




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