26. 正午
「始めよう、用意は良いか?」
そう言って、メレディスは文章をゆっくりと読み上げる。手にしているのはこの国での子供向けの手習の教科書で、内容はこの国の初代王の建国物語だ。子供向けにシンプルな単語に直し、親しみやすく再構成されたもの。
それを聞き取りながら柚希は手元の紙に聞こえた通りの音をこの世界の文字で書き記す。習い始めの言語を耳で拾うのは非常に大変なことだが、彼女の手の速さを考慮してメレディスは読み上げる速さを調整するのでなんとか付いていける。
「『りゅうつかいの えいゆう いおばーるは』 間違っても今は書き直さないで。これは聞き取りの訓練だから」
綴り間違いに気付き、少し前に書いた文字を直そうとしたところを注意される。今は耳のスピードを鍛える訓練なのだ。とは言うものの、音通りではない特殊な綴りを要求される固有名詞が恨めしい。余談だがイオバールなる人物は建国物語の主人公である英雄王のことで、特別な存在であるがゆえに名前の表記が特殊なのだという。
ちなみに今この瞬間には言語魔法は使用されていない。翻訳されてしまうと元々の発音が聞こえなくなるのが理由だが、使わなくとも何とかなる程度の日本語能力をメレディスは持っていた。簡単な指示程度だけれど訛りのほとんどない綺麗な発音で、日本語話者と身近に接していた経験を感じさせる。
そのことを疑問に感じ、一度尋ねてみたところ「そういう環境にいた」とそっけない答えを返された。彼の昔の師匠や、召喚生物狩りのことは聞かされたが、本人のいない場所での雑談だったため柚希がそれを知っているとは思っていないのだろう。彼自身も彼女に知らせるべき情報だと思っていないのであれば、これ以上深入りする権利もない。
ともあれ今は目前の作業に集中しよう。テキストを読み上げる声と、紙にペンを走らせる音。やがて予定の部分を読み終わり、それと同時に書き写された文章の添削が開始される。慣れぬ文字につっかかりながらの筆跡、正直なところ人に見せるような代物ではないとは思うが、仕方なく紙片を手渡した。
それを見つめ、メレディスがペンを手にする。そして一瞬の停滞もなく頭から終わりまでを精査し、綴り間違いの単語に罰点を入れてゆく。
その様子を見て柚希は表情を曇らせた。注意深く書いたつもりなのに、間違えた箇所は十五もある。
「前に間違え続けたこの文字は直ってきているから、良くなっていると言っていいとは思うが──」
文字の指摘をしながらメレディスがバツの横へと正しい綴りを書き込んだ。迷いのない筆跡で記される綺麗な文字が羨ましい。
進展具合は亀の歩みだが、徐々にこちらの言葉にも慣れてきた。発音も挨拶や初歩的な質問程度なら根気強い指導のおかげで短い期間なりに身についてきている。
だがやはり文字の方はうまく行かないのが現状だ。見たことのない文字と発音を結びつけるのにまず一苦労。また元の世界と同じ形の見たことのある文字があるかと思えば、こちらでは別の音が当ててあるのだという。そして似ているのによく見れば違った形の文字もある。左右が反転したS字なんて、毎回書きながら間違いに気付き、リカバリーしようとして数字の8になってしまう。
それらを正確に学習するために毎日単語の書き取りをさせられているが、それの間違っている部分への指摘は容赦無い。手加減なしだとは初めから言われていたことだけれど、しかし大量の罰点入りの紙片は、勉学が本分の学生としては自信を失わせる原因には違いなかった。
落ち込みつつもそれが態度に出ないように取り繕う。きっちりと復習をして次は間違わないこと、そうやって出来るだけ早くこちらの言葉を習得すれば良い。
自室に戻った後はこれを元に何度か同じ文章の書き取りをすることになる。返された紙片を見直しながら、さっそく間違いの原因を確かめ始めた。
不意にメレディスが何かを待ち構えるかのように頭をもたげる。
「そろそろだな」
言った直後に正午を知らせる鐘の音が鳴る。それを合図に授業は終了し、柚希は机の上の文房具を片付け始めた。
この世界にも正確な時を刻む時計は存在するが、とても高価な物なので一般の個人で所有できるようなものではない。しかし時計はなくとも住民に時間が分かるようにしなければ日常生活は混乱する。それを解決するために街の小高い丘に時計塔が建てられ、そこで定時を知らせる鐘が鳴らされるのだという。正午は一日に五回鳴らされる鐘のうちの真ん中の一回である。他の四回は日の出と日没、それらと正午の中間の時間である。
深夜の日付の変更時に鳴らぬのかと聞いたところ、その時間は住民の睡眠中なので控えられているとのこと。夜に働く習慣のない一般住民の感覚では一日の始まりは日の出であり、終わりは日没だと捉えられているため、正確な午前0時を知る必要がないそうだ。
ただし個人で時計を持つ習慣がなくとも時間の感覚がルーズというわけではなく、毎日の繰り返しで切りの良い時間を体感覚的に記憶はしているようである。だからこそ鐘が鳴る前にメレディスは正午を知るという芸当が出来たというわけだ。
時計を使うことに慣れている柚希にはそこまで正確な時間感覚は無いけれど、それでも日の出の鐘は起きる時間を示すものでもあるため、聞き逃さないように注意しているうちに朝だけは鋭くなってきている。そうやって徐々にこの世界の仕組みが体へと刻み込まれていくのだ。
毎日を鐘の音とともに開始する。目覚めて支度をしながらレリスを待ち、しばらく言語魔法は必要なくなったもののもう一つの不都合である魔力の暴発を防ぐ魔術をかけてもらってからメレディスの部屋へと向かう。その後、正午まで授業。数日の内にそういうスケジュールになっていた。
そして授業が終わると──。
「お茶を用意してくれるかな、いつものように三人分だよ」
午前の仕事を終えたノヴァが部屋へと現れ、さも当然といった調子でメレディスへと指示をする。
このまま雑談をしながら午後の仕事までの休憩時間を過ごす。傍目で見ると気楽に見えるけれど、体裁としては召喚生物の行動調査を兼ねた面談ということになっていた。だが堅い言葉で表現しようとも、長閑な茶会には違いない。
忙しいはずなのに、支局内の彼らはお茶汲みや軽食の準備ぐらいは自分でしてしまう。本来ならばそうした雑事には下働きの人間を使うべきところであろう。しかし部外者の出入りを極力避けるため、ちょっとした不自由には目をつぶっているという状態のようだ。
席につきメレディスの戻ってくるのを待った。
その間にノヴァがいくつかの簡単な質問をする。もちろんこちらの言葉を使ってだ。それに対して柚希はやはりこちらの言葉で答えを返す。
いくつかの基本的な単語と、ごく短い文章のやりとり。それらが数度往復した後にノヴァの表情が緩んだ。
「多少は分かるようになったといった感じだね」
「そうですね。このぐらいなら聞き取れます」
わずかな時間に受け答えのチェックだ。一人の教師であれば、本人では気づかない発音の癖や訛りが紛れ込んでいる可能性がある。それを防ぐために別の人間による質疑応答で発音や聞き取りを一々確認をする。本来の上下関係とは逆転するが、言ってみれば語学授業に関してのノヴァのほうがアシスタント的な役割なのだろう。
ただしノヴァは日本語が分かるわけではないので、発音の確認以外の会話には以前にもらった翻訳用の道具を身につける。本格的に複雑な会話には魔法のほうが精度が高いが、今は付け外しが出来る方が便利だからである。
程なく茶器の載った盆とともにメレディスが戻ってきた。それぞれの席へと茶器を並べ、以降はのんびりと歓談だ。本当に自分が保護管理下に置かれた観察対象の生き物かと疑うぐらい穏やかな時間である。
そこへ用紙が一枚。既に大半の項目が記入されているが、一部に隠れようのない空白が残っている。それをおもむろに取り出してノヴァは何事かを書きつけていく。
「別に無視しても構わないんだけど、形式的にでも記録が残ってないと後で本部が騒さいからね」
そして柚希のことを本部へと報告するための書類だと告げた。その様子を見つめていると、ノヴァは文字列の一部を指さしながら「極度の混乱、意思疎通にいまだ難有り」と読み上げる。
「まあ、実際はこんな具合なんだけれどね」
本部送りを避けるため、そういう理由になっていることは知っている。だとしても、ここまでしれっとした嘘に柚希は首をすくめる他はない。
普通ならば二十四時間監視つき、逃げ出さないように手枷足枷を付けられてもおかしくないところ。休憩にゆっくりお茶などありえないと柚希は言葉を零す。
「そういう扱いから改善したいと思っているのに。だけど、常識通りに閉じ込められたいというのなら今からでも待遇を変えてもいいんだよ?」
例の猫じみた笑顔を見せながらノヴァが言った。柚希はそれに対して首を横に振る。
「おっしゃる言葉が冗談なのは分かってます。でも今の待遇は特別扱いですよね? いいんでしょうか、規則とかあると思うんですけど……」
「逃げ出そうとか、君が感心できないことを考えているなら考慮する必要はあるけれど、そんなつもりは無いよね? なら君が気にする必要はないよ、僕の権限でどうとでも出来る範囲だ。今は混乱している君をなだめながら経過の観察中で、支局から他に移送するのは無理ってところかな」
平然と本部指示を無視している事実を口にする。そして茶でも飲んで混乱を静めるように言いながら(もちろんこれも冗談なのだろう)、気遣うように言葉を続けた。
「それとも何か悩みがあるの? 勉強が嫌だとか、生活の変化に耐えられなくて誰にも会いたくないだとか」
「いいえ、不満はありません。変化といっても時間をつぶす娯楽が少ないぐらいですし」
正直なところ、三食昼寝付きといっていい生活に何の不満が言えよう。それでも人間はどこまでも贅沢になるもので、テレビやネットのようなメディアのない世界で暇を持て余し気味なのは確かである。こちらでの最大の娯楽は書物であろうが、それらも存在こそすれ文字が読めなければ無いのと同義。おかげで有り余る時間を授業の復習に費やす毎日だ。
そう答えながら用意された茶を口に運んだ。甘さの加減は柚希の好みで、着実にメレディスによって自分が把握されてきているのだと感じる。味の好みは食生活を探るためなのだろうか。彼女が周囲を把握するために目端を利かせるのと同時に、彼女自身も観察もされている。それは彼女が召喚生物である限り仕方のないことだと割り切らねば。
とはいうものの、毎度このように茶の準備をさせているのも忍びない。自分でも代わりが出来るように今度やり方でも教えてもらおうかと他愛なく考えた。茶葉や作法が違っていれば、入れる茶の味も変わるだろう。
しかしあの性格だから、目下のお茶汲み係が素直に方法を教えてくれるかどうかは分からない。そう思いながら彼の方へと目をやる。
当のメレディスはといえば事務員としての仕事へと没頭しているようだった。会話には加わらず、自分の分の茶を書卓へと運んで書類の山の処理をする。急ぎの物があるのだろう、持ち込まれた書類を確認して何枚かを清書するのだが、慣れているとはいえその作業は非常に早い。
その様子に、彼が柚希の語学授業を買って出たことで、彼本来の仕事時間を奪っているのだと思い至る。少し申し訳ない気持ちをおぼえていると、なぜかそのタイミングで薄青い色の視線が彼女の方へと向けられた。偶然目が合ってしまい決まりが悪い。
思わず目を逸らす。毎日顔を合わせていても、いまだ彼に対しての苦手意識は薄れない。教師として優秀らしいことは分かっていても、それによって最初の印象を完全に上書きしきれるほどではない。
そんな些細な視線の攻防が行われたことにノヴァは気付いているのかどうか。柚希の方へと手を差し伸べて、いつものあれを渡せと催促をした。溜息を吐きつつ、ついさっきまで言葉と格闘していた痕跡の残る紙片をその手へと載せる。
「これが今日の成果だね?」
大量の罰点を見つめるノヴァ。のんびり茶などを飲んではいるが、一応この面談の最大の目的は柚希の授業の進展具合を確かめることである。
「最初の頃に比べるとだいぶ間違いも減ったみたいだけど」
減ってはいるがミスはまだ十五ヶ所も残っている。
「話し言葉は魔法で通じるようになるのに、書き言葉は駄目なんて。なんだかずるいです」
「仕方ないよ。こちらの人間だって文字は君がやっているみたいに手で書いて覚えるんだから」
文字習得に手間取ることの不満を漏らしていると、ノヴァが「真面目だね」と笑いながら言語魔法の来歴を話し出した。
「ああいう魔法はね、元々は意思伝達の魔法を使う生物の研究から生まれたんだよ。でも彼らは文字を持っていないから、そっちの魔法は生まれなかったんだ」
「魔法を使う生物ですか? 言葉が喋れる生き物ということですよね」
「正確には言葉じゃないよ。敵を威嚇したり、仲間同士で連携したりするのに意思疎通をする生き物がいるんだけど、それの仕組みをね」
本来は感情や意思を伝達するための方策で、強く考えたことが相手の心へと伝達されるそうだ。だが、それを余さず伝達すれば頭の中で考えていること全てが包み隠さず奔流のように溢れだす。そのために伝えることを取捨選択できるように、声を出すことが発動の切掛になっているのだという。
いくら高度な言語魔法でも、言葉を受け取る方に豊富なボキャブラリーが無ければあまり巧く動作しないことは短い経験の中で理解している。ならば「翻訳」の強度を誤れば、心の奥底に隠した秘密すら守られないかもしれない。いままで失礼なことも考えたりもしていたのだから、つくづくそんなことにならなくてよかったと思う。
その辺りの調整が済んでいるのであれば言語魔法は研究の歴史が長い魔法なのだろう。そういう研究のノウハウが既に出来上がっているのであれば、やはり似たことを他でも繰り返していると考えるべきで。
「他の魔法も? 特殊な生き物を研究することが多いんですか」
「もちろんそういう魔法も多い。例えば転送や転移はそういう能力を持った鳥が研究対象だったんだよ」
そう言いながら、自分の制服を示す。
「この鳥がそう。敵から逃げる際に短い距離の瞬間移動をする」
召喚魔法に関わる部署に与えられた鳥の徽章だ。召喚魔法は転移能力の研究の副産物として生まれたため、その鳥がシンボルにされているらしい。
なるほどと柚希は感心をする。魔法の世界であれば、人間だけではなく動物も魔法が使えるのだ。ならば初めて見るような珍しい魔法を使う生物がいれば研究者たちは大きな興味を呼び起こされるはず。
「召喚された生き物でも魔法が使えれば、その魔法が研究対象になるんですか? 違う世界の生き物ならば、違った傾向の魔法が存在する可能性もありますよね」
以前に聞いた召喚生物を研究所に集める話を思い出しながら訊いてみる。
「そんな例もあるね。もちろん初めて見る能力は僕らも興味はある。だけど能力自体が魔法で再現できないことも多いよ。例えば獣人の中には魔力を嗅覚で感じる者もいるけれど、その能力は魔法の術式には落とし込めなかったんだ。だから研究しても無駄になることも少なくない」
術式にならない能力でも、便利に利用できるものは多い。それらを利用するために召喚魔法を用いて、能力を持つ生物をかき集める。だからこそ召喚の門をつなげるのは、やはり特殊な生物の多い世界であると相場が決まっているのだと。
そこまで説明されて、つい柚希は自分の指先を見つめる。この体に魔力はあるらしいのに、それがどんなものかつゆとも感じない。もちろん研究の対象となるような特殊な能力もない。ただ言動を面白く思われて変な計画に巻き込まれているばかりだ。
その様子に気づいたらしいノヴァ。
「やっぱり気になるみたいだね? どうして君に魔法が使えないのかってことが」
「そうですね、なのに私が呼ばれたのは何故なんでしょう」




