21. 道具
蛇に睨まれた蛙の気分。目を逸らすことも、逃げ出すこともできない。
「態度を見ていれば分かることだ。時々、今みたいに冷静さを欠くことがある」
硬直していると相手が手を伸ばしてくるのが見えた。再び手首を掴まれるのかと思い身構えるが、指先が触れてくるのは額だ。ちょうどレリスが言語魔法を掛ける時に触れる場所である。
「動かないように。ここも結節の一つ、暴発はしないようだな」
痛みは無い。ただし接触した部分に指先だとは思えないような熱を感じる。驚きすぎて柚希が動けないのをいいことに、確かめるかのように数秒間触れ続けようやくメレディスは指を離した。
「気持ちの動揺が大きいと制御できない魔力が一気に漏れ出すようだ。だが別の穏やかな魔法に変換すれば暴発を防げるということか」
納得したかのような小声の結論。しかしそれは体に触れる以外の暴発の発生条件を彼が知っていた証拠に他ならない。
「危険かもしれないのに、いきなり触るんですか。人を驚かせて騙し討ちみたいに」
「こうでもしなければ君は確認をさせてくれなかっただろう? 疑問を解決するには必要なことだ。実際に原因も対策も分かった」
悪びれた様子もなく事務的に言葉を吐く。それにこのタイミングで確認したということは、つまり。
「原因が分かっているのなら資料なんて必要はなかったでしょう。もしかしてわざとレリスさんを遠ざけたんですか?」
「そう思ってくれても構わない。ただし持ってこさせる資料が無意味なわけでもないよ。もちろん内容は私の頭の中には入っているから確認する必要などないが」
言ってみれば意図的に二人きりになる状況をつくりだしたということだ。
「人を騙すようなことまでして何をしようとしているんですか」
「確かめたいことがあると言っただろう? 我々が計画していることが本当に可能かどうか、君の態度を見て決めたいと思っている。そのために君の落ち着きを突き崩したかった」
冷静でないほうが感情が読みやすいと言われたことを思い出す。だからこそ故意に気詰まりな場を作り出したのだ。そして彼の思い通りに柚希は慌てふためき、装った態度の下に隠したものを露わにしてしまっていた。
単純な策略にはまってしまった自分に腹を立て、頭に血が上る。しかし腹立ちまぎれに一言でも二言でも目前の男へと言葉をぶつけたいのに、何を言っていいのかがわからない。
強い視線に対抗できるか疑問ながらも、彼女は対抗するかのように見返した。だが相手の怜悧な表情は崩れない。そして一旦、相手のペースに乗せられたしまったがために、それなりに威力のある反撃をしなければ相手の優位は揺るがぬようにも思えた。
「今の気分は?」
「気分って……」
半ば絶句しながらようやくそれだけを口に出す。
良いわけがない。例の薄青い色が柚希の方へと逸らすことなく向けられている。彼は自分自身の視線が不必要に強すぎることを自覚しているのだろうか。文句を漏らそうにも次の言葉が見つからない。
「君の知性に期待して語学の授業を行うつもりだが、時間も不足しているし手加減できない内容になるだろう。それでどの程度まで私のことを我慢できるか確かめておきたい。私が怖くて仕方がないのであれば言葉を諦める可能性もある」
確かに苦手ではある、しかし怖いというわけではない。そのように説明するにしてもどのように答えるべきか。
「黙りこんでは駄目だろう? 言葉で説明しなければ」
「そんなこと、素直に言えますか?」
知り合ってそれほど時間の経っていない人間に対して、面と向かって拒否するような言葉は言いづらい。口ごもっているとメレディスの方から口を開いた。
「気を遣う必要はない。他人から好印象を得られないことには慣れている。特に騎士団の連中には煙たがれているだろう。正規の職員ではないくせに書類関係では口うるさいから」
自分が好かれていないことを事も無げに言う。だからこそ、このような意地の悪い手段を取れるのかもしれない。
ゆっくりと気持ちを整える。答えを急かされていることは分かっていても、わざわざ相手の有利に動く必要もないのだ。魔法でどう翻訳されるか不明ながら、落ち着いた口調に聞こえるように言葉を選ぶ。
「判断するにしてもあなたのことをほとんど知りません。分からないのに自分の気持ちを説明できるわけないでしょう?」
「信用できるかどうか見極めている最中だと言いたいんだね。そういう慎重な性格は悪くない」
分からないと答えることで突き放したつもりだったが、返ってきたのは値踏みをするような台詞。こちらの神経を逆撫でするためにわざと刺のある単語を選んでいるのだろうか、怒りの感情がわずかに戻ってくる。
「いまのところ信用できるほどの材料もありませんから」
「こうやって私たち二人は相手を読み合っているのだろう。つまり、相手が何を考えているのか分からないのはお互い様ということだ」
視線を外し考え込むような表情になり、すぐにまた注意を柚希のほうへと戻した。アイデアを思いついたらしい。
「判断の材料として私個人のことを少しだけ教えようか? 君ばかり一方的に見定められているのでは不公平だ」
知ったら苦手意識は薄まるのだろうか。提案に対して判別のつかぬまま曖昧に頷く。
「では基本的なところから。既に知っていると思うが名前はメレディスと呼ばれている」
「呼ばれている?」
細かいニュアンスが気になり思わず疑問を挟む。すると、そんな微妙なところまで翻訳されるのかと呟きつつメレディスは話を脇道へと逸らした。
「便宜上の名だ。あまりに長い名前だと自己紹介の時に威圧的だから、この支局周辺では名前の一部しか名乗らない。他ではどうだか知らないが、少なくともここでは極端に長い名前は嫌われる」
「名前の呼び方もルールがあるんですか? 昨日私の呼び方を訊かれた時に下の名前を選びましたね。その選択の根拠は呼びやすさからですか、慣例ですか?」
「こちらでは身分の高い人間ほど名前が長い傾向がある。姓と名だけではなく、所領や爵位、母方の家名や役職、先祖に功績があれば特殊な呼び名がつくこともある。反対に庶民であれば個人名だけで、出身地を姓代わりに使う」
だから名乗る際は個人名を名乗るのが普通だという。そのためにノヴァに彼女の名を訊かれた際、苗字ではなく個人を示す「柚希」の方を選んだらしい。
「名前はただ個人が識別できれば構わないものだろう? 家柄がいいからと言って、長い名前で自己紹介をしても嫌味なだけだ。それこそ誰なのかさえ分かれば仇名だろうと、偽名だろうと」
名を名乗ることだけでも付随する情報が増大する。そこに含まれる姓名を聞いただけで相手の地位や身分が分かる場合があるのだろう。名前が長ければそれは社会的な地位が高いということを意味し、短ければ推して知るべし。そこを曖昧にするということは、身分を気にしない平等主義ということか、あるいは家どうしの争いを持ち込みたくないということか──。
「脱線してしまったな」
考え込む柚希の注意を呼び戻そうとするメレディスの声。彼のフルネームを知れば、その正体を読み解くことができるのであろう。しかし、その情報を与えるつもりがないのは明確だ。一方でこちらは苗字も名前も、その漢字まで知られている。
「まだ不公平は解消されてないと思います」
自分のことと言いながら、示したのは既に知っている彼の名前だけだ。彼の話したいことだけを聞いていては、こちらの疑問は一つも解決されない予感がする。
ならばこちらの知りたいことを質問してみる他はない。
「臨時の事務員と言いましたよね。なのにあなたの振る舞いはそのようには見えません。何か理由があるのですか?」
少ない人員のうちの一人をあえて「臨時」にする必要があるのだろうか。そのような不安定な立場の人間が、それなりの力を持っているらしいのもまた不可解である。
立ち入った質問だけに答えることを拒否されるかと思ったが、意外にもメレディスはすんなりと口を開いた。
「正式な職員となるには条件が幾つかあるが、その中の一つがこの国の教育を受けていることだ。しかし私はその条件に当てはまらない。ここで職を得ているのも偏に支局長の一存だ。あの方が多忙な分、私に割り振られる仕事も多くなる。その結果、どうやら私はどこへでも顔を出す目障りな人間と考えられているらしいが」
肩書き上は臨時雇いの事務員となっているが、実態は求められればなんでもやる雑用係だ。評判の悪い厳密な書類仕事や、資料整理に実験の手伝い、論文の清書や一時的に預かった新人魔術師への技術指導のようなことも機会があれば行なっているのだという。
常識的に考えて雑用の幅があまりに広い。そんな疑問が顔に表れていたらしく、すぐにメレディスは言葉を付け加えた。
「忙しいが、逆に正規職員でないからこそ自由に立ちまわることができるとも言える。都合の悪いことがあればすべて私に責任を押し付けて首にすればいい。幸いなことに今のところそんな事態にも陥ってもいないし、揚げ足を取られるような失態を犯す予定もない」
たしかにここの支局長であるノヴァならば、ルールから逸脱しているようなことでも周囲を言いくるめてしまいそうな雰囲気はある。その環境の中では来歴が多少怪しい人間であっても、能力が高ければ居場所を確保できるのであろう。
それにここの支局を少人数の人員だけで切り回しているのも、信用のおけない人間を減らしたいためなのか。そうならば一人で何でもできる人間のほうが都合が良いとも言える。その結果として負担が増えようとも、本人が不満を持たないのであれば単なる被保護者の立場の柚希に意見ができるはずもない。
「いずれにせよ正規職員でなくとも、身分は確保できているのだから特に問題は感じていないが」
説明を聞きながら疑問も浮かぶ。彼が優秀らしいのに正式な職員になれない原因についてである。
「この国の教育を受けていない、つまり外国人ということですか?」
メレディスが無教育の人間であるとは思えない。ならばどこかで教育を与えられたと考えるべきである。それがこの国のものでないとすれば外国のものであると推測するのが普通だろう。それに国が違えば使う言葉も違うのかもしれない。だからこそ異世界のものを含む外国語を学習することに慣れているという可能性もある。
だがその質問に彼が答えることはない。
「今の時点で話せるのはこれぐらいだ。これ以上は私の個人的な事情に踏み込みすぎる。君だって必要以上のことを根掘り葉掘り聞かれたくはないだろう?」
正論に口をつぐむ。プライバシーを楯にされては疑問を引っ込めざるをえない。
その結果、得られた情報は信用どころか胡散臭さを増幅するものばかりとなってしまった。扱いかねて次にすべき質問に柚希が無言で首をひねっていると、どうやらこれ以上は答える必要はないとメレディスが判断したらしい。
「どうだろう? 我慢できないほど嫌だと思っているのだろうか」
例の、学習に耐えられるかという話題だ。
「別に嫌だと言っているわけでは……」
不意打ちのような質問に、つい不用心に答えてしまう。それを相手は都合の良いように解釈したようで。
「嫌でなければ決定だな」
否も応もなく強引に決められてしまう。理性では言葉の問題をクリアしなければいけないことは分かっている。いつまでも魔法に頼るわけにはいかないからだ。
しかし分かっていても無性に腹が立つことには変わりはない。自分自身の今後のことなのに、彼の都合によって全てが決定されていくように感じる。
「私の決めようとしていることに一々踏み込んでくるんですね」
原因は視線じゃない。彼が柚希をコントロールしようとするからだ。向けられる視線に負けぬように見つめ返す。
「まるで私を逃したくないみたいに。そんなに私は毛色の変わった珍獣なんですか」
柚希自身は自らを普通だと思っているが、世界が変わると「普通」の基準も変わってしまうことは既に思い知らされている。だから彼女の何かが特殊さを感じさせていることは分かっても、どのように対応していいのかがわからない。
「君を利用したいと言ったね。だが使うからには道具としての特性を理解する必要がある」
「──私は道具ですか」
保護された迷子や珍獣の扱いではなく道具呼ばわり。そのことによって彼女の価値が上がったのか下がったのかは分からない。しかし少なくとも言わんとするのは、役立たずに彼は手間を掛けないということだ。
「そうだと答えたらどうする?」
「道具として振る舞うしかないでしょう? ここより他に頼る場所も知らないのに」
だいたいこれまでの話を振り返れば、メレディス自身が道具のようなものだろう。何でもやる事務員、それも正規職員ではなくいつでも切り捨て可能な臨時雇用扱いだ。滲み出る異世界のブラックな実態を薄っすら感じながらも、そこから抜け出る方法がないのも事実。
「言葉を学ぶことについては受け入れます。もともと学生なので勉強をすることが日常でしたから」
いくら苦手な相手だとしても、教師と生徒の役割に徹するのであれば我慢できると期待する他ない。元の世界での今までだって嫌いな教科であっても、担当の教師が教え方に欠点があっても、成績を上げるという目的があればしのいでこれたのだから。未来が不確実だからこそ、少しでも自分の能力を磨く選択肢を取るべきだ。
しかしその了承は渋々である。それが態度に出ていたのだろう、もう一度念を押すようにメレディスは確認をとったが、柚希は決断を変えるつもりはない。
「そちらの都合次第で実験動物でも道具でも、好きに扱えばいいじゃないですか。少なくとも理由があるだけ道具扱いのほうがマシです」
求められていることは、考える頭を持っていて必要なときに自分の意見を言えることだ。居場所がほしいのであれば自分が役に立つことを証明し続ければいい。どんな世界でも変わらない、自分を抑えて組織の部品となる。そういう覚悟を迫られたのだと思った。
「どうせ他に行き場もありませんし」
ぽつりと零すように。
「君に無理なことを押し付けている自覚はある。我々にも責任があるんだ。学習の成果がどれほど出るかは本当のところわからないが、これで最低限のことを君に授けることは出来る」
突然、態度が和らぐのを感じた。何が変化したとは説明しづらいが、わずかに声の調子が変化する。
「でも良かったと思う。しばらくは我々の所に留まることを選択してくれた」
言葉の意味を訝しく思って、相手の顔を見ればかすかに唇の端が持ち上がっていた。微妙な表情の変化だが、たぶんこれは笑っているのだろう。どちらかと言うと怒りを呼び起こされている時よりも動揺をする。
うろたえて、やはり言葉が見つからぬまま無言で相手を見つめていた。人の視線を不躾だと批判しておきながら自分も似たようなことをしている。
声も出せず、数秒ほど。
だが、その膠着した時間も長くは続かない。何かに気づいた様子でメレディスが体の向きを変える。
「思ったよりも早かったか」
彼の視線が入口の方へと向けられていた。