18. 新人
紙にペンを走らせるカリカリという音だけが騎士団詰所の中に響く。
今日もまた締め切り間近の書類が大量に待っている。なのにそれを処理すべき隊長のベルクトは土掘りに掛かりっきりで、自分の書くべき分を残していってしまった。大きな仕事の後ではしばしば起きうる状況だが、今回は書類の量が桁違いであるため、副隊長であるアリオールには手を休めて現状を嘆く暇もない。
それでも昨日までは使える方の新人に、新しい仕事を覚えさせるという名目でいくらかを振り分けていたから良かったものの、今日その新人は研究所の方に持っていかれてしまった。
単純に書類仕事の出来る人間が少なくて仕事が速度が低下、それだけならばいいのだが──。
アリオールは自分と同じように書類を作成している新人隊員を見やった。文字を早く書いてしまおうとするのか、ペンが紙の上を乱暴に往復するのが見える。あれでは完成時の文字はそうとう酷いことになっているだろう。
半年前、ほぼ同時期に隊へと配属された二人の新人に対する評価には大差がある。一方は地味ながら必要な仕事を嫌がりもせず着実にこなす生真面目な男。もう一人は自分の家柄と剣技が自慢の鼻持ちならない男だ。
外からは優秀な隊で配属そのものが出世の第一歩と見做されているため、二隊希望の騎士は非常に多い。そのため、ここに配属の希望は持っていても実際にそれが叶うことはまず無い。通常は別の隊での実務経験を積んだ後、その隊からの推薦状を得なくてはいけない。その実績が認められた後に初めて筆記と実技との試験を許され、さらに正と副の隊長による面接を経て、入隊できるかどうかが決められる。
だが今回の新人二人の加入については通常の手続きを経ていない。どちらも縁故採用だからである。
関係者から内々に打診を受け、採用試験に手心を加えて入隊を許す縁故採用について、二隊においては普通であれば行われることはない。能力の足りない人員を採用することで隊内の規律が乱れ、不測の事態を引き起こすことを避けるためである。
しかし今回は推薦者が特殊であったため、その縁故採用を渋々ながら認めざるを得ない羽目になった。
生真面目な方、レリスの推薦者となったのは支局長であるノヴァである。隊の外部相談役であるため、ノヴァはこれまでにも研究所に所属する魔術師の中から騎士向きの人員を推薦してきたことはあった。だがその場合、すでに別の隊での実務経験を積んでいるか、実戦向きの攻撃・回復魔法の専門家であることがほとんどだ。
そのため実務経験もなく、地味な後方支援用魔法しか持たない若い魔術師を「どうしても」と押し付けられた時、二人の責任者はどうしたものかと顔を見合わせたものである。しかしそれまで推薦されてきた人員の能力が確かだったこと、一見奇矯に見えても行動に意味のあるノヴァの性格を考え、若者の採用を決定した。
使える魔法同様に性格も地味で控えめな若者が現場作戦もある肉体的に過酷な任務に耐えきれるか、激務に精神的に追い詰められるのではないかと当然ながら心配された。しかし、その心配はすぐに杞憂であると知れる。
地味な性格は、地道な努力を惜しまない事の裏返しだったのだ。彼自身、自らが前線で戦えないことを知っている。そのために他の隊員を援護できるようにするための訓練を常に自分に課していた。直接戦闘に関係のない雑用魔法を習得したり、肉体的な持久力を付けるための走り込み、派手さはないが成果が出るには時間が必要な努力を彼は厭わない。
結果として半年の間に彼は隊内で皆から愛される新人となっていた。表面的には地味と揶揄するものの、与えられた雑用を嫌がらずに片付ける相手を嫌う理由はない。
さらに、副隊長の不機嫌を呼び覚ます面倒な書類仕事について、素早く高い水準でこなすことも皆からの評価を上げる一因となっていた。彼が書類を書いているうちは、たとえベルクトが書類を放っぽって一週間分溜めてしまおうとも、アリオールの怒りは爆発しないで済む。なぜなら必要な書類の書式をある程度覚えてしまっているため、書き写して必要事項を書き足せば完成する草稿をベルクトが書類にかかる前に用意することができるからだ。
上辺の地味な能力と、癖のある人物からの推薦ということで心配されたレリスではあったが、隊内での評価は非常に好感触であったといえる。
おそらく問題となるのはその生真面目すぎる性格であろう。彼のように素直すぎる性格では、悪意がある人間に対面しても真意を見抜くことが出来ずに取り込まれて利用されかねない危うさがあった。それを矯正するための推薦ではないか、アリオールがそういう感想を持つようになったのはここ数日のことである。
もう一方の新人、扱いの面倒くさいセルの採用はそれとは全く正反対の経緯であった。
騎士団上層部のさる高貴な御方がありがたくも騎士団末端である二隊の責任者の下を訪れる。そこで渡されたのは大層ご立派な推薦状。そこに書かれていた将来有望な若者の名前こそがセルというわけだ。
もちろん二人の責任者はその推薦をやんわりお断り申し上げしたのだが、ときすでに遅し。何者かの手によって隊の名簿に彼の名は書き加えられていたのである。さる高貴な御方の下に侍る麗々しい手勢の皆様方の御尽力により名簿が改竄されたと気づいた時には、将来有望な若者の加入は既定のこととされてしまっていた。
そのようにふざけた経緯を経て入隊した新人がまともなはずはない。彼の最大の長所である剣技はたしかに免許皆伝の腕前ではあったものの、道場で優秀なのと実戦で使えるのとは別物だ。
すぐに彼を本当の意味での前線へとは投入しない方針が固められる。適当に実務経験らしきものを積ませ、後は前線業務はないが存在が派手な近衛部隊にでも適当な時期に推薦状を書いて送り出してしまえというものである。おそらく先方もそのつもりなのだろう、つまり二隊出身の経歴は出世の際の箔付けというわけだ。
そうした方針であっても、粗相がないように素行を改善する必要はある。だが、そちらの教育は遅々として進まない。そもそも、あそこまで露骨な裏工作をしても咎められないほどの高貴な家柄の若者が、素直に周囲の忠告を聞くはずもなかった。
そのために隊内での彼の評判は最悪である。だがその悪評ですら彼自身は彼の能力と家柄に対する妬みだと高を括っているらしい。
また自らが剣士であるためか、前線に出て攻撃に参加をしない魔術師たちを軽蔑する傾向があった。曰く、後方で守られている卑怯者という具合だったが、そのことが魔術師たちからの悪評を買っているのに気づいていない。隊の実質的責任者であるノヴァも魔術師であるため、自分の同類を悪し様に言う彼には悪感情しか抱いていないようである。
結論として、セルは隊の中では救いようのない馬鹿扱いになっている。しかし、彼自身の栄転に一縷の望みをかけ、早く別の隊へと追い出すために重点的に訓練を課している状態だ。その訓練すら既に自身の剣技を過信する彼は不要と考えているらしい。
かくしてアリオールにとっての目下の頭痛の種は彼ということになるが、本人が素行や言動を改める意志がないために重荷は増えるばかりである。
いらつく心を抑えながらアリオールは書き上げたばかりの書類の誤字を確認する。研究所提出分の書類は特に念入りに、なぜなら向こうには書類の鬼がいる。天敵と言っても良い。もしも間違いがあればその書類は通らない。冷ややかに該当箇所を指摘されながら書類が差し戻され、結局書きなおして再び提出する羽目となる。
そして書類が完璧であると確認し、同じように研究所に提出するための別の書類の上に積み重ねた。
まだインクは乾いていないが次を書き上げるまでの間に乾くだろう。そう思いながら別の用紙を用意していると、ついさっき上においた書類に別の誰かが遠慮無く書類を載せた。紙の端が乾かぬインクに触れ、完成したはずの書類の表面に黒い汚れが広がる。
もう一度書きなおさねばならなくなった。怒りを込めて書類を重ねた馬鹿は誰だと見上げると、予想通り使えない方の新人であった。
「命令されてたやつです。書いてきました」
上司の怒りに気づいていないのか、馬鹿は早く書類をチェックしろと言わんばかりの満足気な笑みを浮べている。怒鳴る気力も失って、アリオールは提出された書類に目を向けた。
汚されて駄目になった書類の上には、最初から駄目な書類が載っている。誤字脱字は一切訂正されず、さらに字が汚い。その上、書類の汚れに無頓着なのかインクが所々滲み、掠れしている。そして直線の概念を持たぬのか、文字列は盛大に歪み、波打つ。
内容はどうやら突入時の命令違反に関する始末書と反省文らしい。しかし書き様がひどすぎてその通りの内容かどうかの判別がつかない。そもそもこれを書いた馬鹿の態度を見るに、本当に命令違反を反省しているのかどうかも疑わしい。
叱り飛ばそうかと思うが、字の汚さか、文の内容か、あるいは本人の態度か、どこをどのように指摘すべきか分からぬ駄目具合である。さらに腹立たしくも、駄目書類そのものは隊内で処理できる始末書と反省文ときた。アリオールが書類の出来如何に関わらずここで受領してしまえば、以後これに関わる必要がなくなるが上司としての威信とは引き換えになる。
結局、アリオールは心の安寧を選び、型破りな芸術作品のような書類を通した。文字が跳ねまわるせいで、ほとんどまともな余白の残らぬ紙の上になんとか場所を見つけ出し、無言で自分のサインを入れる。インクが乾いた後に何処かに紛れ込ませでもすれば、もうこの書類を目にしなくても済む。
サインを入れた分のインクが乾燥するまでの時間、仮置きのために書類を脇へと退避させる。そうしておいてから初めて馬鹿へと声をかけた。
「明後日まで宿舎で謹慎。今日はもう戻って良し」
軽微な命令違反であるため本来ならば謹慎の必要はないのだが、精神衛生的な観点からあえて馬鹿がやって来ないように命令を出す。これ以上、書類を駄目にされては堪らない。
指示を受け、清々したような表情を浮かべ馬鹿は退室をしていった。間違いなく反省などしていない態度である。
残された汚損書類と新しい用紙を前にアリオールは考え込んだ。次に書く予定だった書類と、提出できなくなった書類、どちらを先に仕上げるべきか。どのみち両方書くのだからどちらが先でも良いのだが、目の前で汚されてしまったものを慌てて書きなおすのも屈辱だ。
次の瞬間、詰所の扉が乱暴に開く。アリオールは馬鹿が戻ってきたのかと身構えた。
「本部からの情報──。ああ、隊長いないんでしたっけ?」
入ってきたのは隊所属の魔術師ヴァローナだ。いつもは伝令を含めた雑用一般をこなしているレリスがいないため、今日は彼の仕事を代わりに行なっている。本部へと書類を提出して戻ってきたところだが、折り返しの連絡事項を携えてきたらしい。
だがアリオールの睨みつけるような視線にひるみ、すぐに口を閉ざしてしまう。そして一枚の書付を差し出した。読めはするが文字の巧さとしては最低限の文面である。
「あとで隊長と二人で確認してください。うちとは別件ですけど気になる内容なんで」
上司を必要以上に刺激しないように、ヴァローナは手早く説明をする。正式な用紙ではないところを見ると書類の下書きか、あるいはメモとして書き写したものであるらしい。
その説明を、汚れた書類を見つめたまま無感動に聞き流す。提出の必要のない書類でもせめて読める程度の文字は──。
「あー、あの馬鹿ですか。研究所行きのやつですよね、これ」
静かすぎるアリオールを不審に思ったのかヴァローナは書卓の上の書類を覗きこむ。擦れて広がったインクに気づき、問題の書類をつまみ上げた。
だが、アリオールが軽口にも反応せずに無言なのを見て、彼は大きく溜息をつく。研究所に生息する鬼とアリオールとの書類の受け取りを巡る攻防は、二隊に長く所属している隊員であれば誰でも知っている。
「文面、このままで良いなら俺がもう一度書き直します。誤字がなけりゃ俺の字でも通るでしょう?」
滞った書類の量を考えると、やがて捌き切れない分が書類担当でない隊員へと容赦なく降ってくるのは目に見えている。副隊長の機嫌を今より悪化させないためには、早い段階でそれを減らしておく他はない。
「……お願いします」
抑えた声でアリオールが言う。
汚損書類を受け取りヴァローナは普段余り使うことのない自分の席へと座る。ここ数ヶ月は書類仕事といえばレリスの担当だったため、卓上に用紙を載せる場所を確保するところから始めなくてはならなかった。
再び、部屋の中にはカリカリとペンの音。そうやっていつも通りの平穏が詰所内に戻るはずだった。
すぐに処理をする必要がないのは分かっているが、ベルクトが帰ってくる前に内容を確かめておくべきであろう。新しい書類へ取り掛かる前に、アリオールは新しく持ち込まれた書付へと目を向けた。
そして書付の内容にアリオールは視線を止める。紙の表面には「被疑者死亡」の一語が書きつけられていた。




