1. 驟雨
西洋のことわざに「願い事には気をつけろ」というフレーズがある。この後に「叶ってしまうといけないから」と続くのだが、要するに軽々しい願いにより、かえって願いが叶うよりもひどい事態が起きる危険を警告したことわざだ。
例えば、宝くじで高額当選クジを引き当ててしまった場合。大金を手に入れられてラッキーなのは最初のうちだけで、その金につられて碌でもない連中が集まり平穏な生活が失われるという話はしばしば聞くところ。
あるいは恋人がほしい、実際にそうした相手ができたとしても、自分が振り回されて疲れ果ててしまったり。有名になりたいと願って、有名税を払わされる羽目になったり。
だからといって猛暑解消に通り雨を願ったせいで帰るすべを失い、途方に暮れるのは納得のいかない状況であるけれど。
そもそも柚希は飲み物と菓子を買いにコンビニへと出かけただけだった。
夏休みを利用しての帰省中、しかし普段から連絡を取りあっている家族相手に積もる話もなく、仕事に出かける家族の留守を預かりながら数日をのんびり過ごす予定であった。
漫然とテレビを見、ネットをチェックするうちに、自らの運動不足が気になりだした。思えば、帰ってきてからの数日は家の中を移動するぐらいで運動らしいことは何もしていない。それでは拙い(特に体重とか)と一念発起し、とりあえずの外出をとコンビニを目指したのである。
だが田舎での交通状況の過酷さを、約一年半の一人暮らしの間に彼女は忘れてしまっていたらしい。通う大学近くには徒歩で行ける範囲に日常必要な物が揃う施設がほぼ揃っているのである。帰りがけに必要な場所に寄り、用事を済ませてしませてしまえる環境に、心身ともに堕落してしまっていたとしても仕方ない。
徒歩三十分、往復一時間。田んぼの中の一本道を十五分ほど歩いた頃に後悔をし始めた。まだ道程の半分辺りである。しかし歩いた労力が惜しくて尚も足を進めた。
季節は盛夏、照りつける太陽が恨めしい。体温近い気温に汗は猛然と流れ落ち、容赦なく柚希から気力と体力を削ぐ。
天気予報ではなんと言っていたか。
『今日一日、猛烈な暑さが見込まれます。くれぐれも熱中症に気をつけて水分補給を怠らないようにしてください』
記録的な猛暑がここ数日間ほど続いていたところである。毎年気温のピークの頃は立っているのも辛いほどになるし、その心構えも出来ているはずだったが、若さに任せて徒歩を敢行したのは無謀だったらしい。
思わず心の中で夏を呪う。続く言葉でしばしの雨を願ったとしても、誰も異論は唱えぬだろう。
ともあれ彼女は願ったのである。『雨でも降って、涼しくなればいいのに』と──。
願い事に効力があったかどうか、それは分からない。だが上昇気流にのって彼方に入道雲が生え始めたと思った途端に空が暗くなる。見る間に恨めしいほどの夏の青空は消え失せ、分厚い雨雲に空が覆われていった。
風の匂いが変わる。焼けたアスファルトに雨粒が降り落ちて蒸発する匂い。
気温の下がる予感に心は湧き立つが、一方で傘のないことに慌てる。
ぽつぽつと道路に穴が空くように水滴が模様を描くのは数秒のこと、心の準備もできぬうちに滝のような水が天から落下し始める。着ているTシャツはあっという間に下着を透かすほど濡れ、日焼け防止に羽織っていたオーバーシャツも雨除けには役立たない。
頭の先から爪先までがずぶ濡れだ。
とりあえず雨宿りを。
田んぼの用水口近くに赤い小さな鳥居を見つける。水乞いのための水神を祀った祠らしい。そこへと逃げこむ。祠は木造の小さな小屋のような外観で、高さは柚希の身長ほどしかない。その内部に文字を刻み込んだ大きめの本ほどのサイズの石碑が置かれているがそれが御神体か何かなのだろう。本来は人間が中に入るものではないため、体を濡らさぬギリギリの広さである。しかし他に選択肢のないのでは、広さに文句をつけることもできない。
そうやって屋根のあるところへと逃げ込んだものの、次の問題は帰路であった。
さすがに透けた服でコンビニに行くのは恥ずかしい。一旦家へと戻る他はないけれど、雨を突っ切って帰るほどの元気は失せていた。
雨が止むまで待つか。しかし濡れた体からは徐々に体温が奪われていく。先程までの猛暑が嘘のように周囲の空気は冷え出し、柚希の体は震え始めていた。
天候の変化を見極めようと外を眺めるが、黒い雲は更に厚くなってきており雨の止む気配を微塵も感じさせない。祠の周囲に生える黄色いヒマワリが、色合いが鮮やかすぎるせいでかえって雲の黒さを引き立てている。
折り悪く携帯電話は家に置いてきてしまっている。電池残量がわずかだったので充電中だったのだ。だが、誰かに迎えを頼むにしても仕事中の家族や、帰省を知らない地元の友だちを当てにはできないけれど。
オーバーシャツを脱ぎ、せめて髪でも拭けないかと雑に畳んで端から絞り始めた。顔を伝い落ちる雨を気にして乱暴に拭い取る。水分を吸収する素材ではないので拭うといっても気休め程度。濡れた髪は皮膚に張り付き、冷えた身体は体温を取り戻せない。
半ばあきらめ、柚希は座り込む。すでに水をたっぷりと含んだジーンズの後ろ側が泥で汚れるが構ってはいられない。狭い祠では軒先を伝う雨が大粒の水滴となり、たとえ屋根の内側にいようとももろに降りかかる。雨を少しでもかぶらぬように、中央の石碑を避けながら奥の方へと身体を押し込んだ。
風が強くなる。それとともに祠内部へと雨が吹き込む。
雨は一向に止む気配はない。かれこれ三十分ほども祠へと留まり続けていただろうか。それほどの時間があれば、濡れながらでも家へと帰りつけていたはず。そう後悔しながらも柚希は外へと歩き出せなかった。
真っ暗な空は、低く唸るような轟音を上げている。そして時折思い出したかのように青白い閃光。
祠の中で小さく身を縮める。
雨上がりを待つうちに天候は悪化し、雷雨へと変貌していた。位置が近いのだろうか、音がするたびに空気が震え、地鳴りのような振動を感じる。恐怖を覚え、外へと目をやればほんの数百メートルほどの電柱へと光の束が降り注ぐ。
落雷に対する最大の対策は、安全な屋内へと逃げることだ。だが辺りは他に隠れる場所のない田舎道である。しかもすでに確認できるほどの位置での落雷を目撃してしまった。逃げるにしても危険な中を走り抜けることとなる。
背筋に嫌な戦きが走った。
屋根こそあるとはいえ祠はあまりに小さく、おそらくこの場で直撃を受ければ命の危険があるだろう。そう予測をするが、すでに何の手も打つことができないのは明らかだ。
小刻みに震えるのは、濡れた体が冷えるばかりではない。目をきつく瞑り、耳をふさいだ。見ない、聞かないで雷そのものが無くなるわけではないが、すこしでも恐怖感が薄れるように感覚を閉ざそうとする。しかし自然の激しい威力はその努力すら打ち破る。閃光の度に瞼の裏は赤く血管をすかし、音は骨を伝って頭に響く。
早く収まれとの望みも虚しく、落雷の間隔は狭まってゆく。吹きこむ風は荒れ狂い、柚希の濡れた髪を容赦なくかき乱す。
ここは暴風雨の中心か。巨大なエネルギーに翻弄され為す術もないまま、地面へと伏せた。
同時にこれまでで最も眩しい光が周囲へと降り注ぐ。痺れるような衝撃が肌の表面を走り、それを認識する余裕もないまま柚希は気を失った。