第59話 ナナさん家の赤ちゃん大騒動 その四
「ふぅ、やっとみんな帰ったね。さて、これからどうしたもんかね? 」
時間は午後2時を少し廻ったところ。リビングでハルカを抱っこしながら、私は今後について考える。
「ま、現状はファムが解毒剤を完成させるのを待つしかないか」
私も毒や薬には通じているが、さすがに本業が医者のファムには敵わないからね。
「それにしても、小さいね。こんななりじゃ、家事も稽古も出来ないよね。困ったもんだよ。早く元に戻ってくれなきゃ退屈だし、美味い飯も食えないじゃないか」
私はハルカを抱き上げ話しかける。もちろん、ハルカは返事をしないが。
「……虚しい。返事をしてくれない相手に話しかけるなんて、私がまるっきりバカじゃないか。はぁ、早く元に戻っておくれよ。ん? この臭い……」
突然、鼻に突いた臭い。私はそれが何を意味するか、すぐに悟る。
「あ~っ! ハルカ! あんた漏らしたね!」
「ふぇえ……」
漏らして気持ち悪いのと、私の大声に怯えたらしく、また泣きそうになるハルカ。まずい、泣かれるのは困る。
「あぁ、大声出してごめんね。ママ、全然怒ってないから。それより、早くオムツを脱がせて新しいのに換えないと。あ、綺麗に拭いてやる必要も有るね。え~っと、エスプレッソの奴が色々置いていったけど……」
エスプレッソが帰り際に置いていった、赤ちゃん関係の品から、新しいオムツやら、ウェットティッシュやらを取り出す。
「ほら、じっとして。良い子だから」
ハルカを仰向けに寝かせ、オムツを脱がせる。幸い、ハルカは暴れたりせず、おとなしくしてくれた。ウェットティッシュで、優しく、綺麗に拭いてやり、新しいオムツを履かせる。
「よし、完了。いや~、最近のオムツは便利だね。私でも履かせる事が出来るからね」
本当に技術の進歩様々。手抜きしていると言われるかもしれないが、私じゃ昔ながらの布オムツは無理。最新の超お手軽紙オムツを使っている。
「キャッキャッ」
新しいオムツに換えてすっきりしたのか、笑うハルカ。あんた、お気楽で良いね。こっちは慣れない事の連続でうんざりしてるのにさ。
「ふぅ、この先どうなるか分からないってのは辛いね。ファムの解毒剤が出来るという保証は無いし、仮に出来ても効く保証も無い。最悪、元に戻らないかもしれないしね」
考えれば考える程、気持ちが暗くなる。
「随分と弱気ですな、ナナ殿。貴女らしくもない。やはり、来て正解だった様ですな」
「エスプレッソ!!」
先行きの見えない不安に苛まれていた所に、突然現れたのは、帰ったはずのエスプレッソだった。
「何をしに来たんだい、あんた? 帰ったはずだろ? それに執事の仕事はどうしたんだい?」
私は当然の疑問をエスプレッソにぶつける。もっとも、その程度で動ずる奴ではない。いつもの慇懃無礼な態度を崩す事なく説明。
「やはり、ナナ殿だけでは心配ですからな。奥方様より許可を頂き、参りました。それにファム殿からも様子を見てきて欲しいと連絡が有りましたので。それとファム殿から伝言を預かっております。解毒剤作成に全力投入するので、その間は一切連絡は取れないとの事です」
「ふん、大きなお世話だよ。わざわざ本業を放り出してまで来るとはね」
皮肉屋には皮肉で返してやる。
「何、当家は私一人いないぐらいで支障をきたす程、無能者はいませんからな。ハルカ嬢に全面的に依存しているナナ殿と違って」
「悪かったね!」
クッソ~、やはり皮肉じゃ向こうが上か。
「ま、あんたの方が赤ん坊の扱いには慣れているからね。手を貸してくれるのは有りがたいね。とりあえず、ファムが解毒剤を持って来るまでは頼むよ」
「もちろん、そのつもりです。この不肖、エスプレッソ。誠心誠意を持って、ハルカ嬢のお世話を致しましょう。ハルカ嬢に何か有っては世界にとって、大きな損失ですからな」
「ふん、世界なんぞ私の知った事じゃないが、ハルカに何か有ったら、私にとって最大の損失だよ」
「やれやれ、相変わらずハルカ嬢を溺愛されていますな。昔とはまるで別人ですな」
「大きなお世話だよ!」
昔か……。あまり思い出したくないね。ろくな思い出が無いし。ハルカにも知られたく無いし。そんな事を考えていたら。
「ん? どうしたんだい、ハルカ?」
私の腕の中で抱かれているハルカがエスプレッソを見て、何やらもぞもぞ動いている。そして、とんでもない言葉を口にした。
「ぱぱ」
は? パパ?
「イッタイ、ナニヲイッテイルンダイ? ハルカ?」
あまりの事態に思わず片言喋りになってしまったよ。対して、エスプレッソは愉快そうに笑う。
「ハッハッハ! これは光栄ですな。ハルカ嬢にパパと呼ばれるとは。こんな可愛らしいお嬢さんなら大歓迎ですよ」
「ふざけるな! この野郎!」
「まぁまぁ、落ち着いてくださいナナ殿」
「うぐぐ……分かったよ」
私、こいつ本当に嫌い!
「 全く、ハルカ! あんたなんて事、言うんだい! こんな奴がパパな訳無いだろ!!」
よりにもよって、エスプレッソの奴をパパと呼ぶなんて。いかに赤ん坊になっているとはいえ、到底、受け入れられない。つい、カッとなって怒鳴ってしまった。もちろん、すぐに下手を打ったと悟るが、既に手遅れ。ハルカ涙目。
「ふぇえ……」
「あぁ、しまった! ごめんねハルカ」
謝るものの、効果無し。また大泣き及び、冷気の暴走待った無しの状況。そこへ差し伸べられるのは救いの手。ただし、神の手ではなく悪魔の手だが。
「ナナ殿、ハルカ嬢をこちらに渡してください」
「ちっ、分かったよ。頼むよエスプレッソ」
大泣き寸前のハルカをエスプレッソに渡す。優しくハルカを受け取ったエスプレッソは見事な手つきでハルカをあやす。
「よしよし、泣いてはいけませんよ。ママは歳のせいで少々、ヒステリー気味なのです。ちょっと心を病んでいるだけですから、分かってあげましょう」
やはり、上手いもんだねエスプレッソは。見事にハルカの大泣きを阻止。でもね……。
「エスプレッソ、ハルカが泣くのを止めてくれた事には礼を言うよ」
「何、お安い御用ですよ」
「でもね、誰が歳だって?! 更にはヒステリーだの心を病んでいるだの言いやがって!! この場で殺されたいのかい?!」
「だから、ナナ殿。大声を出さない。学習能力が無いのですか、貴女は? やはり歳ですかな? 」
この野郎……本当にハルカさえいなければ、この場で殺してやるのに。
「殺気がバレバレですぞ」
「うるさい!」
本当に、無事に済むのかね? 不安になってきたよ。
その後、エスプレッソと口喧嘩はするものの、大した騒ぎは無く、夕方となった。考えてみれば、今日は私、昼飯を食べてないんだよね。昼時にハルカが赤ん坊になってしまったから。そして、ハルカが元に戻っていない以上、今日の夕飯を何とかしないといけない。まぁ、そこはエスプレッソに頼もう。
「エスプレッソ、腹が減ったよ。早く夕飯を作っとくれよ。私、野菜は嫌いだからね。肉料理を頼むよ」
「……自分で作ろうという気は無いのですか、ナナ殿」
「面倒くさい」
「即答しないで頂きたい。やれやれ、ハルカ嬢は本当に良く出来たお嬢さんですな。こんな、どうしようもないダメ人間の元でメイド兼、弟子を務めているのですから」
心底、呆れた態度のエスプレッソ。誰がダメ人間だって? 私は魔女なんだ。家事なんて専門外なんだよ。そういう事はメイドであるハルカの仕事だろ。文句を言いたい所だが、またハルカに泣かれても困るので我慢。そして、エスプレッソはキッチンへと向かった。嫌味は言うが、やる事はやってくれるらしい。しかし……。
「困りましたな。食材があまり残っていませんな」
冷蔵庫の中を見ながら言うエスプレッソ。そりゃ困る。昼飯に続き夕飯も無しなんて嫌だよ。
「どうされます? ナナ殿。夕飯は外食にしますか?」
エスプレッソに外食を提案されるが、私は普段からハルカの作る料理を食べているからね。あんまり外食は好きじゃないんだよ。それに赤ん坊になったハルカもいるし。すると、私に抱かれているハルカがまた何やらもぞもぞ。何かに向けて手を伸ばしている。
「今度は何、ハルカ?」
ハルカの伸ばした手の先にはテーブル。その上にはチラシ。見れば、特売を知らせる物だった。
「ふむ、本日、午後5時から夕方お買い得セール。各種食材が安い! ですか。さすがはハルカ嬢、良く分かっておられる。まさにメイドの鑑」
チラシを手に感心するエスプレッソ。っていうか、ハルカ、あんた赤ん坊になっても特売が気になるのかい?
「で、どうされますナナ殿?」
「どうするかね? 私としてはあまり出歩きたくないんだけどね。ハルカの事も有るし」
エスプレッソに聞かれるが、赤ん坊になったハルカを連れて出歩くのはまずいからね。でも、ハルカはそんな私の気持ちを知らないらしく、またぐずり出した。
「ふぇえ……」
「あ~もう! 分かったよ! 行くから。行けばいいんだろ」
「泣く子には敵わないとは良く言った物ですな」
珍しく、同情的なエスプレッソ。全くだよ。泣く子には敵わない。特にハルカの場合はね。冷気の嵐が来るし。
さて、そんな訳でやってきた、スーパー。ちなみにハルカは私がおんぶしている。おんぶ紐はエスプレッソがセットしてくれた。秘密保持を考えると家に置いてきた方が良かったが、困った事に私が離れるとハルカが嫌がる。また泣かれて冷気の嵐を起こされる訳にもいかず、こうして連れてくる事になった。もしもの事態に備え、エスプレッソも一緒だ。でもね、私は1つだけ言いたい事が有る。
私とエスプレッソを夫婦扱いするな!!
全く、どいつもこいつも、ご夫婦ですか? って聞きやがって。ハルカと親子扱いならまだ許せるが、エスプレッソと夫婦扱いなど、最大の屈辱だ。
「ナナ殿、そんな不機嫌な顔をされてはなりません。ほら、ハルカ嬢が怯えています」
「まま……」
確かに、背中におぶったハルカがこちらを伺う様に言う。
これは不覚。ハルカに怯えられるなんて。フォローを入れないと。
「ごめんね、ママ全然、怒ってないよ。さぁ、早く買い物を済ませて家に帰ろうね」
「ほう、自分からママと名乗るとは」
「仕方ないだろ。ハルカにそう呼ばれてるんだからさ」
正直、ママと名乗るのはこそばゆいが、ここは我慢。ハルカが元に戻るまではね。
「ずいぶんと出来の悪いママですがな」
「あんたは一々、嫌味なんだよ!」
早いとこ、買い物を済ませて帰ろう。
「ねぇ、エスプレッソ」
「何ですか? ナナ殿」
「一体、何を買ったら良いんだい? さっぱり分からないんだけど……」
「やれやれ、ハルカ嬢にこういった事を丸投げにしたツケが回ってきましたな」
「うるさい!」
「逆ギレはみっともないですぞ」
「グギギギギ……」
私はスーパーの売り場で途方に暮れていた。来たは良いものの、何を買ったら良いか分からない。品の良し悪しも分からない。
「あ~もう! どうしろっていうんだい! オススメとか、激安とか書いてるけど、どれを買えば良いのかさっぱりだよ!」
ムシャクシャして、つい大声を出してしまう。おかげで周りの視線の冷たい事、冷たい事。そんな中、ついにエスプレッソが動いた。
「ふぅ、もういいです。本来は、良い機会ですから、ナナ殿に買い物のしかたを覚えて頂こうと思っていましたが、ここまで酷いと話になりません。私が買い物をしますので、ナナ殿はしっかり見てください」
「なんだい、それなら最初からあんたが買い物をすれば良かったじゃないか」
文句を言う私にエスプレッソが言い返す。
「ナナ殿、貴女はもう少し世間の常識を身に付けるべきです。それに、ハルカ嬢に依存し過ぎです。あまりに度を超すとハルカ嬢に愛想を尽かされますぞ。お忘れなく、ハルカ嬢は神ではありません。あくまでも人間です。我慢にも限度が有ります」
「……ふん。大きなお世話だよ。ハルカが愛想を尽かすなんて……」
胸にグサリと刺さる事を言われ、小声になる私。
「まぁ、そうならない様に気を付けられる事です。さ、買い物を済ませましょう。早く帰って夕食にせねばなりません」
「そうだね。さっさと買い物を済ませよう」
「ぱぱ、まま」
私の背中のハルカもそうらしい。さぁ、早く帰って夕飯にしよう。
その後、買い物も無事に済ませ、エスプレッソの作った夕飯を堪能。ハルカはやっぱり私のおっぱい経由でミルク。さて、そろそろ風呂に入りたいんだけど。
「ナナ殿、ハルカ嬢を連れてどこへ行かれるのですか?」
「決まってるじゃないか、風呂だよ。さっぱりしたいしね」
ハルカと一緒に風呂に入ろうとしたら、エスプレッソに止められた。全く、また何かケチを付ける気かい?
「ナナ殿、貴女はハルカ嬢が浴槽で溺れたらどうなさるのですか?」
「そんな事、私がいれば大丈夫だろ」
「なりません! もしもの事が有ってからでは遅いのです。ハルカ嬢を渡してください。私がお風呂に入れます」
とんでもない事を言い出したエスプレッソ。ハルカを風呂に入れるだって?
「ふざけるな! 嫁入り前のハルカの裸をあんたなんかに見られてたまるか! ハルカは私と風呂に入るんだ!」
ハルカは私の物なんだ! こんな奴にハルカの裸を見られるなんて、絶対許せない!
「ハルカ嬢を溺愛されるのは勝手ですが、少しは落ち着かれてはいかがですか、ナナ殿。私は妙な性癖は持ち合わせておりません。貴女と違って。ただ、身体の小さい赤ちゃんには普通の浴槽は大き過ぎます。私が赤ちゃん用の浴槽を出しますので、そこでハルカ嬢を入浴させようと思っております。分かりましたかな?」
「分かったよ! クソッ!」
悔しいけど、正論。子育て経験ではエスプレッソには勝てないね。結局、エスプレッソがハルカを赤ん坊用の小さな風呂で優しく洗ってくれた。更に入浴後には肌の手入れまで。赤ん坊は繊細だからと言っていた。つくづく、手が掛かるんだね赤ん坊は。
その夜。私とエスプレッソも風呂を済ませ、後は寝るだけとなった。ハルカは一足早く、おねむ。ベビーベッドの中でぐっすり。で、私達はどこで寝るかについて話合っている。
「ハルカは私の部屋に連れていくよ。さすがに一緒には寝ないけど。ベビーベッドごと私の部屋に運ぶさ」
「まぁ、その事については私は何も申しません、ナナ殿。それに、ちゃんとご自身の寝相の悪さを自覚されている様ですしな。いや、300年前には酷い目に合わされましたからな」
「……黙れ、エスプレッソ。ハルカの前でその事を話たら、殺す!」
「おっと、これは私としたことが、失言でしたな。申し訳ございません」
「ふん!」
私の人生最大の黒歴史。300年前の『あの夜』の私を殺したいぐらいだよ。
「それじゃ、私はもう寝るからね」
「分かりました。良い夢を、ナナ殿」
「まぁ、せいぜい良い夢を期待するさ」
こうして、ハルカの眠るベビーベッドごと私の部屋へ空間転移した私。後は寝るだけだね。
……と、思ったんだけどね。
「ふぇえええええええん!!」
「ちょっと、ハルカ。いい加減、勘弁しとくれよ……。ちっとも寝られやしない……」
「夜泣きの連続は、親にとって大きな負担になりますからな。頑張ってくださいナナ殿」
「他人事みたいに言うな、エスプレッソ!」
「ふぇええ……」
「あぁ、ごめんねハルカ。頼むから泣かないで……」
こうして、私はろくに眠れず明くる朝を迎えるのだった。
「ファム! 早く解毒剤を作っとくれよ!! このままじゃ、私が保たない!」
「ハッハッハ。母親は大変だと分かりましたかなナナ殿?」
「うるさい!」
投げ出したい気持ちと戦いつつ、書き上げた、第五十九話をお届け。
今回はナナさんとエスプレッソが主役。ケンカしながらもなんとか、赤ちゃんになったハルカの面倒を見る二人。買い物先で夫婦扱いされてナナさんが怒ったり、買い物が上手く出来なかったりと、騒ぎが絶えませんが。
しかし、三百年前、ナナさんとエスプレッソの間に何が有ったんでしょうね?
では、また次回。