02
ようやく食卓についた私はカツカツと炊き立ての白米を掻きこんでいる。
艶々と輝く白米と鯖の塩焼き、厚焼き玉子にホウレン草の御浸しに豆腐の味噌汁、筑前煮納豆生卵漬物等々。まるで朝食バイキングで目に付く物を片っ端から取って並べたようなバリエーション豊かな食材はテーブルに所狭し…… とは並べられていなかった。
八脚の椅子を有する佐倉家の大きな食卓の上には、それらの朝食が一人分だけ配膳されていたために、その広大なスペースを持て余し気味であった。
今現在、朝食を食べているのは私だけだ。
「俺が最後なのか? 皆は食べ終わったのか?」
「食べ終わったどころか、皆もう出かけてますよ」
おふくろは流しで食器の泡を濯ぎながら答えた。
「鉄平ちゃんと華ちゃんは学校で、百春と里笑子さんは仕事」
「親父は?」
「おとうさんも仕事に行きましたよ」
「あぁ、まだ定年していないんだったな。早いところ引退してポスト開けてやればいいのに相変わらず精力的なことだ」
さらっと憎まれ口を叩いてみたが、内心すこし安心した自分がいた。
退院後この家に転がり込んでから数日が経過したが、親父とは未だにまともに話をしていない。
今後の自分の身の振り方について結論を出しあぐねている自分自身に引け目を感じているのだ。
まったく情けない話だ。
「千年さん、何度も言うようだけどあなたね、華ちゃんにもうちょっと優しくしたげなさいな」
豆腐の味噌汁を啜る私におふくろが呆れるように言った。
「別に厳しくしているわけじゃない。普通だよ。普通に接しているよ」
「華ちゃんは優しい子なのよ。そこをちゃんと解ってあげなさいな」
「優しさと優柔不断は違う。のんびりしすぎだと思うがね」
おふくろは洗い物を終え水道の蛇口を閉めると好物の実家の筑前煮を頬張る私に向き直った。
「あなたは勉強も運動も何事にもテキパキと計画的に取り組んだものね。几帳面なくらい」
「時間には限りがあるからな。有効に使わないといくらあっても足りないよ」
おふくろはリビングに飾られている額縁入りの賞状に目をやった。
「どれもとても優秀な成績だったわね」
「だが一番になれたものは無いよ。一番になるにはセンスと途方も無い時間が必要なんだ。一番になれないのなら大多数よりも優れていると言えるポイントに線を引いてそれを目指す。そしてそれを全方位に対してやれば優等生のできあがりさ。とても無駄な時間は掛けていられない」
「わたしはあなたの剣道着姿好きでしたよ。もっと見ていたい気持ちもあったんだけどね」
「小学生の時じゃないか。県大会で3位入賞。あれは出来すぎな結果だったよ。今思えば入れ込みすぎた。同時に中学受験してるんだからとてもじゃないが時間が足りなかった。配分が稚拙すぎた」
ガラス扉のついた飾り台にはその時のメダルが置いてあるはずだったが、その他のメダルに埋もれてよく見えなかった。
「千年さん、今日は何か予定がある?」
おふくろの話題がころころと変わっていくところも変わらないな。
「ん、まぁ色々とな」
そっけなく回答してみたが、まったく白紙だ。
「なら食事が終わったら駅前の郵便局まで行って速達を出してきてくれないかしら。わたしは色々と忙しくて手が空かなくて困ってたの」
胡散臭い返答だが大抵こう言えば大したことの無い用件なら諦めるものなのだが、まったく意に介さず依頼を押し付けてきた。斬新だな。
「だから用事があると言っているだろう」
「そんな寝て食べてばかりの生活をしていたらアレになるわよ。え~っと、あれよ。そうそう『ミート』!」
「あのなぁ…… それを言うなら『ニート』だろう。それに俺はニートじゃない。たしかニートになるにも年齢制限があるんだよ」
ある一定以上の年齢の者はニートのカテゴリには計上されないはずだ。たしか34、5歳だった気がする。高年齢はお断りというわけだ。世知辛い世の中だ。いやまったく残念ではないわけだが。だから私はニートではない。ニート呼ばわりはカチンとくる。食っちゃ寝で太る意味では『ミート』も案外的外れではないところもカチンとくる。
「剣道で思い出したけれど、あなた杏ちゃん覚えてる?ほら小学生の頃いっしょに剣道塾へ通っていたじゃない。元気一杯の気持ちのいい子」
「杏……? さぁ? 覚えてないな」
じつは覚えているのだが、こいつに関しては敢えて思い出したくはないので惚けみた。
「あらあら。忘れちゃったの? ほら、初めて剣道塾に行った日にあなた帰ってきて家で泣いていたじゃない? あとから知ったけどあの日、先に入塾していた杏ちゃんにコテンパンにやられちゃったんですってね。悔しかったのか痛くて泣いていたのかは聞いてないけれど。あの杏ちゃんよ? 思い出した?」
真っ先に一番思い出したくないところを的確にそして詳細に突いてきた。もはや確信犯なのではないだろうか。
「でね、その杏ちゃんのお家ってスポーツ用品店をやってらっしゃるじゃない? しょうがないから郵便局はわたしが行くので、あなたはスポーツ用品店で買い物を頼まれてくれないかしら?」
「封筒はどれなんだ?」
この手のひらの上で遊ばれている感じは屈辱以外の何物でもないのだが、杏の家に行くくらいなら郵便局のほうが何倍もマシだ。これ以上昔話を掘り出されてもかなわない。
「あらあら。ありがとう」
おふくろは引き出しからゴムで束ねた数通の封筒を取り出し、そっと食卓に置いた。
「これね。午前中にお願いします。忘れないでね」
そう言い終えるとそそくさと部屋から出て行ってしまった。
さて、これは困った。
今日は月曜日である。もちろん祝日でも何でもない極々普通の平日だ。
そして愛車は廃車とあいなって目下の所、私の移動手段は徒歩である。
平日の午前中に地元でウロウロと歩き回って、もしもそれを知り合いにでも見られたらどうするんだ。もしやリストラされて失業中なのか? などと勝手な想像をされないとも限らない。
いや、これが考えすぎなのではないかというのは自分でもわかる。仕事で実家近くに来ているとか、平日が休みだとか普通に考えられる状況だし何も問題ない。
だが十数年仕事人間として構築された感覚と実際『無職』であるという事実が私の想像をマイナス方向に向けてしまうのだ。
平日の昼間に仕事以外で出歩くということがこれ程までに無防備で心細いなんて知りもしなかったことだ。
少し落ち着くためにお茶を持ったままリビングに移動してテレビをつけてみた。
ソファーに腰を下ろすとテレビのワイドショーでは朝から芸能人の不倫問題で大の大人が真剣に議論していた。
いったいその芸能人の不倫で自分達にどんな損害があったというんだ。なぜ他人の私生活に対してそこまで真剣に話が出来るのかと不思議に思うが、これはこれで需要があるようだ。
チャンネルを回すと『増加する中高年の引き篭もり』と禍々しい字体で書かれたテロップが表示された。テレビのコメンテーターが『これは社会全体で真剣に取り組むべき問題です』としたり顔で結論っぽいことを言ってコーナーを閉めた。
おまえたちに解るなら苦労はないさ。社会で取り組むって何に取り組むんだか。まったく親切なことだ。自覚の問題だよ。
テレビに対してツッコミを入れそうになった自分に気がつき、余計に気が滅入った。
テレビでは料理コーナーが始まった。
「それでは今日はお手軽につくれるお店の味のミートソーススパゲッティです! なんだかさっきの話題と似ていますね。皆さん、ニートではなくミートですよ(笑)」
「お前もか!!!」
結局ツッコンでしまった自分に酷く脱力しテレビを消した。
しかしながらこの私をそこらのミート…… もとい、ニートと一緒にしてもらっては甚だ遺憾だ。
『地域の目』や『社会倫理』がどうしたというのだ。伊達に企業戦士としてずる賢く、いや厚顔無恥に、いや図太く生きてきたわけではない。そんな不確定な要素が私の利益を損なうというのならやってみるがいい。曖昧なんだ!数値に出して提出しなさい数値に!
ふむ。よくよく考えると何も問題は無い。
こんなことは問題にすらならないくらいに些細な事柄だ。
さて、落ち着きを取り戻したところで郵便局へ向かう準備をするか。
赤の他人がどう考えようが、それが私に直接影響を及ぼさなければ私の知るところではない。
在りのままに振舞って無駄なことなど考えないことだ。
なんら気にする必要なんて無い。
準備を終え、颯爽と玄関を出たところで庭で寝ていた飼い犬のバッシュと目が合った。
数年前に鉄平が拾ってきた犬で、当然私がこの家に住んでいた頃には居なかったので大した面識は無い。その為か全く愛想といった類のものを振りまこうともしない。
基本的に無視といったスタイルだったはずなのだが、今日に限ってはジッと私を見てくる。
私は一抹の不安を覚え、思わずバッシュに問いかけた。
「なにか問題でもあるのか? 言っておくがお前は知らんだろうが私はこの佐倉家の長男だ。お前のご主人の鉄平よりもずっとな、むぅなんて言うか、そうだな、上司だ。ありていに言えば偉いのだ。あまり不遜な態度を取っていい相手ではないのだぞ?」
バッシュは何か言いたげな視線を私に向け続けている。
「……よもやこのスーツ姿に何か文句でもあるんじゃないだろうな?」
ビシッと上下のスーツを着込みネクタイを締めたこの姿に、言っておくが少しも不安だったわけでもないし、別段後ろめたく感じていたわけではない。断じて。
だが、もしも、ひょっとして、万に一つの可能性として文句でもあるのならばそれは心外だ。
「言っておくがこれは仕事だ。仕事(家事)で書類(郵便物)を提出してくるのだ。だからこの暑い中、ネクタイ背広着用などといったことは当然のことなのだ」
手提げのビジネスバッグをこれ見よがしに掲げて正当性を説いた。
それを見たバッシュが「バフォ」と咳込んで顔を背けて寝てしまった。
私にはそれがどうにも噴出して顔を背けたように見えた。
「おい! 人の話はちゃんと聞け! なんだその態度は?」
ビジネスマナーについて厳しく指導する私を近くで井戸端会議に勤しんでいた近所の奥様連中が憐れむように見ていた。
私と目が合うと「こんにちわー」と目を逸らしながらの挨拶の言葉を残してスッと散っていってしまった。
全身スーツを着込み7月の晴天の日差しを浴びているにも関わらず、私の体の中心を何か冷たいものが走り抜けていった。
『地域の目』『社会倫理』恐るべし……
「バッシュ。お前が行って来てくれないか? 郵便局」
相変わらずバッシュは寝ている。
「……バッシュ。私はもしかして格好悪いか?」
バッシュはのそのそと立ち上がると、バフォっと再び咳込んで自分の小屋に入っていった。
これは社会問題なんだぞ?
もっと全体で取り組むべきだろう?
ありていに言えば助けてくれ。
その後10分間、必死に犬小屋に交渉を続ける私がいた。
親切なテレビの可愛いお天気お姉さんの言うことには、
今日はこの夏一番の暑さになるそうだ。