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01

千年(ちとせ)さん、もう朝ですよ。そろそろ起きて下さい」


 聞きなれた懐かしい声が耳に入った途端、サーっというカーテンを滑らせる音と共に瞼の裏に強い赤みが映った。

「おふくろ。今何時だ?」

 気だるい体をベッドから起き上がらせ頭を掻いた。包帯が取れたとはいえ、未だに痒みが残っているのだ。気分的なものだと思うが……

「もう7時過ぎです。みんな朝食を摂ってますよ。あなたも早いとこ食べちゃいなさい」

 窓から射し込む強い朝日が髪を上げたおふくろの白い割烹着を更に清潔に映し出す。

 おふくろは窓を開けると「今日もいい天気」と嬉しそうに言い、私のほうに向き直った。

「……朝食をここに持ってきてくれないか?あと、コーヒーと新聞」

 大きな欠伸をして僅かに視線を外しながらおふくろに頼んだ。

 すこし気まずいのである。

「わたしはあなたのお母さんじゃないんですよ?そんなことくらい自分でやってちょうだい」

「いや、普通に母親だろう……」

 まるで妻のような台詞を真顔で言い放つ母親に脱力した。

 おふくろはコホンと小さく咳払いをすると、

「退院した後、ここに来てからもう半月です。そろそろみんなと一緒に食事くらいは摂りなさい。それにあんまりそうやってると、アレになるわよ。え~っと、あれよ。そうそう『逝き篭もり』!」

「あのなぁ…… それを言うなら『引き篭もり』だろう。それに俺はまだ逝ってない。ちゃんと生きてる」

「あらあら……」と言いながらおふくろはドアから出て行ってしまった。

 はぁと小さく溜息をつくと少し落ち着いた気分になった。

 おふくろは変わらないな。

 私が小さい頃からずっとあんな調子だ。

 『千年』(ちとせ)なんて当時としては珍しい名前を私に付けたのもおふくろだ。

 今この歳の中年となっては、もうすこし後のことも考えて命名してほしかったと恨みもしたものだ。

 そして私にあんなことがあっても何も変わらない。

 すこし安心する。


 あの事故の後、なんとか一命を取り留めた私は三ヶ月ほど手術だ入院だと病院で過ごした。

 そして退院した後、自宅のマンションには戻らずにこの実家に転がり込み、昔の自分の部屋で朝を迎えた本日に至る。


 グーとふてぶてしい音を立てて胃袋が空腹を主張した。

 さてと、どうしたものか。

 いつものように食事は持ってきてもらえないようだ。胃袋を黙らせる為には一階の食卓へ降りなければいけない。

 降りればいい。降りればいいだけの話じゃないか。

 しかし、しかしだな……少々バツが悪いんだ……

 ベッドに腰掛けたまま軽く頭を掻いた。癖になっているのかもしれないな。見た目不潔な仕草なので直さないといけないな。などと考えていると、トトトトっと階段を駆け上がってくる軽い音が聞こえた。

 足音は私の部屋の前で止まり、そのままジッとしている。

 私がドアを凝視していると、三十秒ほど後にドアからコンコンと小さな音がした。

「どうぞ」

 私がそう言った後もドアは暫く無反応だった。

 念のため「どうぞ。空いてる」と言い直すとドアがゆっくりと開いていった。

 三十センチほど開いたドアの隙間から小さな頭がチラチラと見えたり隠れたりしている。

「空いてるよ。なにか用?」

 私がドアに向かって声を掛けるとドアがビクと震えたかと思うと勢いよく閉められた。

 と思ったが、小さな頭が挟まっていた。

 その頭がヘナヘナと下にずり落ちていくと同時にドアがゆっくりと開いていった。

 私が視界をドアの下のほうに落とすと、そこには頭を両手で擦りながらペタンと床に尻餅をつくショートカットの女の子がいた。

「何をしてるんだ?」

 ベッドの上から声を掛けると女の子は目をギュッと閉じながら頭を擦り「いたたたた……」と小さく呟いた。

 そのまま暫く待っていると、女の子は「ん~~~」と唸りながらゆっくりと立ち上がり、「だ、大丈夫です」とフラフラしながら言った。別に心配していたわけではないのだが。

「なにか用だった?」

 私が訪ねると女の子はハッと思い出したように手を合わせた。

 そして一見してぎこちない笑顔を作ると、

「あ、あの。そのおばあちゃんが行って来てくれないかって言って……」

 そう言って女の子は下を向いて黙り込んでしまった。

「そうか。それで?」

 要領を得なかったので聞き直した。

「えっと、あの、ママはもうお仕事行っちゃってるから、わたしが頼まれて……」

 ふむ。だからなんなんだろう。まったく解らん。

「結果を言いなさい。結果を」

 この調子だといつ本題が出るのか解らなかったので、ぶっきらぼうに尋ねた。

 女の子は再びビクリと肩を跳ね上げ、大きく見開いた目に涙を見る見る溜め込んでいった。

 あれ?別に怒ったりしてないのに何故だ?本題を出す為の助け舟を出しただけなのだが……

 女の子はキュッと横に結んだ口を小さく震わせながらゆっくりと開いた。

「ごはん……一緒に食べよって……言おうと思っ……」

 そこまで搾り出すと女の子は階段を駆け下りて行ってしまった。


 なんだ。食事に降りて来いって話か。それならそうと直ぐに言えばいいのに。

 もしかして朝食を運んできてくれたのではないかと少し期待していたのだが。

 頭を掻きながら、のそのそとベッドから降りてクローゼットに向かった。

「まったく。百春(ももはる)の奴、子供に少し甘すぎるんじゃないのか」

 弟とはいえ、百春の、あいつの軽さには呆れるところがある。

 まあ、確かにあいつは俺より二年早く結婚して早々に実家で同居を始めたのだから、あいつの娘の(はな)ちゃんにしたら私なんてプライベートな空間にいきなり現れたおっさんなんだろう。抵抗があっても当然か。

 しかしながら自分の姪っ子でもあるのだから、あのオドオドした態度には驚きもある。

 佐倉家の遺伝子は百春の奥さんの里笑子(りえこ)さんの家の遺伝子に負けてしまったのだろうか。いや、里笑子さんの家の遺伝でもありえない。なんたって百春は里笑子さんに頭が上がらないくらいに奥さんは強いんだ。ま、百春が情けないってだけのことなのだが。

 どちらにしろ、娘の悠と同じ六年生とはとても思えないくらいに弱々しい。

 華ちゃんの兄の鉄平(てっぺい)はそんなこともないんだがな。

 しかし、今となっては一時的にせよ一緒に暮らしているわけなのだから、なんとか怖がらせないように接する方法でも考えなければいけないのかもしれない。

 なぜ怖がっているのか全く心当たりはないのだが……


 寝巻きのジャージとTシャツを脱ぎ捨て下着のみになるが、さすがに七月ともなると寒さも感じない。

 クローゼットから白のワイシャツを取り出し、袖を通しながら食卓での振る舞いについて考える。

 バツが悪いことのひとつがさっきのこれ。弟夫婦との同居。

 両親のみの実家であればそうでもないのだろうが、さすがに百春、里笑子さん、鉄平、華ちゃんの4人家族も一緒なので、さすがに気を使わざるを得ない。

 あとは、既に退職して無職であるという事実。そして物損とはいえ交通事故を起し入院したという事実。

 これらは実家に対しても十分恥ずかしい事柄だ。

 特に親父にはな。

 あとは、これは私しか気が付いていないことなのだが。

 じつは事故の後、ところどころ事故前の記憶が全く飛んでしまっている所があるようだ。

 入院中、おふくろが見舞いの際に話す内容について、いくつかまったく記憶にない話があった。

 医者にそれとなく相談すると、事故の物理的な影響で一部の記憶に乱れが出ているかもしれないとのことだった。その後ふたたび精密検査を行ったが脳には異常は見られなかった。

 医者が言うには今後回復することも考えられるし、そうでないことも考えられる。だが生活上、別段問題は見られないので、それほど影響はないだろうとのことだ。

 実際、今のところ特に影響は見られないのだが、実家や家族にはなるべく隠しておきたいのでボロが出ないよう、あまり話し込みたくないというのが事実。


 自分で列挙した事実を改めて認識するとゲンナリしてしまった。

 私は自分の机の横に置いてあるアルミのビジネスケースを手に取り、ダイアル暗証番号を回して中から封筒を取り出した。

 そして封筒の中の一枚の書類を引き出して机に広げた。

「そして、最大にバツが悪いのがコレか」

 机の上に広げたA3サイズの書類には既に必要事項と妻の判子が押印された離婚届を見つめて深い溜息をついて目を閉じた。

 退院後、日中仕事をしている妻には私の看護は大変だろうという名目で実家に来たことになってはいる。実際は既に離婚は秒読みの段階で、私としても妻としてもお互いに看護なんてことはしたくもないし、されたくもないだろうと考え私の判断で実家に転がり込んだのだ。

 この離婚届のことは、この家の人間は誰も知らない。

 私と妻の美里(みさと)だけの最後の秘密にして最期の事実だ。


 職場での消耗、家庭での不和、そして離職、離婚届。

 これらの事実が私を押しつぶしてしまったのだろうか。

 実際、事故を起す前は相当に弱っていたのかもしれない。


 しかし不思議なことに、これらの問題が何一つ解決した訳ではないのだが私は今、意外と落ち着いているのだ。

 事故の影響なのだろうか。

 この何一つ結論が出ていない問題を抱える状況にありながら、のほほんと生きていることが私には信じられない。

 これではまるで……


「あ、あの。えっと、おばあちゃんがもう一度だけ行ってきてちょうだいって……」

 後ろからドアが小さな音を立てて開いたかと思うと、華ちゃんがドアの隙間から顔だけ出して私に声を掛けてきた。

 暫く待っても続きが出てこない。

 それどころか大きく目を見開いたまま固まっている。

 私は腰に手を当てて、はぁと小さく溜息をついた。

 そして顔だけをドアに向けて、先程とおなじ無駄手間を省く為に険しい表情で単刀直入に切り込んだ。

「結果を言いなさい。結果を」

 すると華ちゃんは階段を駆け下りながら泣きそうな声で、

「おばあちゃああん。千里おじさんがパンツなの~~~」

 と言いつけた。

 私はそのまま顔を正面に向けて窓ガラスに映る自分を見た。

 そこには真白いブリーフ一丁に真白いYシャツを羽織り腰に手を当てて仁王立ちしている可哀想な中年の姿が映っていた。


 そう、これではまるで、『格好悪い男』じゃないか……



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