プロローグ
『もしも願いが叶うなら……』
そんな幾多の詩や歌に使われているどこかで聞いたフレーズを呟いた。
……はずなのだが、それは声には出なかった。
聞こえてくるのは車のエンジン音と頭の中全体にエコーする甲高い耳鳴り、そして口から漏れ出る不規則で擦れた呼吸音だけだった。
ハンドルに突っ伏した頭を上げたが真っ暗だ。
全身から込みあがる痛みに堪えてゆっくりと力を込めると、左目の視界がボンヤリと開いていった。
靄掛かったフレームに映るのは、Y字路の分岐点に立つ鉄柱にめり込んだ愛車のボンネットの無残な光景だった。
それが特に綺麗なYの字を描いている以外は見通しも良く極々普通のY字路だったのだが、私は右にも左にもハンドルを切ることができず、そのまま中央の鉄柱に激突したのだ。
右へ向かうのが正しかったのか、それとも左へ行くべきであったのか。
今の私にはそれすらも決断することができなかったのだ。
とりあえず車から降りようと考えたが、全身に力が入らない。
それならしょうがないな……とアッサリと諦め、出来る限り大きく息を吐き、そのままシートに深くもたれ掛かった。
もしかするとガソリンなんかが漏れてはいないだろうか。
引火したら爆発するかもしれないな。
ニュースになったらどんなふうに報道されるだろうか。
『半月前に会社に辞表を叩き付けた無謀中年男性(無職37)の自動車が鉄柱に突き刺さったまま大爆発!』
とか?
ははは。笑えない。
私という人間は最後の最後まで気が利かないな。
まぁ、結局そういう人間だったということだ。何を今更……
部下達にも影で散々言われてた事だろうに。
今の世の中、『空気を読む』といったスキルがあるらしい。
そしてそれはとても重要なのだという。
いったいそれは、どの資格を取れば取得できるのだ。
朝刊の広告にでも挟まっているのだろうか。
バカバカしい……
薄く乾いた笑いを浮かべてみたが、娘に言わせると気持ち悪いらしい。
強く生きることだって大切なことだ。
そのためには人の都合ばかりなんて伺っていられない。
そんなことをして舐められたり、つけこまれたりでもしたらたまったものではない。
途中にある過程は問題じゃない。
その結果が全てなんだ。
ふと助手席のほうに目をやった。
助手席に置いていたはずの電気屋の紙袋は激突の衝撃で吹っ飛んだのだろうか、その足元に落ちていた。
さっき買ったコレのせいかもな。
私らしくないことをしたもんだ。
気がつくと先程まで喧しいほどに鳴り響いていた耳鳴りが聞こえなくなっていた。
それどころか車のエンジンの音さえ聞こえてこない。
むしろ何も聞こえない……
微かな視界も靄に覆われていき、全身の感覚が徐々に消えていくのが解る。
車よりも前に私が先に終わるのかな。
いくつもの決断の全てに後悔はしない。
私とはこういう人間なんだ。
今の自分は誰のせいでもない。
私が自分の頭で判断し、私が自分の足で進んだ。
これが自己責任の結果として存在する、どうしようもないくらいに『佐倉千年』なのだ。
だからこそ、私はこんな結末であれ結果を受け止める。
だけど、
だけれど、もしも……
『もしも願いが叶うなら……』
「せめて、せめて大切な人の気持だけでも…… もっと理解できる人間になりたい……」
自我の存在も感じないほどに真っ暗で無音な世界に、その頼りない言葉は深く静かに響くとともに、私の意識は霧散した。