雨粒のピアノ
梅雨が近づくと、音楽の街は少しだけ静かになる。
晴れた日にはどこかで誰かが笛を吹き、パン屋の煙突はリズムよくコツコツ音を刻み、郵便屋の鈴が軽やかに響くのに、灰色の季節が来ると、街全体が息を潜めるようにトーンを落とすのだ。
ソラはその空気の変化を、胸の奥がひんやりするような感覚として受け取った。
「なんだか、まちがちいさくなるみたいだ……」
そうつぶやきながら、彼は雨のにおいを追って森のほうへ歩いていく。
ぽつ、ぽつん。
葉の上を跳ねる水の音が、ソラの耳をくすぐった。
森へ入ると、緑は深く、ひと雨ごとに色を増していく。
地面はしっとりと湿り、踏むたびにやわらかく沈むようだった。
雨はまだ弱い。
けれど、音だけははっきりしている。
葉に落ちる音、枝を伝う音、苔を抱くように吸い込まれる音ーーそれぞれが違う高さと響きを持ち、森じゅうが静かな合奏をしているようだった。
ソラはその中に、ひとつだけ異質な音を聞いた。
ぽろん……
ぽろ、ろん……
雨粒の音にしては、あまりにも“楽器”の音に近い。
「誰か、森でピアノを弾いてるの?」
そう思った瞬間、胸の奥の不安が、ふっと軽くなった。
音があるなら、そこに誰かがいる。
ソラは呼ばれるように音の方へ進んだ。
薄暗い木陰を抜け、息を呑むほど開けた場所に出ると、その中央にひっそりと古いピアノが置かれていた。
木の外装はすっかり色あせ、ところどころに苔が生え、鍵盤は白も黒もくすんで古びている。
だが、それはまるで長い冬眠から目覚めた古い獣のように、堂々とそこに佇んでいた。
ソラはゆっくり近づき、そっと鍵盤に手を伸ばす。
触れた指先は、ひんやりとしていて、まるで雨雫のようだった。
その瞬間、視界の端で、ひとつの雫が空から落ちた。
ぽろん。
「……え?」
たった一粒の雨が、鍵盤の上ではっきりと音を生んだのだ。
ソラは驚いてピアノを見つめた。
すると、またひと粒。
そしてまたひと粒。
ぽろ……ぽろん……ぽろん……
複数の雫が鍵盤を叩き、メロディを紡ぎはじめた。
雨のリズムは気まぐれなのに、音はなぜかひとつの旋律を形づくっていく。
少し寂しげで、少し懐かしくて、聞いたことのないはずなのに、どこか知っているような……そんな不思議な旋律だった。
「……こんな音、聞いたことないよ……」
ソラがそう呟いたとき、森の影がゆらりと揺れ、小さな光がにじむように現れた。
細い手足に、雨のきらめきをまとった透明な小さな精霊ーー音の精だった。
「これは“雨粒のピアノ”。この街でいちばん古い楽器なの」
精霊は、消え入りそうな声で言った。
「昔ね、ひとりぼっちの音楽家がこの森に来て、静かに静かに練習していたの。その音を、雨が覚えたの。それから雨は、音楽家がいなくなっても、時々こうして代わりに弾きに来るんだよ」
「雨が……代わりに?」
「うん。“悲しみの音”をね」
ソラは少し胸がしめつけられるような感覚をおぼえた。
「悲しみの音って、いるの?」
「もちろんいるよ。楽しい音、笑う音、踊る音だけが音楽じゃないもの。泣く音、寂しい音、胸がぎゅっとなる音……それらも音楽の街の大事な音」
ぽろん……ぽろろん……
雨の旋律は、深みを増しながら続いていく。
低い鍵盤に落ちた雨は、沈むような音を出し、高い鍵盤では細い光を描くようにきらめいた。
ソラの胸に、静かな温かさが広がる。
悲しみの音なのに、なぜか苦しくない。
むしろ、寄り添ってくれるようだった。
「ねえ、精霊さん……どうして、こんなふうに少し悲しい音なのに、あったかいの?」
精霊は雨を受けながら、ほんの少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「悲しみを抱えたままの音は、重くて沈んじゃう。でも、“誰かに聞いてもらえた”音は、軽くなるんだよ。雨はね、音楽家の悲しみを全部聞いてあげたの。だからこんなふうに、優しい音になったの」
「だれかに、聞いてもらえると……音も変わるの?」
「うん。人も同じ。悲しい気持ちをしまいこんだままだと、息が苦しくなるよ。でも誰かに話せたり、音にできたりすれば、ね……」
精霊はそっとソラの胸に触れた。
「ソラの中にも、まだ言葉になっていない音がたくさんある。それを、これから見つけていくんだよ」
雨は次第に強くなり、ピアノの音はさらに複雑で深みのある旋律を奏で始めた。
まるで空そのものが弾いているかのように、音は森じゅうへ広がっていく。
ソラは目を閉じた。
雨粒のひとつひとつが、自分の胸の奥を軽く叩くような気がして。
悲しい記憶も、寂しさも、声にならない気持ちの全部が、音になってほどけていく。
やがて雨が弱まり、木々の葉から雫が静かに落ちるだけになると、ピアノはゆっくり沈黙した。
ソラは鍵盤に触れた。
もう音は出ない。
でも、温度だけが残っているように感じた。
「悲しい音って……きれいなんだね。こんなに優しいなんて知らなかった」
精霊はうなずいた。
「悲しみを知らない音楽家はね、だれかを本当に笑わせる音も作れないの。ソラは今日、ひとつ大事な音を見つけたよ」
そう言うと、精霊は雨のしずくに溶けるように姿を薄くしていき、最後には光の粒だけになって風に乗って消えた。
森を出るころ、空はまだ薄曇りだったが、ソラの胸の中には小さな灯りがともっていた。
悲しみの音を知ったことで、その灯りはより強く輝いているように感じた。
その日は、街へ戻る道すがら、ソラの足取りはゆっくりで、とても静かだった。
けれどその静けさは、決してさみしいものではなかった。
雨が残した旋律が、ソラの内側で、静かに静かに響いていたからだった。




