表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

雨粒のピアノ

 梅雨が近づくと、音楽の街は少しだけ静かになる。

 晴れた日にはどこかで誰かが笛を吹き、パン屋の煙突はリズムよくコツコツ音を刻み、郵便屋の鈴が軽やかに響くのに、灰色の季節が来ると、街全体が息を潜めるようにトーンを落とすのだ。

 ソラはその空気の変化を、胸の奥がひんやりするような感覚として受け取った。

「なんだか、まちがちいさくなるみたいだ……」

 そうつぶやきながら、彼は雨のにおいを追って森のほうへ歩いていく。

 ぽつ、ぽつん。

 葉の上を跳ねる水の音が、ソラの耳をくすぐった。

 森へ入ると、緑は深く、ひと雨ごとに色を増していく。

 地面はしっとりと湿り、踏むたびにやわらかく沈むようだった。

 雨はまだ弱い。

 けれど、音だけははっきりしている。

 葉に落ちる音、枝を伝う音、苔を抱くように吸い込まれる音ーーそれぞれが違う高さと響きを持ち、森じゅうが静かな合奏をしているようだった。

 ソラはその中に、ひとつだけ異質な音を聞いた。

 ぽろん……

 ぽろ、ろん……

 雨粒の音にしては、あまりにも“楽器”の音に近い。

「誰か、森でピアノを弾いてるの?」

 そう思った瞬間、胸の奥の不安が、ふっと軽くなった。

 音があるなら、そこに誰かがいる。

 ソラは呼ばれるように音の方へ進んだ。


 薄暗い木陰を抜け、息を呑むほど開けた場所に出ると、その中央にひっそりと古いピアノが置かれていた。

 木の外装はすっかり色あせ、ところどころに苔が生え、鍵盤は白も黒もくすんで古びている。

 だが、それはまるで長い冬眠から目覚めた古い獣のように、堂々とそこに佇んでいた。

 ソラはゆっくり近づき、そっと鍵盤に手を伸ばす。

 触れた指先は、ひんやりとしていて、まるで雨雫のようだった。

 その瞬間、視界の端で、ひとつの雫が空から落ちた。

 ぽろん。

「……え?」

 たった一粒の雨が、鍵盤の上ではっきりと音を生んだのだ。

 ソラは驚いてピアノを見つめた。

 すると、またひと粒。

 そしてまたひと粒。

 ぽろ……ぽろん……ぽろん……

 複数の雫が鍵盤を叩き、メロディを紡ぎはじめた。

 雨のリズムは気まぐれなのに、音はなぜかひとつの旋律を形づくっていく。

 少し寂しげで、少し懐かしくて、聞いたことのないはずなのに、どこか知っているような……そんな不思議な旋律だった。

「……こんな音、聞いたことないよ……」

 ソラがそう呟いたとき、森の影がゆらりと揺れ、小さな光がにじむように現れた。

 細い手足に、雨のきらめきをまとった透明な小さな精霊ーー音の精だった。

「これは“雨粒のピアノ”。この街でいちばん古い楽器なの」

 精霊は、消え入りそうな声で言った。

「昔ね、ひとりぼっちの音楽家がこの森に来て、静かに静かに練習していたの。その音を、雨が覚えたの。それから雨は、音楽家がいなくなっても、時々こうして代わりに弾きに来るんだよ」

「雨が……代わりに?」

「うん。“悲しみの音”をね」

 ソラは少し胸がしめつけられるような感覚をおぼえた。

「悲しみの音って、いるの?」

「もちろんいるよ。楽しい音、笑う音、踊る音だけが音楽じゃないもの。泣く音、寂しい音、胸がぎゅっとなる音……それらも音楽の街の大事な音」

 ぽろん……ぽろろん……

 雨の旋律は、深みを増しながら続いていく。

 低い鍵盤に落ちた雨は、沈むような音を出し、高い鍵盤では細い光を描くようにきらめいた。

 ソラの胸に、静かな温かさが広がる。

 悲しみの音なのに、なぜか苦しくない。

 むしろ、寄り添ってくれるようだった。

「ねえ、精霊さん……どうして、こんなふうに少し悲しい音なのに、あったかいの?」

 精霊は雨を受けながら、ほんの少しだけ嬉しそうに微笑んだ。

「悲しみを抱えたままの音は、重くて沈んじゃう。でも、“誰かに聞いてもらえた”音は、軽くなるんだよ。雨はね、音楽家の悲しみを全部聞いてあげたの。だからこんなふうに、優しい音になったの」

「だれかに、聞いてもらえると……音も変わるの?」

「うん。人も同じ。悲しい気持ちをしまいこんだままだと、息が苦しくなるよ。でも誰かに話せたり、音にできたりすれば、ね……」

 精霊はそっとソラの胸に触れた。

「ソラの中にも、まだ言葉になっていない音がたくさんある。それを、これから見つけていくんだよ」


 雨は次第に強くなり、ピアノの音はさらに複雑で深みのある旋律を奏で始めた。

 まるで空そのものが弾いているかのように、音は森じゅうへ広がっていく。

 ソラは目を閉じた。

 雨粒のひとつひとつが、自分の胸の奥を軽く叩くような気がして。

 悲しい記憶も、寂しさも、声にならない気持ちの全部が、音になってほどけていく。

 やがて雨が弱まり、木々の葉から雫が静かに落ちるだけになると、ピアノはゆっくり沈黙した。

 ソラは鍵盤に触れた。

 もう音は出ない。

 でも、温度だけが残っているように感じた。

「悲しい音って……きれいなんだね。こんなに優しいなんて知らなかった」

 精霊はうなずいた。

「悲しみを知らない音楽家はね、だれかを本当に笑わせる音も作れないの。ソラは今日、ひとつ大事な音を見つけたよ」

 そう言うと、精霊は雨のしずくに溶けるように姿を薄くしていき、最後には光の粒だけになって風に乗って消えた。


 森を出るころ、空はまだ薄曇りだったが、ソラの胸の中には小さな灯りがともっていた。

 悲しみの音を知ったことで、その灯りはより強く輝いているように感じた。


 その日は、街へ戻る道すがら、ソラの足取りはゆっくりで、とても静かだった。

 けれどその静けさは、決してさみしいものではなかった。

 雨が残した旋律が、ソラの内側で、静かに静かに響いていたからだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ