風の歌と小さなリュート
春の朝は、街じゅうがそっと音を立てて目を覚ます。
窓辺のベルが“ひらり”と揺れ、朝靄にのった光が音符のようにちらちら空へ昇っていく。
音楽の街に来てまだ二日ほどのソラは、そんな朝の気配にすっかり魅せられていた。
「おはよう、街……」
挨拶をすると、窓の外のどこかで小さな“ティン”という音が返ってきた。
まるで街そのものが返事をくれたようで、ソラは思わず笑みをこぼした。
初めて泊まった宿は、木造でやさしい香りがする不思議な宿だった。
廊下を歩くと床板が高い音や低い音を鳴らし、まるで階段を上るだけでメロディができる。
宿の主人いわく、「ここは“音を育てる家”だからね」ということらしい。詳しい意味はわからないが、聞くとなぜか嬉しくなる言葉だった。
宿を出ると、春の風がふわりと頬をなでた。
風の中に、どこか聞き覚えのあるリズムが混ざっている。昨日広場で会ったリュートの青年の旋律に、どこか似ている気がした。
「今日も広場に行ってみようかな……」
そうつぶやきながら歩き出すと、足元の石畳が“ぽん”“ぴろん”と軽やかに鳴った。
この街は歩くだけで音楽になるのだから、なんて愉快だろう。
春風が運んできた花の香りに包まれながら広場へ向かうと、昨日と同じ青年がいた。
背中にリュートを背負い、片膝を立てて楽器の弦を張り替えている。
「あっ、君。また会ったね」
彼は目だけで笑い、指先で弦を軽く弾いた。
“ポロロロ……”
新しい弦の響きは、まだ頼りないけれど初々しく、春の風にぴったりだった。
「その音、なんか昨日より軽い?」
「よく分かったね。弦を春用のものに替えてるんだ。季節によって街の響きが変わるから、それに合わせた方が音が伸びるんだよ」
「季節で……音が変わるんだ」
ソラは思わずつぶやいた。
それは昨日聞いた「街そのものが音楽でできている」という感じに合点がいく。
青年は軽やかに立ち上がり、ソラに向かって楽器を持ち直した。
「名前、まだ聞いてなかったね。僕はルース。風の楽器を扱う奏手だよ」
「奏手?」
「街の音を紡いだり、人の音を聴いたりする仕事さ。君は?」
「ソラ」
「いい名前だね。空の音は、春と相性がいいんだ」
相性がいい? その意味を尋ねる前に、ルースはソラの手を軽く引いた。
「せっかくだから、風の音を聴いてみない? ちょうど東の風が良い具合に吹いてきてる」
ルースに連れられ、ソラは広場の奥へ進んだ。
そこには、細い塔のような建物が立っていた。
塔は白い木で作られていて、外壁には無数の小さな穴が空いている。
「風……の塔?」
「そう。季節の風が通るとね、塔そのものが歌うんだよ」
ルースが塔の扉を押すと、柔らかい光の残る階段が現れた。
一段踏むたび、階段が“ぴん”“とろん”と不思議な音を奏でる。
「この塔、全部音が鳴るの……?」
「音楽の街だからね」
二人は塔をのぼった。
上に進むにつれ、風の音が強く、そして澄んでいく。
最上階に着いた瞬間、ソラの髪を春の風がふわりと浮かせた。
塔の内側には細い弦が何本も張り巡らされていて、外を吹く風が触れるとその弦が軽やかに振動する。
“シャン”
“ヒュルル”
“ポロロン”
まるで目の前に、風だけで作ったオーケストラがあるみたいだった。
「……すごい……!」
ソラは思わず声をあげた。
塔の外の景色も見下ろせる。
春の街は淡い桃色にきらめき、音符のように光る花びらが空を舞っている。
「春の風は“はじまりの音”を運んでくるんだ。君にも、何か聞こえない?」
「……聞こえる気がする。胸の奥が、少しだけ……」
ルースは静かにうなずいた。
「迷い込んでくる人はね、たいてい“失くした音”を抱えている」
「失くした音……?」
「忘れてしまった大切なものだったり、言えずにしまった想いだったり。音楽の街に呼ばれるのは、そういう音を持つ人だけなんだ」
その言葉に、ソラの心がそっと揺れた。
思い当たるような、そうでもないような……
けれど遠い記憶の底が少し疼く感覚はあった。
ふと、塔の弦のひとつが大きく震えた。
風が変わったのだ。
春にしては強い風ーーけれどその音はどこか懐かしかった。
“ぽん”
胸の奥で、昨日と同じ小さな音が鳴った。
ソラの肩がわずかに震える。
「今の……」
「聞こえた?」
とルースが穏やかに聞いた。
「うん。でも、なんだろう……すごく……遠い……」
ルースはリュートを取り出し、塔の風の音にそっと重ねた。
“ポロン……”
暖かい音が風の旋律を包み込み、塔の中に柔らかい調べが降りてくる。
「焦らなくていいよ。音ってね、聞こえるときに勝手に心に届くものだから」
「……うん」
ソラは静かに目を閉じた。
風の塔の音とルースのリュートが重なり、胸の奥がじんわり熱を帯びていく。
春の風が吹き抜け、髪が揺れた。
そのとき、ソラの心の底で、あの日の風景のような“影”が一瞬浮かんだ。
小さな手。
指先のぬくもり。
誰かの笑い声。
そして、途切れた記憶。
「……っ」
目を開けると、風はやんでいた。
塔の弦も静かだ。
ただ、胸の奥の熱だけが残っている。
「何か、思い出しかけた?」
「……わからない。でも、すごく大事な音だった気がする」
ルースは微笑んだ。
けれど、その瞳の奥にはどこか心配の色もあった。
「音を取り戻す旅はね、優しいけど、ときどき痛い。でも……多分、君なら大丈夫だよ」
「どうして?」
「君の名前が“ソラ”だから」
「それ、関係あるの?」
「空の音は、どんな季節にも溶ける強さを持ってる。風が運んでくるものを受け入れられる名前なんだ」
その言葉は少し照れくさかったが、不思議と胸が軽くなる響きだった。
塔を降りたころ、街の空気は昼の気配を帯び始めていた。
春の陽が色の音を増やし、店々の窓の鈴がにぎやかに揺れる。
「今日はこのあとどうする?」
「街を歩いてみるよ。もっと音を聴きたい」
「いいね。春の街には“風の子どもたち”が遊んでるかもしれない。会えたら楽しいよ」
その言葉を残して、ルースは広場の中央へ駆けだした。
軽やかに跳ねる足音が、そのまま旋律になっていく。
ソラは広場の真ん中に立ち、春風を胸いっぱいに吸い込んだ。
塔で聴いた風の歌がまだ耳に残っている。
あの懐かしい音の正体を、そのうちきっと見つけられるーーそんな気がした。
「よし、行ってみよう」
歩き出した足元が“ぴんっ”“ぽろん”と明るく鳴る。
春の街はソラの足取りに合わせて小さな曲を作り、風はその旋律を運んでいった。
ソラの“失くした音”を探す旅は、まだ始まったばかり。
けれど確かに、春の風がその一歩を後押ししていた。




