番外編 月夜のメヌエット
夜の街は、昼間とはまったく別の表情を見せていた。
星が瞬き、街灯の灯りが柔らかく路地を照らす中、ソラは静かに広場を歩いていた。
春の夜風が頬をなで、遠くの教会の鐘がかすかに響く。
その音さえも、この夜の静けさに溶け込むように柔らかく、ソラの胸に温かさを残した。
「……今夜は、どんな音に出会えるんだろう」
月が高く昇り、街全体を銀色の光で包み込む。
その光は建物の屋根に反射し、路地や広場に淡い光の絨毯を敷き詰めたようだった。
ソラは足を止め、息をのむ。
月光だけで描かれる街の景色は、昼間の色彩とは異なる、柔らかくも少し幻想的な世界だった。
ふと、遠くの広場で微かな旋律が聞こえてきた。
耳を澄ますと、普通の楽器では出せない、不思議な響き。
澄んだ水の流れのようであり、風のそよぎのようでもあり、どこか心の奥底に触れる音だった。
音のする方へ歩みを進めると、そこには月光を背にした一つの姿があった。
月の精ーー銀色の衣をまとい、髪も羽も月の光を反射して淡く輝く。
精は軽やかに舞いながら、空中に浮かぶ小さな楽器を弾いていた。
楽器は形を持たず、光の波だけで作られており、触れることもできない。
しかし、その音は確かに存在し、空気を震わせ、心に届いた。
「……これは……!」
ソラは思わず息をのむ。
月光だけで奏でられる楽器。
その音は、人々の心の揺れや、夜の静けさを映し出すように響いていた。
小さな喜びも、隠れた寂しさも、過ぎ去った思い出も、すべてが光の波として空中に広がり、目には見えない旋律となって街に満ちていく。
月の精はソラに気づくと、微笑んだ。
「ようこそ、ソラ。今夜は月夜のメヌエットを聴かせてあげるわ」
その声は風のように優しく、ソラの胸に直接触れるようだった。
精はゆっくりと舞い、光の波をソラに向けて送った。
その瞬間、ソラの胸に眠っていた小さな揺らぎ、不安や迷い、少しの寂しさが浮かび上がるのを感じた。
音はそれをそのまま映し出し、柔らかく抱きしめるように伝わってきた。
「揺らぎ……心の奥にある小さな波か」
ソラはつぶやき、目を閉じた。
月光と旋律に包まれると、心の中で小さな不安が溶け、やさしさに変わっていく。
街の静寂も、夜風も、星々も、すべてがこの音に共鳴しているようだった。
精は光の楽器を軽やかに弾き続け、ソラを中心に旋律の輪を広げる。
その輪の中に立つと、ソラは自分の心の揺れが、音となり、空気に波紋のように広がるのを感じた。
喜びや笑い、切なさや思い出……すべてが音になり、月夜の空に溶けていく。
「音はね、ただ外に響くだけじゃない。心の奥にあるものも映し出してくれる。そして、その揺らぎをそっと抱きしめてくれるのよ」
精の言葉は、ソラの胸の奥にそっと染み込んだ。
ソラは深く息を吸い、手を差し伸べた。
すると、光の波が指先に触れ、温かく流れ込む。
揺らぎが消えるのではなく、旋律として形を変え、心に優しいリズムを刻む。
それは、夜空の星の瞬きと呼応するように、柔らかく、静かに響き続けた。
「ありがとう……」
ソラはつぶやき、月光に照らされながら微笑む。
街の静けさの中で、心の揺らぎは音になり、迷子だった小さな不安も解き放たれた。
月夜のメヌエット。
それは、夜空と心をつなぐ優しい旋律。
ソラはその音に身を委ねながら、未来への一歩を静かに踏み出した。
夜風が頬を撫で、星が瞬き、街は静かに息をする。
月の精は微笑みながら、光の楽器をそっと空に浮かべ、旋律を夜の街に溶け込ませた。
ソラはその光景を見上げ、胸の奥で確かに感じた。
どんな心の揺らぎも、音と共に優しく包まれるのだ、と。




