無音の塔と失われた旋律
冬が去り、春の光が街を満たし始めたある日、ソラは音の街の中心にある“無音の塔”を見上げて立っていた。
塔は、古く高く、周囲の街の建物と比べても孤高にそびえている。
その壁は灰色の石でできており、窓も扉も閉ざされて、外からは中の様子はまったく見えない。
塔のまわりには、不思議な静寂が漂っていた。
通りを歩く人々も、塔の近くでは足音を潜め、話し声すら控えるように思える。
「ここが……無音の塔……」
ソラは塔の前に立ち、深呼吸した。
これまで、音の街で季節ごとの旋律を聴き、雪や風、落ち葉や水の音と向き合ってきた。
しかし、この塔だけは違った。
外からも中からも、まったく音が聞こえない。
静けさだけが支配する世界。
それがソラを少し緊張させた。
塔の扉は重く、冷たい石でできていた。
手をかけると、ぎしりとわずかな軋みが響いたが、それ以外は何も聞こえない。
ソラは息を整え、ゆっくりと扉を押した。
中に足を踏み入れると、石造りの階段が上へと続いていた。
壁には細かい装飾や古い絵が描かれているが、何も音を立てない。
空気は静まり返り、呼吸する自分の胸の音さえも吸い込まれるように消えていく。
「……音が……ない」
階段を一段一段上るごとに、ソラは自分の心臓の鼓動を意識せざるを得なかった。
どくん、どくん、どくん
塔の中では、それが唯一の“音”のように感じられた。
やがて、塔の中程に小さな踊り場が現れた。
そこには古い鏡が一枚置かれていた。
鏡は静寂の中で淡く光り、ソラの姿を映す。
しかし、よく見ると、自分の胸元に小さな光の粒がちらちらと浮かんでいるのに気づいた。
(あれは……音……?)
ソラが手を伸ばすと、光の粒は指先に触れると消えるのではなく、柔らかく温かい感触として残った。
その瞬間、心の中にかすかな旋律が浮かび上がった。
音が鳴っていないはずなのに、心で聴くと、確かにそこに“ひとつの音”があった。
「これが……僕が探してきた音……?」
そのとき、階段の上から、淡い光が降りてきた。
ソラが見上げると、塔の最上階の扉の向こうに、光を纏った存在が立っていた。
姿は人の形をしているが、輪郭はふわりと揺れ、まるで空気や光そのものが人の形になったようだった。
「ようこそ、ソラ」
その声は直接心に届くように静かで、優しく響いた。
「長い旅だったね。季節の音を聴き、雪や風、落ち葉や水の声を感じて、ついにここまで来た」
ソラは息を整え、声を震わせながら答えた。
「……僕は、ずっとこの音を探していたんだ。無音の塔の中にある“ひとつの音”って……」
存在は微笑み、手をひらりと上げた。
すると、塔全体の静寂が微かに揺らぎ、光の粒が舞い上がった。
そして、空気の中に小さな旋律が浮かび上がる。
柔らかく、温かく、でもどこか切ない音。
それは、今までソラが聴いたすべての季節の音を包み込み、ひとつにしたような音だった。
「この音こそ、失われた旋律。街の中心にある無音の塔は、音を失ったのではなく、音を集め、熟成させる場所だったのよ」
存在は穏やかに説明する。
「ここで待つのは、ただひとつの音。それを見つけられる者だけが、街の音をすべて受け止めることができる」
ソラは息を呑み、階段をさらに上った。
胸の奥の鼓動と、光の粒の温かさが共鳴し、階段を登るたびに“音”が自分の体に染み込むようだった。
塔の最上階に到着すると、ドアの前に立つ存在はさらに光を増し、穏やかに手を差し伸べた。
「さあ、ソラ。準備はいいかな?」
その手を取ると、静寂の中に包まれた空間が一瞬にして広がり、光と音がひとつに溶け合った。
ソラは目を閉じ、深く息を吸った。
そして、心の中で“ひとつの音”を聴く。
それは、これまで旅してきたすべての季節の旋律が集まった音だった。
風の音、落ち葉の音、川のせせらぎ、雪のエチュードーーすべてが重なり合い、まるで街そのものが歌い始めたかのようだった。
「……これが、僕の探していた音……」
存在は優しく頷く。
「そう。これこそ、君が街で見つけるべき音。失われた旋律は、どこにも消えていなかった。 ただ、聴くべき者を待っていただけなの」
ソラは深く息を吐き、光と静寂の旋律に身を委ねた。
胸の奥に、小さな勇気と温かさが広がる。
無音の塔は、街の中心にありながら、音のすべてを宿していたのだ。
夜空に星がひとつ、塔の上から差し込む光と共に輝く。
ソラはその光を見上げ、心の中で誓った。
どんな音も、どんな季節も、僕は忘れない。
そして、失われた旋律を、この街のすべての人と分かち合うんだ。
無音の塔の最上階で、光の存在とともに、ソラは初めて本当の意味で“音を聴く”ことを学んだ。
失われた旋律は、静寂の中にこそ存在する。
そう実感した瞬間、塔の空間全体が淡い響きで満たされ、ソラの胸にやさしい波となって押し寄せた。




